「劇場文化」掲載エッセイ

バベルの塔
竹下節子

昔、人々はひとつの言葉を話し、天まで届く塔を建てようとした。それを見た神が、互いの言葉が分からないようにしてしまったので、塔は完成しなかった。旧約聖書の『創世記』に出てくる「バベルの塔」のエピソードである。キリスト教は、旧約聖書の中で展開された神と人間との約束と裏切りをめぐる葛藤を終わりにする形で現れた。懲りずに罪を重ね続ける人間たちを罰する代わりに、神はついに自分の独り子キリストを人の中に送ることにした。それは命を宿す「ことば」が受肉したものだった。「ことば」であるキリストは、人々の罪を背負って十字架につけられ、死んで、復活した。キリスト教の「福音」とは、信仰と希望と愛によって人は永遠の命を得られるという救いの「ことば」のことである。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はいずれも同じストーリーを共有する神のことばによる「啓示」の宗教だ。ユダヤ教とイスラム教は神の姿を描いて拝む偶像崇拝を排斥するが、キリスト教では少しニュアンスが違う。それは超越神であるはずの神がラディカルに人の姿でやってきて「福音」を告げたからだ。天に向かったバベルの塔は捨てられ崩れ落ちたけれど、命のことばであるキリストはいつも人々の中で生きている。一つの言葉を奪われてちりぢりになった人間は、神のことばによって永遠の命に結びつけられるのだ。

長い間カトリック国であったフランスの文化は、神と言葉と人間との間に紡がれたこのような関係性を基盤にして築かれてきた。アートは神のことばを人に伝える技であり、預言者としてのアーティストは、神のいのちの息吹である聖霊にインスパイアされて、いのちのことばが分かち合える形になるように、音にしたり図像にしたり文芸や演劇の形へとメタモルフォーズしてきた。無数のアーティストの指が同じ彼方を指す。表現のし方は多様であったけれど、彼らは常に同じ風音を聞こうと耳をすましていたのである。

いったん作品の形になったアートには、神ならぬ人間の限界が露出している。けれどもその限界とは、窓のない壁でもなく空を遮る天井でもない。それは果てしない大洋を前にした絶海の岸辺で、そこに立って耳をすませさえすれば、途切れることなく寄せては返す波の音が聞こえてくる。その大洋は、陸にいるすべての命の故郷であり、人の体には海水と同じ組成の水がめぐっている。人は、海を、知っているのだ。


そのようなアートの風景を一転させたのが、「西洋近代」だった。西洋近代の民主主義の基盤にある自由や平等の概念は、キリスト教における人間の自由意志や、神の前の平等の考え方から来ている。けれども、その近代の実現は、権力と結びついて特権を死守しようとするキリスト教を否定する形で成された。だからこそ、宗教権威を否認する代償として、西洋は神とそのことばを失ってしまった。それでも芸術家は自らクリエーター(創造者)となって、作品を生み出し続けた。西洋近代は人間が神の座に着いた時代でもあったのだ。しかし、やがて、ポスト・モダンがやってきた。そこではすべてが相対化され、人はもはや神でもなく神の似姿でもなく、市場経済の労働力や消費者でしかなくなった。

そして、アートは?

芸術作品は、市場で消費される商品となった。値段がつけられ、消費の欲望が煽られる。芸術家と芸術作品との間にあったアート、作品を生み出した命のことばは作品から消え去り、芸術作品はもはや波の音を聞く水際ではなく、窓のない神殿、偶像、まがい物の神になったのだ。それらは大量のコピーが可能な偶像であり、コピーは脈動のないヴァーチャルな世界を一瞬にしてかけめぐる。速くて手軽で消費者を分断するデジタルのつるりとした迷路がどこまでも増殖する。もうだれも波の音に耳をすまさない。バベルの塔で天に届こうとする者はなく、天を指さす指の落とす影を買うばかりだ。グローバル化する市場で欲望に火をつけるために通用するのは、意味のない記号や、薄っぺらな感傷や、心地よい刺激である。オリヴィエ・ピィの芝居の中の「詩人」は、このことを、人々がまたもや「同じ言葉を話している」と形容するのだ。でも、二一世紀の人々が「同じ言葉」を大量に吐き出して築いているのは神をも恐れぬバベルの塔ではない。天にむかう塔のない、ネットワークだけのバベルのヴァーチャル・シティなのだ。

中身のない情報、個性のない興奮、ゆがみのない図像、毒のない言葉、希望のない約束は、だれの手にも届きそうに、至るところに垂れ流されている。にもかかわらず、人々は、喉の奥でかすかな乾きを覚えている。人生という劇場で役を振られている人々は、ツールとしての言葉を使い回しながら、求められる役を演じるけれど、存在の深いところで人を変容させる言葉にはもう出会えない。


『若き俳優への手紙』では、そのような問題意識をラディカルに表現する「詩人」の前で、関係性に生きるほんとうのことばを失った現代人の心のひだが次々とすべて展開され配して見せられる。まるでプラトンの対話編を読むようだ。ことばの秘跡を呻吟しながら生きる「詩人」の前に、それを皮肉る者から、凡庸さに居直る者、あきらめの姿勢から次第に共感していく者、ついには「詩人」よりも過激で狂信的な理想家まで、いろいろな立場の人々が現れては、詩人をあざ笑ったり、詩人の話に聞き入ったり、自己満足の独り芝居を繰り広げたりする。彼らはオリヴィエ・ピィが想定するすべての現代人の代表であるとともに、彼が話しかけるすべての若き俳優たちの内部にある葛藤や懐疑や絶望や狂熱が形になって現れたものでもある。このあざやかな手法によってオリヴィエ・ピィは、演劇における言葉の危機というものが、たんに時代の変化や立場の相違などに因るものではなく、人と人とのリアルな関係性を希薄にする実存的な危機であることを明らかにするのだ。

それは、グローバリゼーションの時代の安易なユニヴァーサリズムへの強烈な批判でもある。市場経済の中でのユニヴァーサリズムは大衆向け、万人向けの形をとる。言葉の壁を超え、文化の垣根を越えて世界中に通用するには、「言葉に意味を持たせない」ようにすればいい。それは上滑りする記号や、表層の気分転換、一時的なドラッグ、疲れた肉体と感性に訴えるつるりときれいなコミュニケーションという対症療法でしかない。


ルネサンスにギリシャ悲劇が復活した時、その象徴的意味を最も根源的に継承したのはフランスだった。演劇だけではない。抽象的な音楽や名人芸の方に発展したイタリアやドイツ系バロック音楽と違って、フランスのバロック・オペラは意味を担う語り物であることにこだわり続けた。それは、やはり音楽が語り物であった日本の「言霊(ことだま)」の感性と似ている。けれども、フランス・バロックも邦楽も、ユニヴァーサルな商品として流通する西洋近代音楽にやがて席巻され、「語り物」は魂を奪われて呻吟している。現代のバベルとは、全能を渇望して天へと向かった過去の塔ではない。魂のない言葉で薄められた凡庸という逸楽の癒しの町なのだ。言葉にもう一度いのちを吹き込むことを信じるオリヴィエ・ピィの作品を、言語の違いを超えて日本語で上演することは、真のユニヴァーサリズムが私たちを結びつけ変容させる錬金術であることを期待させてくれる。

竹下節子 文化史家、評論家。専門は宗教思想史。『パリのマリア ヨーロッパは奇跡を愛する』(筑摩書房、1994年)、『アメリカに「NO」と言える国』(文春新書、2006年)、『無神論 二千年の混沌と相克を超えて』(中央公論新社、2010年)等多数。

オリヴィエ・ピィ、または「歓喜する絶望者」の使徒
ドゥ・ヴォス・パトリック

はじめに『常夜灯』ありき。 一九九五年のアヴィニヨン演劇祭は、オリヴィエ・ピィなる人物の恩寵によって、本物の祝祭、本物の集団的冒険となった。最低から最高まで、崇高から滑稽まで何でもありの俳優たちが、怒濤のリズムで繰り広げる二十四時間の舞台。いかなるコンプレックスとも無縁で、自己をさらけ出し、悦びとエネルギーとをおしげもなく分け与えるのだ。戦争、愛、「言葉」(その秘密は最後まで明かされることがない)によって召喚された四人の主人公の終わりなき精神的探求、骸骨たちのダンス、傷ついた天使、墓場、正真正銘のほら吹き男、飽くなき復讐心に突き動かされて行った殺人を舞台俳優という職業によって覆い隠すミステリアスな黒人ヌール、変装した神様の訪れを受けた若い女性、「引き出し」という名の道化等々、ここにはあらゆるものがある。さらにはジャンルの混淆、というよりもジャンルの「接ぎ木」(悲劇がたちまちミュージックホールになったり、知的な会話がいきなり大衆娯楽(ブールヴァール)劇になったりする)というべき、いよいよ驚くべき手法が見られるが、ここにはモダンなもの、ポストモダンなもの、あるいはポストドラマ的なものをやろうなどという意志は毛頭なく、古風なスタイルへの愛着も多少感じられるものの、よく見ればこれまで知られていたいかなるものとも似ておらず、結局のところ全くラディカルに新しいものなのである。とにかくここでは、何かを理解しようとするのだけはやめた方がいい。『繻子の靴』序文の口上役の言葉(ピィがこの戯曲を上演するよりもはるかに前の話だが)を思い出すのがいいだろう。「お前たちが分からないところこそ、一番面白いところなのだ。」ピィの燃えさかる詩にはいささかもシュルレアリスム的なところはないが、彼の作品を読めば、ロートレアモンがシェイクスピアを読んだときのように、「ジャガーの脳を解剖しているかのような」印象を受けるだろう。というのは、ピィのわざと安っぽくしてあるゴミゴミとした舞台のなか、そこに立ち現れる突然の詩的飛翔のなかには叙事詩的なもの(おとぎ話からジュール・ヴェルヌまで)の力への盲目的な信頼があり、グロテスクなものがつねに精神的・形而上学的なものと戯れ合うこの果てしない追いかけっこには、母国に背を向けた私にとってもっと安心できる参照項もあって・・・どこか唐十郎の演劇に似ていなくもない。

この『常夜灯』でもう一つ魅力的だったのは、あえて薄暗く調整された照明だった。自らのみを照らす裸電球の明かりが重い夜のとばりを刺し貫く。暗闇のなか頼りなげに揺らぐこの明かりは、我々の時代の暗さを表しているのではないか、と誰もが思わざるを得なかっただろう。そもそもこの作品の題名自体、この光のメタファーに焦点を当てるものだった。

『常夜灯』というのは実際、劇場の用語で—こうしてこの作品は冒頭から演劇性に言及しているわけだが­—、上演が終わったあと、舞台の中央に置いてつけっぱなしにしておく裸電球のことを意味している。こうして常夜灯は劇場を翌日まで、俳優と観客が戻ってくるときまで見守るのである。常夜灯は、演劇は決して完全に終わることはない、ということを示す「炎」であり、世界が眠っているあいだ、その動きを静かに見守っているのである。この大河戯曲の構造は、ピィ自身が言うように、演劇というものが世界の「余白において」、独自の時間性にもとづいて、独自の歩みをしながら生きているものだということを教えてくれる。この戯曲のはじめの状況は戯曲の最後の状況でもある。つまりこの戯曲は、文字通り一つのサイクルとなっている。舞台上部に書いてあったように、「決して終わらない」ために、この戯曲は最後になると最初に戻るのだ。だからこの作品は、この世界の時間のなかには—たとえ「気晴らしの時間」のなかであろうと—、自らの場所を見出すことはできない。この戯曲は自律的な時間であるかのように、もう一つの別の世界であるかのように存在している。だからアヴィニヨンでは『常夜灯』が七日七晩にわたって上演されたのである。この作品はこうして有限性を脱することを、そしてつかの間の芝居が世界と同じだけの権利をもつトポス、あるいは地上に存在する世界の彼岸となることを夢見たのだった。これほどまでに演劇のユートピアを突き進めた者はたぶんこれまでいなかっただろう。

ところが七月一四日、この永遠の祝祭のただなかに、まるで自らの取り分を要求するかのように、「世界」が突然闖入(ちんにゅう)してきた。スレブレニツァの陥落と、数百人の市民の虐殺が伝えられた。ユートピアの演劇『常夜灯』は人類の歴史の「余白」に留まったまま、無限運動をつづけることができるのだろうか?この「詩人」の返答はとてもクリアーなものであった。芝居のなかである時、彼は観客に向かって語りはじめ、筆を取り上げ、舞台装置(作品全体を通じて使われている唯一の装置)の上に巨大な黒い十字を描いたのである。拒否の十字、木の舞台装置の上に切り開かれた傷口としての十字、苦痛を自らのものとして受けとめる十字。演劇の時間はこの傷口から逆上して飛び出し、自らを鞭打って、見下げはてた現実に対する叛逆を企てたのである。

三年後にピィは、極限にまで切り詰められた「芝居」を上演した。『スレブレニツァへのレクイエム』である。この作品はほとんど最初から最後まで、新聞・雑誌の記事や、単に事実を、ボスニアでの虐殺の残虐さを語る証言でできている。叙情も演戯も演劇性も舞台を去った。『常夜灯』では白く柔らかい木の舞台であったが、今度はゴツゴツとして冷たい金属でできた舞台の上に、苦痛を受けた者たちが、起きた出来事を語る言葉だけが響いた。

この「詩人」の道程において、『レクイエム』は脇道や脱線ではなかった。この作品は自らの芸術に対するラディカルな問いかけであり、その後の全ての作品がこの『レクイエム』の「聖痕」を負うことになる。一年後にピィが書き、自ら演じた『若き俳優への手紙』は、一見するとたしかにそうは見えないかも知れない。ここでは演劇性が(そして「手紙(エピートル)」という言葉からも窺えるように、カトリックにおけるその象徴性も)明白に、しかも以前よりも強烈な形で回帰している。これが可能になったのは、演劇性が深い闇の上に新たな均衡点、新たな場所を見出したからである。演劇性は再生した。だが、この再生の母胎となったのは内蔵を揺さぶるような嘔吐感である。スレブレニツァの鋼(はがね)はこの舞台ではゴルゴタの階段となって立ちはだかり、服を脱ぎ捨てた俳優がその下にたどり着く。俳優はそこで、スタンダード化され、グローバル化され、収益性が考慮され、責任という概念が失われた「コミュニケーション」と「文化」という名の現代のカッサンドラ【訳注:予言を信じさせる力を失ったトロイアの予言者】のあらゆる形象と出会い、そのなかで「悲劇」の仮面とともに階段を一段ずつ上がっていこうとする。俳優は自らの悦びの炎によってこれらの形象にしかめ面をさせ、舞台上の火刑台で焼き尽くすことで、これらを一つ一つ取り除いていく。

これらの形象や仮面(叛逆する詩人の仮面も含め)を上にあげ、高く強くほうり投げ、砕いたのちに我々に与えるのが、「言葉」の役割である。「言葉」は、絶えずこれらの虚飾を取り除きつづけ、開かれた言葉でありつづけない限り、世界に耳を傾けることができなくなる。『常夜灯』では、「言葉」のメッセージがつねに秘密のベールに閉ざされ、捉えがたかったため、逆に「言葉」が流通しやすかった。だが『レクイエム』以降、そして『手紙』では、「言葉」が怒りの炎をもって敵につかみかかる。だが、この戦闘で使われるのは「演戯」や「悦び」といった実戦的でない(だからこそ我々に勝利をもたらす)武器である。この「言葉」の受肉は苦痛を伴うが、「恩寵」に導かれている。ピィによれば、俳優は歓喜する絶望者である。二年前、静岡の観客の前を去ったジョン・アーノルドの最後の視線にも、このことを読み取ることができたのではないか。

ドゥ・ヴォス・パトリック 東京大学教授。専門分野はフランス演劇、舞台芸術理論。論文に「失われし身体を求めて」(『表象のディスクール3』、2000年)等多数。