「劇場文化」掲載エッセイ

伝統と現代をつなぐ熱い血
石井達朗

今まで何度も韓国を訪れてきたのには、二つの理由がある。一つは現代舞踊関連。これは、わたしが韓国の大学・学会・舞踊フェスティバルなどで日本のコンテンポラリーダンスや土方巽から現在まで続く「舞踏」について話をする講演者として、あるいはたんに韓国の現代舞踊公演をじかに見るため観客として訪れたということである。韓国の五〇前後の大学に舞踊学科があると聞くと、日本の舞台関係者は一様に驚く。そればかりではない。韓国で開催される舞踊フェスティバルの数は、日本とは比べられないくらい数が多い。踊ることが心底好きな国民なのだ。韓国政府も舞踊を重要な文化政策として位置づけ、後押ししている。

もう一つの理由はまったく違う。日韓の民俗学・宗教学の研究者らと一緒に、韓国のさまざまな地域に根付いてきた土着の儀礼や巫術(シャーマニズム)などの調査に同行したのである。このフィールドワークのお蔭で、一般の韓国の人たちもふだんあまり見ることがないような伝統的な祭祀に出会い、得がたい経験をしてきた。祭儀のプロセスなどはだいたい大変にわかりにくいものだが、その分野の専門家がそばにいることで大いに助けられた。とくにムーダン(巫堂)によるクッ(巫儀)には、忘れがたいものが少なくない。ソウルを始めてとして済州島、珍島、東海岸、全羅道などを回ったが、とりわけ別神祭(ピョルシンクッ)、死霊祭(シッキムクッ)などが脳裏に焼きついて離れない。

ソウル郊外の北漢山城(プカンサンソン)にある祭堂で、家内安全・無病息災・商売繁盛などを祈願する財数(ゼス)クッを見たときのこと。ある家族の依頼による私的なクッである。ムーダンの一行が夜の帰り道、小さなバンでわたしを地下鉄の駅まで送ってくれた。皆、車の中で飲み食いしている。別れ際、年老いた小太りのムーダンがわたしに大きな黄色いメロン(供物として祭壇にあったものだ)をくれて、『オモシロカッタデスカ?』と日本語で聞いた。突然の日本語にわたしが『オモシロカッタデス』とオウム返しに答えると、彼女の顔が初めてほころんだ。これから六時間以上をかけて半島を横切り南下して、慶州(キョンジュ)をとおり蔚山(ウルサン)まで帰るのだという。清濁併せ呑むこのムーダン一行には、生命力と生活臭がただよっている。地下鉄の入り口でメロンを抱えて彼らを見送るとき、わたしは妙に感動していた。

東海岸の漁村で行われた別神祭を見たときは、終わってから、海を見下ろす小高い丘の上にゴザを敷いて村人たちの宴席が始まった。数人の漁師のおかみさんが持ち寄った食べ物と酒が、粗末な長テーブルいっぱいに並ぶ。辛くて美味しい韓国の田舎料理。このようなときにいつもそうなのだが、どの村の人々であれ、わたしのような「よそ者」を気軽に食事に招いてくれる。言葉が通じるとか通じないとか、外国人であるとかないとか、そんなことを気にしないおおらかさがある。逆の立場で、日本の田舎の祭りに韓国人の研究者が来たとしたら、われわれは同じように寛大に振舞えるだろうか。

どこの地域でどのようなクッを見ても共通していたのは、形に収まりきれないような韓国の人々の身体性の豊かさである。秩序や洗練よりも、律動と情感を大切にして、まっすぐに表現する。一般的に、様式性を大切にし、抑えること・婉曲的であることを美学にする日本とは異なる。そんな朝鮮半島の大地に根付いた血流は当然のことながら、現代の舞踊や演劇にも流れている。韓国のコンテンポラリーダンスの舞台を見るたびに、それを感じている。

ダンスに比べると、わたしの見ている韓国の演劇はずっと少ないが、そんな少ない経験の中でも、呉 泰錫(オ・テソク)、李 潤澤(イ・ユンテク)、金 亜羅(キム・アラ)などの作品に流れる熱い血がいまだに強く印象に残る。テレビや映画でなく、劇場空間のナマの出会いにおいてこそ似て非なるお隣の人たちとの体感をとおした交流ができるのだ。

石井達朗 舞踊評論家。早稲田大学講師。慶應義塾大学名誉教授。著書に『身体の臨界点』(青弓社、2006年)、『異装のセクシュアリティ』(新宿書房、1991年/新版2003年)等多数。

李潤澤(イ・ユンテク)、釜山のいたずらっ子
西村博子

李潤澤さん――というと、私には釜山のいたずらっ子という感じ。それもヤンチャで好奇心、想像力いっぱいの、である。そのせいで、釜山カマコル小劇場発のアングラ、今言う〝小劇場演劇〟ないし〝オルタナィテブ演劇〟がソウルへ、東京へと発し、やがて韓国演劇界の様相を変える大きな力の一つになったのでは?と思われてならないのだ。今や彼の舞台は数え切れないほど日本へヨーロッパへだし、もうすぐ中東へも飛んでいく。

アングラと言ったのは、ふつう常識的にこれが演劇だと思われているものに対して、ほんとにそれだけが演劇?と疑いをつきつける〝もうひとつの演劇〟のこと。日本では60年代半ばに起こったが、それまでの演劇が、外国の翻訳劇か、誰か他の作家の戯曲か、とにかくそれを有難くいただいた演出家が作家の意図や作品のテーマを忠実に再現する、いわば「他」の伝達だったのに対して、これは、自分の伝えたいこと、内から衝(つ)き上げるものを、自分の持てる力と可能な方法で立ち上げようとする果敢な挑戦であった。したがって、立派な舞台がなければ路上でいい、有り合わせの貧しい空間でいい。作品は自分で書く、他作品を利用するもよし。しかし舞台はあくまで創るものの自己表現であった。俳優も含め、自分の手に入れられるすべてで舞台を創る。その貧しさをこそ魅力へと引っくり返すのだ。

実際、李潤澤さんに初めて新宿のタイニイアリスに来てもらったとき(演戯団コリペ 1990)。出しものは李鉉和作・李潤澤演出の「サンシッキム」だったが、車の故障で高速道路から降りてきたモダン女性が、道路下の巫女の家で祈祷を受け、倒れたその女性を見ると体が紐で南北に分断されていたというもの。当時の朝鮮半島の近代と前近代がリアリティを持って伝わってくる優れた舞台だった。が、ふと気づくと、いっしょに来日されたソウルの著名な作家、李鉉和氏が、舞台を見ようとされないのだ。公演中は外出だった。舞台がもとの作品とよほど違ったものに改変されていたからだ、と仄聞した。

三回目に来てもらった日韓合同公演「セウォリチョッタ―歳月の恵み―」(1992)の演出もそうだった。作は岸田理生さんの書き下ろしだったが、舞台は、死者たちが甦り、それぞれ愛する人々と交歓するという大まかな構造だけを採って、あとは、普通の日本人だった登場人物の関係をそれぞれ昔と今、日本人と韓国人とに変え、大量の台詞もほとんど全部カット、身体表現にしてしまうという大胆な改変だった。一つの台詞の変更さえ許さなかったと聞く理生さんが、よくまあ、黙認してくれたものだと今からは思うが、舞台の魅力に言葉を出さなかったにちがいない。ちなみに、この「セウォリチョッタ」には若き日の宮城聰さんも、美加理さんも出演してくれていた。懐かしい。

まだ軍政下だった韓国から潤澤さんには、今挙げた「サンシッキム」「セウォリチョッタ」のほかに、李潤澤作・演出の「死婚」(1991)、「李潤澤の末世物語」(1993)の計4作。四年続けてタイニイアリスに来てもらった。「死婚」のときはついでに名古屋、大阪、新潟で公演してもらったし、「セウォリチョッタ」は新潟、大阪のほかにニューヨーク、サンフランシスコ公演をしてもらった。その間、いたずらっ子潤澤さんの本領発揮、数々のエピソードが思い浮かんでくるが、今は残念ながら割愛しよう。ただいたずらの中には、有るもので遊んでるだけ、コリペのpoorを魅力に引っくり返しただけと見せて、恨(はん)への想いをそっと重ねるというのもあったことを言い添えておきたい。マダン(広場、人の集まる場所)の芸能は日帝植民地時代、引き続く米占領下、軍政時代にも禁じられていたと聞くが、潤澤さんは、まだ大学出たばかりの襄美香、宮廷舞踊の花や、美しいチマチョゴリを着た美加理の日本人に、いま人間国宝と聞く河龍夫のマダンの凡夫舞を組み合わせ、朝鮮半島の死とそれからの蘇りとを描いたのだった。

日本ではよく、李潤澤さんと演出家蜷川幸雄とが対比的に語られる。けれども私に言わせれば二人は全く違う種類の演出家である。その大きな一つは、李潤澤さんは自作も多く、その底には常に自分探し、identityへの好奇心がひそんでいるということ、であろう。蜷川演出に氏のオリジナル作はない。

先の「死婚」「李潤澤の末世物語」も自作・自演出だったし、昨年5月、4度目か?に新築された釜山カマコル小劇場のオープニング・フェスティバル。ラッキーにもテープカットの初日に私は観劇できたのだが、その4本のうち3本、トップの「美しい友情」が自作、2本目の「女中たち」は演出のみ、ラストの「ソンスックのお母さん」は自作自演出だった。

その潤澤さんの処女作「オグ」――今を遥か、20年近くも昔のことだが、ソウルで2度見た――には、韓国の、葬式の棺桶からでさえ立ち上がり会葬の人々を大笑いに元気づけるオモニ(母)が描かれていた。これこそ韓国!というのであろう。おそらく潤澤さん自身のお母さんから発想されたにちがいないと私は思った。

昨2009年8月、16年ぶりに潤澤さんがまたタイニイアリスに来てくれたのだが、その「コリア・レッスン」、もとはイオネスコの「授業」なのだけれども、原作の、膨大な言葉の暴力が人を殺すというのをすっかり引っくり返し、壁に映した台詞は短いのがたったの38。その代わり、教授役の李承憲が自分の男性シンボルをナイフにして女生徒を突き刺したのだった。韓国では下半身の露出ができず、タイニイアリスで初めてできたと聞いたのも嬉しかったが、まったくイオネスコに、こういう受容もあるよと見せたかったぐらいの素晴らしい出来ばえだった。その、韓国の連続殺人犯とも重ねられた教授が、終わり近くマリアのような女中にすがり、救いを求めて甘えたこともすこぶる興味深かった。どうしてそう言うかは分かる人にしか分かってもらえないことだけれども(^o^)、これは李潤澤その人であり、ほかの誰でもなかった。私は客席でひとりニコニコしていた。

今回の「太陽の帝国」も、原作はチェ・イノとあったが、台本も演出も李潤澤さん。したがって、たとえ劇世界は紀元400年、日本にやってきた武人、陶工、学生たちに託されてはいても、その底流には李潤澤さんのidentityがあるに違いない。「コリア・レッスン」のアフタートークのとき、李潤澤さんのお父さんが日本の敗戦後?か、実際に日本に来られて両国を往復。奥さん?も韓国と日本と両方にあったと聞いたから、である。後者のことは聞き違いかも知れず、少々怪しいが、李潤澤さんがパスポートなんてもののなかった昔に仮託して、韓国と日本の歴史的関係、相互の人の行き交いやその同化と異化について深い想いを伝えようとするのは間違いない。と私は確信している

ついでに、で恐縮だが、今年の10月1〜3日に李潤澤総監督の「Floor in Attic――屋根裏の床を掻き毟(むし)る男たち」がまた東京新宿2丁目のタイニイアリスに来てくれることをお伝えしたい。前後に、日本演出者協会主催による李潤澤さんのワークショップも東京と大阪で開催される。私の見るところ、彼の本能的とも言える敏感な空間感覚はこれまで、設備の整った大劇場、額縁舞台より、小劇場の不便で貧しいスペースでのほうがより遺憾なく発揮されてきた。SPACの野外劇では果てしない空間をどう制覇するか、いろいろ見比べてもらえたら幸いである。

そしてその「床を掻き毟る男たち」。もう一言付け加えると、キム・ジーホン作、イ・ヨンジョ演出と、李潤澤さんの下で育った若い人たちの組み合わせだが、この4月に、東亜演劇賞のBest PlayとBest New Director、Best Stage Design、三つも受賞したというメールが届いた。さらに驚いたことには、その舞台美術賞は李潤澤さんなのだった。彼は初め演出、次に自作・自演出、ときには出演もから出発し、次第に俳優の演技、とくにその心と体の関係に関心を深めていってユンテク・メソッドを創り上げ、今や各地でワークショップを開くほどになったが、今度は美術、である。舞台のことなら何にでも好奇心いっぱい、できることなら全部自分一人で創ってしまいたいいたずらっ子の面目躍如と言わなければならない。今後彼の手は一体どこまで伸びていくのだろう。ますます目は離せない。

西村博子 NPO ARS理事長。小劇場タイニイアリス代表取締役兼アリスフェスティバル・プロデューサー。著書に『蚕娘の織糸 日本近代劇のドラマトゥルギー』Ⅰ,Ⅱ(翰林書房、2002年)等。