「劇場文化」掲載エッセイ

母と娘のワジディ・ムアワッド交感記
コリーヌ・ブレ&ロラ

ロラ、ワジディ・ムアワッドの芝居を見たときの感想を話してくれる?
(ロラは私の娘、ケベック大学モントリオール校(UQAM)で演劇を勉強している。数ヶ月前に、ワジディ・ムアワッドの芝居を見て大感激したと聞いた。)

これまで見た中でいちばんトリップをさせてくれた芝居! 一瞬たりとも目が離せなかった。夢中だった。

見ることができて運がよかった。その10日くらい前に、UQAM大学でワジディの講演を聞きに行っていた。彼は劇「SEULS」(ひとり)」の話をした。私はこのアーティストはまだ知らなかったが、周りの学生たちはわくわくしていた。彼の講演はものすごく面白かった。

芝居の製作プロセスを話したりしながら(自分を部屋に閉じ込めて、そこで自分を撮影して・・・)、その芝居を紹介した(絵の具風呂があるとか!)。なにもかも気になって、見たいと思った。問題は… SOLD OUT !

ところが、ルームメートのガブリエルは、劇場のチケット売り場に友だちがいた。二人でその劇場へ行って、しかしやっぱりチケットがなくて、明日来るように言われた。次の日も満席だったが、劇場のディレクターが後ろの方に椅子を2つ置いてくれた。そのおかげで、ワジディの芝居を、一番上一番後ろの席で見られた。コンタクトレンズと眼鏡を両方つけて! ディテール一つも見逃したくないからね。

素晴らしかった!

気にいったのは、その芝居の全体というか、全体のバランス。そしてビデオ・ワーク、そしてワジディの影。事前に撮影されて、魂のようにベッドの上で寝ていた俳優の中から上がって行く・・・。全ての音、演出、変わって行くセットや色やライティング。思い出すかぎり、なにもかも気にいった!「SEULS」というタイトルも大好き! 舞台の上でそのことが素晴らしく表現されるの。それを感じる、とてもリアルに。ワジディはすべて、なにもかも自分でやっている! 息を飲むほどの激しいリズムで! 私はファンになった!

劇場を出たら、友だちのガブリエルに、芝居がどれほど気にいったかを話したり、サン・ドニ通りの家までずっと飛び跳ねたりした。胸は感動でいっぱいだった。あまりにも素晴らしい何かを見た時に“生きたい”、“いろんなことをやりたい”という気持になる感じ。

最後のシーンは信じられない出来です。主人公の狂気が一度に出て来てしまう感じ。短刀でめった切りにされるところ、あんなにたくさんの絵の具・・・。初めは乱暴、しかし描き出すと、アララララ・・・美しくて、魔法のようだ。感動して泣いてしまった。

そうしたら、これらすべての色や動きなど、自分自身が小さかったときの思い出が頭に浮かんだ。だから先に言ったように、ワジディの演劇がトリップさせてくれた。自分の思い出の中で旅させてくれた・・・



娘ロラの感動を受けて、私はまだ知らないワジディ・ムアワッドのShizuoka春の芸術祭2010出品作品「LITTORAL」(頼むから静かに死んでくれ)の脚本を、大きな好奇心につられて、一気に読んだ。

第一印象は、なんて熱い、なんて濃い脚本なんだ。これって、平和に暮らしている日本人の観客はどう受けとるのか。親近感を覚えられるのか、共感できるのだろうか。あまりにも生々しくて、耐えきれないほどの暴力的イメージもある。私が生まれたモロッコ、そして暮らしたアルジェリアは独立戦争中で、小さいころは恐ろしい光景をたくさん見ているから、ワジディ・ムアワッドの世界観には親近感を覚える。しかし、戦争の危機感を想像すらできない若い日本人たちは、理解できるかな?...

しかし、待って。娘ロラは日本生まれ日本育ちの19才、つまり平和な環境しか知らない。それでもワジディ・ムアワッドの荒々しい世界に見とれた。おかげで自分自身の記憶の中で旅できた、ということも言っている。なぜ? 答えはまだないが、答えの変わりに言葉のかけらはいくつか浮かぶ。夢、現実、詩のパワー、エネルギー、真実。・・・切実な真実。きっとそれだ。平和な国で生まれ育った娘ロラと戦争を知ったワジディの世界観との接点の一つだろう。

夢がいっぱい、妥協したくない、エネルギーに溢れる、真実しか聞きたくない女の子の心を奪える彼の精神は、純粋な少年のままに違いない。劇作家として作っている暴力的現実の背景にあるのは、そしてストーリーの底に流れているのは、主人公の美しい、子どものままの気持で、その対比をうまく利用している。ワジディ・ムアワッドの劇を理解するためには、優しさと残酷さを背中合わせにした、記憶の中にある子どもの自分を呼び起こすといい。

コリーヌ・ブレ 元、仏「リベラシオン」紙の特約記者。 主な著書に『赤ちゃん・ザ・革命人』(世界文化社)、『山猫の愛のように―おべんとうのなかのエロス―』(読売新聞社)、『人間アナーキー』(編著、モジカンパニー)。

悲情な世界と闘う武器は、イマジネーション!
—アヴィニョン演劇祭で魅了された、奇想天外な生命の讃歌—
桂真菜

■家族の絆、そして愛ゆえの憎しみに震える

南フランスのアヴィニョンは14 世紀の約70年間、カトリック教皇がローマから移り住んだ由緒ある古都。教皇庁宮殿の周辺は歴史地区として、ユネスコ世界遺産に選ばれた。街を囲む石壁を穿った門をくぐると、時代を遡るような緊張が走る。でも、少し歩けば気分は寛ぐ。カフェテラスのパラソルが立つ通りには洒落たホテルやブティックが並び、レストランからはプロヴァンス名産のワインやオリーヴの香りが漂う。

文化的な催しが盛んな地域だが、とりわけ1947年に始まったアヴィニョン演劇祭は世界屈指のレベル。近年は夏の1カ月近い期間、各国の舞台芸術関係者と演劇ファンおよびジャーナリストが集う。芝居やダンスを鑑賞する場所は、劇場のみならず教皇庁中庭、学校の体育館、校庭、公園、石切り場、と多彩だ。広場では大道芸人やピエロが得意技を披露し、サーカスのテントや回転木馬は子供連れの家族で賑わう。郊外の会場に向かう道には一面のひまわり。暑い日中は上演が少ないから、フラミンゴや白い野生馬に会えるカマルグ湿地帯を訪れてもいい。

大規模なフェスティバルが開かれる風光明媚な中世都市には、数えきれない楽しみがある。けれども、私がアヴィニョンに通った最大の理由は、実験的な表現と現代社会を鋭く問う作品がそろうからだ。1999年の夏には戦争をモティーフにした3作品に、演劇の力を再認識させられた。オリヴィエ・ピィ作・演出『スレブレニツァに捧げる鎮魂歌』とジャック・ドゥルキュヴルリ演出『ルワンダ1994』は、ドキュメンタリー的な手法もいかして民族紛争が招いた大量虐殺に迫った。バルカン半島と中部アフリカで起こった悲劇はそれぞれ違うし、両作品の構造もまったく異なる。だが、犠牲者を悼む祈りは通底していた。

人間の対立を考えさせるもう一本の傑作が、ワジディ・ムアワッド作・演出『頼むから静かに死んでくれ』。私は奇想天外な設定に驚きながら、悲しみを超えて歩む登場人物に励まされた。いたましい話をユーモアでくるみ、幅広い層に訴える工夫も冴えていた。家族の絆、そして愛ゆえの憎しみに震えた舞台は今も胸に残る。

カナダのフランス語圏、ケベック州から参加した演劇人が同作を22時半から上演したのは、教会に隣接したセレスタン修道院の中庭。昼間30度を超える気温は日没から下がり、石のアーチの回廊がめぐる野外の客席は冷えこむ。だが、深夜におよぶ3時間半近い公演は年代も背景もさまざまな観客を惹きつけ、途中で帰る人はいない。終わったときには、拍手が鳴りやまなかった。帰り際、席を立つとき、知らない観客同士も微笑んでうなずき合ったが、目に涙が光る人も少なくなかった。

■舞台を輝かす「無敵の幼な心」と呼びたいパワー

国境を越えて人々の心を打った作品には、誰でも経験する家族との別れに、戦争の惨禍が重なる。心身の傷の痛みに耐えながら立ち上がろうとする、全ての人を応援するドラマだ。亡き父を葬るため父の祖国に向かう息子を追う物語は、作・演出家であるワジディ・ムアワッドの来歴を彷彿とさせる。彼が1968年に生まれたレバノンはイスラエルとシリアに国境を接し、キリスト教徒とイスラム教徒が微妙なバランスで共存してきた。70年代にはPLO(パレスチナ解放機構)が流入して内戦が起こり、76年に8歳のムアワッドは両親に連れられてフランスに亡命。十代半ばを迎えた83年には、カナダ移住を余儀なくされた。

中東から逃れてきた異邦人の立場で西欧、次いで北米に生活を移す負担は重い。気候や言語をはじめ、慣れない環境につまずく日々……。『頼むから静かに死んでくれ』の主人公の青年ウィルフリッドが想像上の「アーサー王の騎士」に助けを求める姿に、少数派として外国に渡ったムアワッドの心細さが透ける。同時に、想像力で現実に対抗する主人公の内面を視覚化する表現は、「無敵の幼な心」と呼びたいパワーを放つ。ウィルフリッドの幼時からの武器であるイマジネーションは、ムアワッド自身の深い孤独が磨きあげた宝剣かもしれない。

銃弾に破壊されるベイルートで味わった恐怖は、戦闘で怪物化した人物を戯曲に呼び込み、救済を願う言葉に結晶。錬金術師のように、暗い記憶を煌めく表現に換えてしまうのだ。実際に会ったムアワッドは笑顔を絶やさず、メガネの奥の目はやさしい。困難を詩情豊かな作品に昇華するしなやかな強さが、落ち着いた話し方から伝わってきた。

フランス語の原題Littoralは『沿岸』という意味で、レバノンが地中海に面していることを想起させる(戯曲では父の祖国は特定されない)。邦題はウィルフリッドが父に抱く気持ちだが、なんと、死んだ父は話すのだ! 出生時に母を亡くしたウィルフリッドを父は親族に預け、放浪先で亡くなった。なぜ、父は自分を避けたのか――その理由を知ったウィルフリッドは、父を遠い故郷の村に葬ろうと決意する。

埋葬場所をさがすウィルフリッドと一緒に、私も冒険の旅に出発。現実と想像が混ざりあう展開に驚きながら、素早く切り替わる場面を追ううち、錯綜する時空間を軽々と往来していた。

■「話す死体」は笑いをよび、いとおしい存在に思えてくる

ひとり何役もこなす俳優たちは、身体を駆使して見えない川の水も見せてしまう。騎士を演じる俳優は運動神経抜群で、道化の役割も担う。装置は軽い数脚の椅子とピアノだけで、役柄に沿って俳優が太鼓やヴァイオリンを奏でる。装飾を排した舞台は、イメージを羽ばたかせやすい。

ウィルフリッドは父を背負って自らの根源をたどるうち、成長していく。死者と生者が交流する設定は幻想的であっても、甘いおとぎ話に閉ざされはしない。父は聖人ではなく、怒れば悪態もつく。親密さを増した父子の喧嘩は、ありふれた家族に似て客席の微苦笑を誘う。

時間につれて死体の色と匂いがひどくなる現象も見どころ。ゾンビ方面の描写ではないので、ホラー嫌いでもだいじょうぶ。死体が変容するプロセスは、遊び心から深淵を照らすムアワッド演出の面目躍如。肉体が朽ちる無常を滑稽さに転じ、観客を爆笑させてしまうのだ。遺骸はグロテスクな物ではなく、懐かしくいとおしい存在に思えてくる。

たどりついた故郷の村には戦争の爪痕が残り、地下は死体と地雷だらけ。悲しいエピソードは、普通の人を狂気に巻き込む乱世を映しだす。親の死に衝撃を受けた青年の声に、むごい光景が浮かぶ。共同体からはじき出された若者たちと進むウィルフリッドの前途に、海が……。

終幕にさしこむ光は「夢は現実から逃げる手段ではなく、現実に向き合うためのツール」と囁く。眼前の事実だけでは生き延びられない。虚構や死者への思いも、明日への糧なのだ。

そして10年後、『頼むから静かに死んでくれ』は2009年のアヴィニョン演劇祭で再演される。後に書かれた3編が連なる『約束の血』四部作の第一部として、荘厳な教皇庁中庭で熱狂的に迎えられた。少年時代にビザ更新を拒まれた国の重要フェスティバルに、アソシエート・アーティストとして招かれ、四部作を連続上演したのだ。

ムアワッドの希望をこめた代表作は2010年春、静岡芸術劇場に来日する。危機のなかで誕生した尊い命を祝福する讃歌が、観る人を勇気づけるだろう。

桂 真菜 舞踊・演劇評論家、ジャーナリストとして複数のメディアに寄稿。新聞、雑誌などで書評や美術評論も手掛ける。早稲田大学非常勤講師。アンダーグラウンドからハイカルチャーまで、多彩なアートの現場に身を運び、芸術と社会の関係を探求。