■ 昭和34年生まれの僕は人形劇を見て育った。テレビは人形劇だらけだったし、小学校でも人形劇一座がやって来たり、人形劇を見に遠足したりした。親も人形芝居に連れていってくれた。手遣い人形や指人形で遊ぶのは子供たちの基本だった。
■ 週日夕方のテレビはNHK人形劇。僕は1959年生れだが、『銀河少年隊』(63〜65)『ひょっこりひょうたん島』(64〜69)『空中都市008』(69〜70)『ねこじゃら市の11人』(70〜73)『新八犬伝』(73〜75)を欠かさず見た。
■ 民放でも、ジェリー・アンダーソンとルー・グレイドのコンビによる『海底大戦争スティングレイ』(日本放映64〜65)『サンダーバード』(放映66)、『キャプテンスカーレット』(日本放映68)が流れ、テレビの前に釘付けだった。
■ 民放では、影絵劇から出発した藤城清治の木馬座による『木馬座アワー』(66〜70)が流れ、かぶり物のケロヨンが大人気。親にねだって、木馬座の公演に何度か連れて行って貰った。
■ 影絵劇時代の木馬座は、1952年のNHK試験放送開始から局専属となって名を馳せ、56年には影絵劇『銀河鉄道の夜』が多くの賞を受賞した。これを教育テレビで見た私は、原作を買って貰って賢治ファンになった。
■ 影絵劇『銀河鉄道の夜』の映像が記憶に残っていたお陰で、長じてブジェチスラフ・ポヤルの人形アニメ『飲み過ぎた一杯』(53)を見た際、あるシーンを見て「木馬座の銀河鉄道みたいだ」と小躍りし、以降チェコ人形アニメのファンになった。
■ 恋人に逢いに行く途中、立ち寄ったバーでの婚礼の宴に高揚して飲み過ぎた青年が、時間を取り戻すべくバイクを飛ばす。夜闇の中を蒸気機関車が牽引する列車と競争。踏切で列車の直前を横切ると、列車は夜の鉄橋をアーチを描いて渡る。このシーン。
■ 京都の自宅から山の斜面を昇ると、新幹線の高架橋が見えた。日没後の斜面に座り、夕闇を滑走する車窓の列を見るのが好きだった。木馬座の影絵みたいなことが出来ないかと、ボール紙を繰り抜いて幻灯機の前にかざした。
■ 当時の京都には戦前の名残があった。学校帰りには山科駅の裏手に出没する紙芝居屋に寄り道した。話は覚えていないが、ウエハーに毒々しい色のジャムが塗られたジャム煎餅を十円で買って、最前列で鑑賞した。
■ 祇園祭のような大きな祭りがあると、山科盆地から山を超えて京都盆地に連れて行ってもらった。夜の円山公園では、「蛇から生まれた蛇娘、親の因果が子に報い…」の口上も懐かしい出し物を、篝火に囲まれた見せ物小屋で見た。
■ こうした成育環境の総体が、子供たちに人形劇リテラシーを与えた。つまり「物語ではない凄いもの」を「人間ではないモノ」が媒介する、という不思議な体験を可能にしていた。子供たちは、人形が乱舞する世界を、話が分からなくても、凄いと感じた。
■ 江戸糸操人形遣いの結城一糸氏は、人形の凄さを「闇の力」と呼ぶ。僕なりに翻訳すると、〈社会〉に由来するのが「横の力」(例えば物語の力)で、〈世界〉に由来するのが「縦の力」(例えば人形の力)だ。なぜ人形に力が降りるのか。
■ バタイユの影響を受けたリーチは、奇形などのシニフィアンの隙間を、未規定性の噴出口と見做し、「境界の状態」と呼んだ。人形は「境界の状態」を呼び込む。だから社会関係とは独立の「縦の力」を人形が帯びる。
■ 2006年7月31日、新宿のプーク人形劇場で平常の芝居『毛皮のマリー』を見た。江戸糸操人形「結城座」の芝居みたいに、ある時は黒子の人形遣いとして、ある時は人形と同格の役者として、それも男役として、女役として、彼は自由自在に立ち現れる。
■ 人形も、棒遣い人形、手遣い人形、指人形など色々。マネキンもこれら動く人形と同格に「見立て」られる。「見立て」のマジックは物にも及ぶ。コーヒーカップがバスタブに、古新聞がドレスになる。
■ 汗を噴出させながらこれら「見立て」のマジックをたった一人で立ち上げるべく孤軍奮闘する平常の存在自体が、一分のすきもなく鍛え上げられた肉体もあって、「一体この者は何者なのか」という未規定な「境界の状態」に直面させられる。
■ たくさんの人形劇を見てきた僕にとっても、人形遣いが人形と同格の役者にもなるというレベルを超えて、異様な変幻自在ぶりを示す人形遣いの存在自身が、一つの見世物になるという体験は、初めてだった。
■ 確かに原初的祝祭の隠喩がある。男女が入れ替わり、主従が入れ替わり、物と人が入れ替わり、人と神が入れ替わる。かくして、男が男、女が女、主人が主人、従者が従者、物が物、人が人、神が神であるような「日常」が、ありそうもない奇蹟として現前する。
■ だがそれに留まらず、何もかもがフラットになった僕たちのポストモダンな「日常」を、いかようにもありうる秩序の高々一つとして現前させようとして、孤軍奮闘している平常という存在そのものが、何だか、ありそうもない奇蹟として現前してしまうのだ。
■ 僕は、うまく規定できないものを見たなというフワッとした印象と共に帰路についた。僕にとっての日常と、平常にとっての日常は、どれほど違っているだろうと思いを巡らせた。すると「平常」という奇妙な表記自体が一つのアイロニーだと思えてきた。
■ そうした印象のおかげで、あの寺山修司『毛皮のマリー』の世界は、一つの「劇中劇」みたいなものとして、疎隔されて立ち現れたのだった。「平常という芝居空間」の中で、芝居空間の部分品として上演される寺山芝居…。個人化の時代に相応しい隠喩だとも感じる。
■ そのことが持つ意味を詳述する紙幅はない。ところで、僕と20歳以上も離れた1981年生まれの彼が、人形リテラシーを獲得する機会が乏しい世代に属するのに、どうしてかくも異形の存在たりうるのかという謎について、僕はいまだに分からないままだ。
宮台真司 社会学者。首都大学東京教授。著書に『14歳からの社会学—これからの社会を生きる君に』(世界文化社、2008年)、『日本の難点』(幻冬舎新書、2009年)、『中学生からの愛の授業』(コアマガジン、2010年)等多数。
1974年の夏、私はほとんど演劇の知識がないまま無謀にもニューヨークへ出かけた。その年、ある新聞社の演劇担当記者になったばかりで、今はない東京キッドブラザースのニューヨーク公演を観るためだった。作・演出は東由多加で、劇団の主宰者でもあった。彼らはその4年前にも渡米し、ミュージカル「黄金バット」を上演した。この時、ニューヨーク・タイムズ紙は「すばらしいオリジナル・ミュージカル」と絶賛した。翌年は「八犬伝」、翌々年は「西遊記」を持って欧米を巡り大成功を収めた。
そして、74年は新作ロック・ミュージカル「ザ・シティ」公演である。埋立地を遊び場にしていた少年たちが、団地の出現で遊び場から追放される。少年たちはトマト・ゲームで、自分たちを閉めだしたガードマンに抵抗する。オートバイに乗って疾走し、団地の壁の寸前で飛び降りるゲームである。一人の少年がゲームに失敗して死ぬ。ジェームス・ディーン主演の映画「理由なき反抗」を重ね合わせ、少年の日の訳も分からぬ苛立ちを甘酸っぱく思い出させはするが、ただそれだけの作品だった。
東京公演を観た時、新米の演劇担当記者とはいえ、劇団には気の毒だが、過去の栄光に泥を塗るのではないかと危惧した。実はニューヨーク公演に出かける前、東と成功するか失敗するか大議論したのだが、不幸にも私の失敗の予想が的中してしまった。
彼らの公演した劇場は、オフ・オフ・ブロードウェイのカフェ・ラ・ママといい、日本にもなじみの深い黒人女性、エレン・スチュアート女史が経営している。世界の演劇人に門戸を開き、有名なところではピーター・ブルック、タデウシュ・カントールらもこの劇場で公演している。日本の演劇人もかなり世話になっている劇場だ。
この劇場のロビーで意外なポスターを発見した。発見したなどと大げさにすぎるが、鉄棒に羽のように取り付けられていた何枚ものポスターをぐるぐる回していて、寺山修司作・演出の「毛皮のマリー」に目が止まったのである。その頃の私は、寺山が70年にアメリカの俳優を使って、「毛皮のマリー」を演出したことなど全く知らなかった。無知以外の何物でもないが、無知はそればかりではなかった。
東由多加が寺山修司主宰の演劇実験室・天井桟敷の創立メンバーで、しかも67年に今や伝説の映画館アートシアター新宿文化で「毛皮のマリー」が初演された際には、演出を担当するはずだった。「はず」と書いたのは、彼が〝敵前逃亡〟したので、仕方なく寺山修司が演出したからである。最初に紹介した東のミュージカル志向を見れば、彼の〝逃亡〟は当然の帰結だったろう。
「もし」という仮定が許されるならば、東由多加が早稲田の学生時代、寺山修司の処女作「血は立ったまま眠っている」を演出しなかったならば、寺山の歌の別れはなかったかもしれない。まして、命を賭してまで演劇にのめりこんでいくことはなかったろう。最低でも演出家・寺山修司は存在しなかったかもしれない。つまり、東は万華鏡のような存在の寺山に対し、「演劇人」というさらなる肩書きを加える役目を負わされていたのではなかろうか。
「寺山修司の戯曲1」(思潮社刊)の作品ノートには、「演出・美術・照明・音楽 寺山修司」と記されているが、美術も横尾忠則の担当だった。笑い話のような話が残っているが、横尾の美術は大きすぎて映画館に入らなかったという。それで、二つに切って搬入しようということになり、横尾が怒り出して美術も寺山の担当となったという。急なことなので、舞台美術は毛皮のマリー役の丸山明宏(現・美輪明宏)の私物を利用したという。嘘のような本当の話である。
この駄文に目を通されている方は、書き出しの東由多加のアメリカ公演など関係ないと思われることだろうと察してはいる。しかし、先にも書いているように東の寺山を演劇の世界に誘い込んだ功績の大きさと、「毛皮のマリー」にまつわる不思議な因縁を感じて紙幅を大きく割かせてもらった。
余談から始めたのだから、さらに余談を続けると、天井桟敷の後期の傑作「奴婢訓」のアメリカ公演の最後は、エレン・スチュアートに「アメリカで公演する時には私のところで」と言われていた通り、カフェ・ラ・ママに隣接する新しい劇場ラ・ママE・T・Cを選んだ。80年5月にサウスカロライナ州チャールストンで開かれた「スポレート・フェスティバルU・S・A」に招かれ、その帰途の公演だった。
その頃、寺山修司は既に肝硬変に蝕まれていたが、ニューヨークで合流した時の彼は意外に元気そうだった。先にピーター・ブルックの一行が公演して行った舞台に少し手を加えただけの美術を楽しむ余裕すら見せた。ニューヨーク・ポスト紙などは「過去一年間で観た最高の作品」とまで書き立てた。「ピーター・ブルックにだけは負けたくないと思ってね。今は目いっぱい戦ったボクサーの心境だよ」と、寺山は公演の評価の高さに満足そうだった。
寺山修司の亡くなった1983年5月3日をもって、事実上解散を余儀なくされた演劇実験室・天井桟敷は、1967年4月、見世物の復権を唱え「青森県のせむし男」で旗揚げした。この年、「大山デブコの犯罪」「毛皮のマリー」と立て続けに上演し、スキャンダラスな話題を提供した。
旗揚げに当たって天井桟敷は、「奇優怪優侏儒巨人美少女等」を募集した。新劇が体制ならば、もうこれだけで反体制、つまり既成の演劇には目もくれず、かつて見世物小屋に息づいていた怖いもの見たさの祝祭性に目をつけたのである。女装劇「毛皮のマリー」は、夜十時からの公演に観客が入りきらず、深夜に二回も公演して述べ五千人の観客を動員したという。
寺山修司は既存の作品から想を得て、あるいは引用して本来の作品以上に寺山修司の作品にする天才だったが、「毛皮のマリー」にも原作と思しき作品がある。童話の「白雪姫」はもちろんのこと、アメリカの劇作家アーサー・L・コピットの「ああ父さん、かわいそうな父さん、母さんがあんたを洋服だんすの中にぶら下げてるのだものね ぼくはほんとに悲しいよ」(国書刊行会刊)である。
一人息子を部屋に閉じ込めて教育する母親、その母親は亡き夫のトラウマを秘めている。息子はそんな母親の元を離れられず、部屋に訪ねて来た少女に恋心を抱いて、外界に憧れても逃れることは出来ない。「毛皮のマリー」の男娼のマリーと欣也との関係が、まさしく「ああ父さん…」を踏襲している。確かに引用はしているが、寺山修司は不条理劇をメタシアターに仕立てている。
欣也の母親である毛皮のマリーは、実の母親ではなく男娼である。男娼が母親という遊びは、女が疑似の母親といよりもより演劇的である。そして、その当時名を馳せたゲイバーのママさんたちを踊らせることによって、寺山修司は「万てのにんげんは俳優である」という論拠を確立する。
このオカマの踊りのアイデアについて寺山は、入江美樹からサンフランシスコで週一回仮面を付けた素人の女たち(主婦や女教師)がストリップを踊る、という話から発想を得たと書いている。美輪明宏はいまだに毛皮のマリー役に固執し、欣也は若松武でなければならない、と決めつけている。初演の欣也は萩原朔美だったのだが…。
母と息子の愛憎は、「毛皮のマリー」に限らず、寺山のあらゆる作品の原点となっているが、この戯曲ほど数多く上演される寺山作品はほかにないと思う。今回は母親が男娼という虚構から人形という虚構の存在になるが、どのような魂が吹き込まれるのだろうか。
北川登園 演劇評論家。日本大学芸術学部非常勤講師。著書に『職業、寺山修司。』(STUDIO CELLO、2007年/春日出版で文庫化『寺山修司入門』2009年)、『トットちゃんの万華鏡—評伝黒柳徹子』(白水社、2005年)等多数。