2014年7月29日

『室内』ヨーロッパ・ツアー レポート(7)

『室内』アヴィニョン公演制作兼字幕オペの米山です。

今回は字幕のことをご紹介します。

モンファヴェホール客席
↑客席は8列、全部で210人ほど座れます。
 
今回私はこの客席の一番後ろにある机に座って、
ここから字幕を出しています。
ちなみにプロジェクターを挟んで反対側には、
前々回のレポートで布施が紹介したピエールさんが
照明の操作をしています。

オペ席から舞台を眺めるとこんな感じです。
字幕オペ席からの眺め
↑稽古休憩中
 
そして、手許の様子。
 
字幕オペ席手許
↑操作用PC(左)と字幕オペ用テキスト(右)
  
海外でSPACの作品を上演する時、
また海外の作品を日本で上演する時、
いつも字幕は悩みどころです。

どこに、どのくらいの大きさの文字で表示させるのか、
そのためにどのような機材を使うのか、
しゃべっている台詞に対して
どれくらいの割合を字幕として表示するのか、
そして、コマ割りや表示のタイミングは、、、。
と考え出すときりがありません。

その作品の舞台美術や作品全体がつくりだす世界を
邪魔したり壊さないように、
それでありながら、お客さんが舞台を観つつ字幕も読めて、
ストレス無く、内容を追っていける落としどころを、
探さなくてはなりません。

演出家や舞台美術家をはじめ、様々なスタッフと相談しながら、
そういうことを考えるのも、お客さんと作品をつなぐ
制作担当の仕事のひとつです。
 
 
では、『室内』のような舞台全体が暗い闇と沈黙に包まれ、
俳優の台詞や動きもとてもゆっくりとしていて、
お客さんも息をひそめてそれを見守るような作品で、
字幕はどうなるのかというと、、、。
 
 
私はアヴィニョン公演で
ようやくそれを目の当たりにすることができたのですが、
レジ氏のとった方法は、見事でした。
 
まずは、字幕として表示させる文章は、
台詞の中でもその場面や作品全体のキーになる
センテンスだけに絞り込まれています。
 
字幕テキスト
 
この写真の中のオレンジの線で塗られた部分だけが、
字幕として表示されます。
 
そしてこれらのセンテンスが、舞台中央の壁の一番下の部分に、
(上の舞台の写真の白い舞台のすぐ上の黒い部分です。)
あたかも闇の中からじわじわと浮かび上がってくるかのように、
数秒かけて表れ、
また数秒かけてじわじわと闇の中に消えていきます。
演劇の字幕といえば、ぱっと消えてぱっと消えるものだと
思い込んでいた私には、
こんなふうに字幕を
あたかも作品の一部であるかのように、
作品世界を壊さずに取り込むことが可能なのかと、
驚きでした。

アヴィニョンでは、ウィーンとブリュッセル公演で既に調整された
字幕素材を元に操作しています。

海外初演となるウィーンで字幕オペをされた現地の方は、
劇場での稽古期間中、レジさんの要望にしたがって、
このフェード・イン/アウトのタイミングなども含め、
字幕素材の細かい調整をされたとお聞きしました。
本当に大変な作業をしてくださったのだと思います。

そんなバトンを引き継ぎ、
舞台空間やそこにいる俳優、そしてお客様や字幕まで含めて、
一つの空間ができあがるレジ氏の作品世界に
加わらせていただくという、
とても貴重な体験をさせていただいております。

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*『室内』ヨーロッパ・ツアー レポート バックナンバー (1) (2) (3) (4) (5) (6)
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2014年7月28日

【アヴィニョン・レポート】 リベラシオン紙に吉植荘一郎インタビュー掲載

リベラシオン紙に『室内』出演の吉植荘一郎のインタビューが掲載されました。
またまた、SPACの会会員の片山幹生さまが翻訳してくださいました!

※元文はこちら

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吉植荘一郎インタビュー:「レジは沈黙を聞きなさいと私たちに言いました」
(インタビュアー:ルネ・ソリス)
『リベラシオン』紙 2014年7月17日

INTERVIEW「俳優が演出家との仕事について語る」

宮城聰の劇団の俳優、吉植荘一郎は『室内』で老人役を演じる。宮城の劇団の他のメンバーたちはアヴィニョン演劇祭で『マハーバーラタ』の上演に参加している。

─最初にメーテルリンクのテクストを読んだとき、どのような感想をもちましたか?
そんなに難しくはなかったのですけれど、読んだ翌日には頭にほとんど内容が残っていませんでした。水のように流れ去ってしまいました。もし普通の演劇のように、沈黙の重要性を考慮しないままメーテルリンクの作品を演じたら、それはとても凡庸なものになってしまうでしょうし、観客は書かれていることの面白さは理解できないでしょう。

─メーテルリンクは日本で知られているのですか?
『青い鳥』だけは知られていますが、沈黙と無意識の重要性は理解されていません。むしろ子供のための道徳的な童話だと思われています。

─でも沈黙は能の本質的要素ですよね?
確かにそうなのですが、現代演劇の場合はそうとも言えないのです。稽古では、クロード・レジは私たちに沈黙に耳を傾けるようにといつも言っていました。なぜなら沈黙がわれわれに様々なことを教えてくれるからです。しかしメーテルリンクにとっての沈黙は独特のもので、それは喋らないということだけではなくて、聞こえないことに耳を傾けることでもあるのです。

─それは能の考え方とは遠くないのでは?
能との共通点は死であると言うことができるでしょう。聞こえないことに耳を傾ける、そして見えないものに目を注ぐ。そう、まさにクロード・レジはこの点で、日本の伝統演劇と出会ったのです。

─ではあなたは、どんな演劇をやってらっしゃるのですか?
私の演劇はクロード氏の演劇の対極にあるものです[編集部注:吉植氏は相撲取りのように腕を組んでしゃがみ込んだ。それから大きなうなり声をあげて、高らかに笑った]

─最初の稽古のとき、あなたはこんなふうに演じたのでしょうか?
もっと静かに話さなくてはならないということはわかっていました。静岡の半地下にある劇場で作品は初演されたのですが、そのとき私は、声の音量を下げれば下げるほど、観客の注意を引きつけることができることを感じました。まるで私の重心がとても低い位置にあるかのように。私はこれに気づいたとき、非常に感動しました。

─観客たちも感動していましたか?
観客は驚愕していました。観客のひとりは劇場の出口で「夢のようだ」と言いました。

─日本では観客は行儀がいいのですか?
そうですね。客席に入ったとたん、日本の観客はお喋りをやめます。そして上演中に会場を出ることもない。

─クロード・レジの稽古はどんな感じなのでしょうか?
大きすぎる声で話してはならないと彼はいつも私たちに言います。完璧というのは存在しないんだ、でも毎晩毎晩同じ状態を取り戻すためにはあらゆる事をしなくてはならない、と説明してくれたこともあります。この言葉に、私は日本の古典の冒頭が思い浮かびました。「ゆく河の流れは絶えずして、 しかももとの水にあらず」

─レジはあなたがたに自由を許してくれますか?
束縛された状態があるからこそ、人はより自由な精神を持つことができます。静かに話すことによって、より注意深くなり、身体のなかにより深い感情を探しに行くことができるようになります。

─この経験は俳優としてのあなたを成長させるものになると思いますか?
私がこれまでやってきた演劇の中では、何かが私に欠如していました。重要なことはいかにしてエネルギーを感じさせるかということです。沈黙に耳を傾けること、それはよい方法です。

訳:片山幹生(SPACの会 会員)

※編集部注の補足
実際には吉植は記者の前で、両膝を床につき、踵に尻をつけた態勢で、『王女メデイア』(宮城聰演出)の使者の報告の一節を実演してみせたそうです。

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【アヴィニョン・レポート】 L’Humanité紙に『室内』記事

ル・モンド、リベラシオンに引き続き、ユマニテ紙に掲載された『室内』公演の記事をSPACの会会員の片山幹生さまが翻訳してくださいました!
ありがとうございます!

※元文はこちら(仏語)
※ル・モンド掲載記事はこちら
※リベラシオン掲載記事はこちら

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アヴィニョン:レジによる暗闇のレッスンの恍惚
アヴィニョン演劇祭 ジャン=ピエール・レオナルディーニ
『ユマニテ』紙 2014年7月17日(木)

[写真キャプション]クロード・レジはもはや取り戻すことのできないものを提示する。水死した若い娘。意識のない小さな身体を女たちが見守る。(撮影:三浦興一)

メーテルリンクの『室内』を、日本語で上演する。このフランス人演出家は、言葉では伝えられない領域のなかで、常により遠くの地点に向かって進んで行く。この希有な時間は音楽によってかき乱されることはない。そこで人が耳にするのは、喪失と哀悼を伝えるために丁寧にコントロールされた人間の声だけだ。

(アヴィニョン特派員)クロード・レジは、横山義志の日本語訳によるモーリス・メーテルリンクの『室内』の翻案を上演する。静岡で初演されたこの舞台は、すでにこの五月にウィーン(オーストリア)とブリュッセルでも上演された。さらに秋の芸術祭のプログラムとして、9/9から9/27までパリの日本文化会館(Maison de la culture du Japon)でも上演されることが決まっている。

 レジがやってくるのを、私たちは静かに待っていた。騒がしさとは無縁の事件が起こるに違いない。熱狂からは避難して、モンファヴェの多目的ホールで私たちは、レジを待っていた。レジはこの機能的で没個性的なホールを瞑想のための空間に変容させた。2009年に、ジャン=カンタン・シャトランとともにフェルナンド・ペソアの『彼方へ 海の讃歌』をレジが世に送り出したのも、この同じ場所だった。

〈奇妙な言語がわれわれの耳元で鳴り響く〉
 メーテルリンク (1862-1949)は、レジにとって、精神的な面における兄とも言える存在である。レジは1985年に[パリ郊外の]サン=ドゥニのジェラール・フィリップ劇場で『室内』を上演し、それからそのちょうど十二年後に[同じメーテルリンク作の一幕劇、]『タンタジルの死』を上演した。今回上演される『室内』では、言葉の楽譜に空白が目立つ。表現は切り詰められ、暗示的になっている。この新しいバージョンで、レジはほとんど沈黙といっていいような地点に到達した。

 その静けさのなかで、かすかに聞き取ることができる声がある。その声が話すのは、われわれの耳には奇妙に聞こえる言語、まったく別の世界からやってきた言語だ。それはどんな世界なのだろうか? おそらく潜在的な喪失を抱える世界だ。その世界は真っ白な砂地の広がりのなかにある。その砂地の上を、静かにゆっくりと人々が行き来する。その人々の姿は、あたかも音楽的な秩序に合わせて変容するかのような照明(レミ・ゴドフロワ)の奥に映し出される、華麗な書体で書かれた文字のようだ。この舞台では音楽は使用されていない。人の声が奏でる音楽だけがある。不安はこのためさらに増幅される。

 精妙にコントロールされた声は、取り返しのつかない悲劇があったことを告げる。若い娘が水死した。その様子は、オフィーリアの最期を思わせる。舞台の中央では、子供がひとり眠っていて、女たちがそれを見守っている。大きな永遠の眠りと小さな一時的な死の対比。詩人の直感は、無意識のうちに思い描かれたある種の精緻な儀式の進行にしたがって、われわれの目の前で具現化される。観客のわれわれは、芝居の外側から、息を飲んでその様子をうかがい見る。部屋の室内の様子を注意深く見守る彼ら、室内の様子を描き出す彼らの存在に、われわれはほとんど心奪われている。その家のなかでは、こどもが横たわり、眠っている。若くして死んでしまった娘を弔う行列が徐々に近づいている気配がする。

〈そして漆黒の闇は光を放ち始め、光に包まれる〉
 精神分析用語から取られた「悲哀の仕事」という表現は、その使い勝手のよさゆえに、あらゆる機会で用いられるようになったため、陳腐な紋切り型になってしまった(「レジリエンス(精神的回復力)」も同様だ)。しかし暴力的なイメージの傲慢さのなかでもまだ隠喩が機能していたときには、悲哀の仕事は、われわれの目(かつては「魂の窓」と呼ばれたこともあった)の前で、適切なかたちで遂行される。クロード・レジは、観念的な瞑想の演劇を抑制した行為のなかで作ってきたが、これほど遠くの地点に到達したことはこれまでなかったのではないだろうか。

 密やかな知覚の測量士としてのレジの技量は、今やその最高点に達し、その芸術は昇華され、リンボ(古聖所)のすぐ側にまで行き着いた。レジの作品を通して、われわれは死を味わうことができるとまで言えば言いすぎかも知れないが、彼の作品は、死をかいま見せ、感知させ、その匂いを嗅がせてくれる。レジの作品で問題となっているのは、バロック的な表象である「空しさ」ではない。このバロック的表象には、予兆と去ってしまった存在への悲嘆が詰め込まれている。レジの作品はそうではない。われわれは1時間45分のあいだ、中間状態、物事の本質について思索するための時間領域のなかにいた。メーテルリンクが「暗闇の海」と呼ぶ世界が目の前に広がる。

 われわれはこれほど深い暗闇と出会ったことはなかった(ピエール・スーラージュ(1919-)の絵画にはこれに匹敵する闇が存在するかもしれない)。この暗闇は光り輝き始める。そして灰色のあらゆるスペクトルがすみずみまで探索された後で、この暗闇は光に包まれ、われわれはそのなかに人影を見分けることができるようになる。人影は、絵画のように縁取りされた舞台の長い長方形のなかから、ゆっくりと現れ出る(舞台美術はサラディン・カティール。彼は大岡舞とともに衣装も担当している)。

 レジの深遠な構想は、彼の持つ絶対的な統治権のもと、『室内』という作品のなかで実現され、明らかになった。薄暗い明るさが意味を照らし出し、そこから彼の構想が明らかになる。レジが宗教的な領域において超越性を求めているのかどうか私は知らない。しかし彼にとって重要なことは、それぞれの人間が背後に抱えるあらゆることがらについての終焉を共有することではないだろうか。そして感覚的で具体的な経験を通して、死がわれわれにとって身近なものになったとき、この共有は行われるのである。

訳:片山幹生(SPACの会 会員)

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2014年7月27日

【アヴィニョン・レポート】 Le nouvel Observateur紙に『室内』記事

Le nouvel Observateur紙にも『室内』記事が掲載されました。
※元文はこちら(仏語)

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クロード・レジ、壮麗

 クロード・レジ演出、日本人俳優出演のモーリス・メーテルリンク作『室内』は政治にもふれず、神にもふれてはいない。だが、我々をのめり込ませ、あらゆる感覚の幅を広げさせる。この公演はまさに壮麗である。

 舞台中央には子供が横になって眠っている。その小さな身体は夢や天使のように無重力状態にあるかのようだ。まだ娘の死を知らされていない家族の一人息子だ。地面も壁も弓形にかたどられたとても柔らかく控えめな光の中に家族はいる。それ以外は闇だ。娘の死をすでに知っている人々が闇空間で話をし、屍を担いでやってくる喪の一行がゆっくりと野原からやってくるのを見ている。そして、一行の歩みを描写しながら家族に告知する瞬間を遅らせている。俳優たちの緩慢な歩みと身振り、声(日本語)は痛みというものの振動を強烈なまでに体現している。ここでは全てが放射線を発してくる、ゆっくりとした速度で。観客は中間にいる、生と死の狭間に。この芝居は子供の死を告げるその瞬間とその一言が永遠に広がっていくのを見事に捉えている。

 パリのフェスティバル・ドートンヌで再演時により詳しい記事を書くが、上演時間は1時間30分。形式だけで我々を魅了しようとは全くしていない。ただ、とても深い、自分に近しい位置での高い集中力を要求してくる。クロード・レジは、世界の喧噪から遠く離れたところで、時に挑戦し、あらゆる意味での地平線を押しやり、そして、『室内』をもって演劇の美を賞讃している。(モンファヴェ劇場にて7月27日まで)
 
オディール・キロ
ヌーベルオブセルバター ビブリオブ 2014年7月22日版
 
(翻訳 浅井宏美)
 
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2014年7月26日

『室内』ヨーロッパ・ツアー レポート(6)

SPAC制作部『室内』担当の米山です。
俳優布施に続き、アヴィニョン演劇祭のツアーレポート第二弾です。

俳優や技術スタッフがツアーの最中、
制作の私は、静岡でお留守番しながら、
その後のツアーの準備の事務仕事を進めているのですが、
アヴィニョン公演は、制作兼字幕スタッフとして、
ツアーに同行しております。

それにてしても演劇祭期間中のアヴィニョンは、
朝から晩まで街のいたるところで演劇が上演されていて、
深夜12時過ぎまで、本当にお祭り騒ぎです。

アヴィニョン街中

この街の一体どこに、
『室内』の上演に必要な沈黙と闇はあるでしょうか。

では、今日は『室内』の上演会場までご案内します。

?

アヴィニョンの中心地を取り囲む城壁を出て、アヴィニョン中央駅を右に見ながら…

アヴィニョン中央駅

さらにどんどん進みます。

池
草原
郊外の家々
劇場前の道
みんなてくてく歩きます

ようやく劇場、モンファヴェホールに到着!

劇場に到着
横から見たモンファヴェホール

そうなんです。
『室内』の上演会場は、アヴィニョンの中心街ではなく、
そこから車で25分ほどいった
モンファヴェという郊外にあります。

モンファヴェは遠いよ
(左端がアヴィニョンの中心地、モンファヴェホールは右端の終点2つ前)

途中には池があったり、草原や木々の茂る場所があったり、
そのなかにぽつぽつと家があったり…。

劇場への行き来のバスの窓から見えるそんな風景は、
なんだかメーテルリンクが描いた『室内』の世界を
思わせもします。

私たちは、この街の喧噪とは離れたこの劇場で、
『室内』の沈黙と闇の時間と空間を、
レジさんや、お客様と共にしています。

今日のおまけ

すぱっくんもモンファヴェでお出迎え
 
 
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2014年7月25日

【アヴィニョン・レポート】 『室内』当日パンフレット掲載インタビュ― 

アヴィニョン演劇祭『室内』公演の会場で配布されているパンフレット掲載の、
クロード・レジ氏インタビュ―も通訳の浅井さんに翻訳していただきましたので、
ご紹介いたします。

アヴィニョン演劇祭『室内』パンフレット
 
 
『室内』
クロード・レジ氏 インタビュー

すでに演出された作品を再び扱うのは初めてですね。なぜ、日本人俳優との仕事を受けましたか?

C.R. 新たなテキストを使っての経験を試みる方が好きなので、そうですね、初めてです。今回の制作過程は今までとは違い、静岡県舞台芸術センターの芸術総監督である宮城聰氏から日本人俳優とクリエーションをしてほしいという依頼があり、それをお請けして始まりました。
宮城聰氏の演出の仕方は私のとは全く違いますが、何度も私の作品をフランスでご覧になっているのを知っていましたので、その違いに興味を持っていらっしゃるのでは、と思いました。でも、とにかく私は冒険好きですから、まずメーテルリンクの作品を使って時間をかけてオーディションをし、俳優を自分で選びたいと願い出ました。

何故、この作品を選びましたか?

C.R. 初演は1985年で時間も随分と経っていますので、再びクリエーションを行なうことが可能でした。この戯曲に特に感銘を受ける理由のひとつはもちろん子供の死がテーマだからですが、もうひとつは私の方法論をもっと掘り下げる可能性を与えてくれるからです。声とイメージを分離して行なう探求をもっと突き詰めることができますし、言葉の狭間に隠されている見えないものを浮上させたいという私の熱望をも満たしてくれます。日本でも文楽という人形演劇界では17世紀からこのような探求がされていたように思います。ですから、『室内』に「マリオネットのためのドラマ(悲劇*)」とサブタイトルをつけたモーリス・メーテルリンクを日本人俳優に対峙させるのも面白いのではないかと思いました。あまり「人間的」に演技をしないようにし、つまり、(登場人物たちを*)体現しすぎず、センチメンタルになりすぎず、現実主義は完全に排除し、能動的とは言いきれない状態で行なう。
透明であるが故に通り過ぎていくものを発見できるよう、ある意味で受動態であることを寄りどころとする演技を求めました。また、日本にはもうひとつの伝統芸能、能があります。死せる者と生ける者の境目をくっきりと付けておらず、舞台に登場する俳優は死者の国からやってくるとも言います。『室内』を提案するのにいい口実がいくつもあったのです。

少女の死がメーテルリンクの戯曲の中心にありますね。

C.R. はい。でも、核にあるのは、舞台上にいる人間の一部はその娘が死んでしまったことを知っているけれど、家族は同じように舞台上にいてもまだ知らないということです。そこには意識と無意識が同時に存在しています。ジークムント・フロイトの思想や研究の基礎のひとつにこの同時性があるように思います。私が興味を持っていたのは、言葉を発し、会話し、語っている俳優グループと、完全なる沈黙の中で動き、生きている俳優のグループを対立させることでした。その対立においてメーテルリンクが関心を持っていたのは悲劇の「予感」だと言っています。知らないうちに気づいている。閉ざされた家族の世界にさえ存在しうる予感。

家族は家の中にいて、生活している(生きている*)様子が窓から見える、とト書きに書かれています。ト書き通りの舞台装置ですか?

C.R. いいえ。今回の芝居では、照明だけで空間を区切っています。テキスト自体が現実主義的ではないので、見た目の現実主義を排除することによって、メーテルリンクが起こした改革をもう少しだけ押し進められるような気がしました。演出家にとって大切なのは直感に身を委ね、感じるままにテキストを扱うことだと思っています。

貴方にとってメーテルリンクの文体とは?沈黙とともにあるエクリチュールでしょうか?

C.R. 音楽性のあるエクリチュールですね。彼のいくつかの作品のために描かれた楽譜がよく冗語的になっているのはそのせいです。リズム、ときにはアレクサンドラン(12 音節綴*)、ときにはシェイクスピアのようなデカシラブ(10音節綴*)を混合させたエクリチュールなのです。マラルメも言っているように、言葉は発せられているがどちらかというと示唆されています。とても神秘的な文章もあり、例えば、ある登場人物が傍にいる娘達について次のように言っています。
「まるであの子達は知らないうちにお祈りしているみたい。魂の声を聞いているみたい・・・」
このような文章には、演技も解釈も無限の可能性があり、我々を夢の世界へ連れていってくれます。沈黙はメーテルリンクの作品では最も重要な要素です。沈黙をつくらない愛人たちは真に理解しあっていない、とも言っています。我々は沈黙によって人間存在の核心に触れることができるのです。
激昂と騒音が常にあふれているこの世で、ゆっくりと沈黙の中で作業をすることは秩序を覆すような行為になってしまったように思えます。

でも、とても現実主義的なアクションがありませんか?

C.R. はい、でもメーテルリンクは現実主義からわざと方向をそらせています。例えば、娘の屍を担いでやってくる一行が見える箇所でも、屍は登場しません。観客が想像力を作動させるよう煽動しているのです。実際の描写はなく、テキストで示唆しイメージを想像させ、観客の想像界を支えにして芝居が構築されていくのです。

メーテルリンクは彼の演劇スタイルを表現するのに「日常の悲劇」という言葉を創りましたね。

C.R. つまり、舞台で悲劇を表現するには、何も起こっていないようにみえる静かな宵にいるところを設定するだけで十分だ、と。メーテルリンクは『室内』でまだ娘が死んでしまったことを知らない家族についてこう書いています。「誰かが立ち上がったり、歩いたり、身振りをしたりする時には、距離の遠さや光の加減、窓にかかるおぼろげなヴェールのために、重々しく、ゆっくりとした、貴重なしぐさのように見えて、あたかも霊的な存在のしぐさであるかのようである。」俳優の演技は作者が明確に書いているのです。それ以上何も加えることはありません。その指示に従うまでです。

マルトとマリーと名付けられた登場人物がいます。新約聖書にある、キリストによって甦ったラザロの姉たちと同じ名前ですね。そしてもう一人は「よそ者」と名付けられています。偶然でしょうか?

C.R. 違うでしょう。メーテルリンクはラザロについてのテキストを書いていますが、蘇生した人間がどのようにして日常生活に戻っていくのかという点に関心を寄せていました。よそ者に関しては、彼はどこにいても何に対してもよそ者であると言えます。我々と同じ世界の者だが、もしかすると別の世界から来ているのかもしれない。認識もあれば、我々にない知識も持っていますし、彼は秘密の世界と繋がっています。そのよそ者である彼が屍を見つけ、川岸に引き上げます。彼は死と生き生きとした関係性を持っているようです。

(ジャン・ピエール・ペリエ)

2014 年 7 月アヴィニョン・フェスティバル 当日配布パンフレット

*翻訳者注
(翻訳 浅井宏美)

***

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2014年7月24日

【アヴィニョン・レポート】 La Terrasse紙に『室内』記事

フランスのLa Terrasse新聞に掲載の、
クロード・レジ氏インタビューをご紹介します。

La Terrasse掲載『室内』レジ氏インタビュ―

翻訳は、昨年の静岡での稽古からずっとご一緒いただき、
レジさんと俳優のアーティスティックな共同作業を支えてくださっている
通訳の浅井宏美さんです。

***
室内
 
ジェラール・フィリップ劇場(サンドニ県)の初演から30年弱。クロード・レジがモーリス・メーテルリンクの戯曲に立ち戻った。静岡県舞台芸術センターの俳優たちを率いて、生と死の境界を新たに探検。
 
静岡の劇場から日本でのクリエーションのオファーがあった時、何故『室内』を選択しましたか?
C.R. 私は無意識というものを信じており、直感でこの戯曲を提案しました。その後に、『室内』には二つの空間が存在すると気づきました。言葉の空間と無声のイメージ空間です。この二空間の対立は文楽芸能に通じるものがあります。本来であればすでに演出した作品を再び扱うことはないのですが、この戯曲を選んだのはきっとそのせいでしょう。でも、日本語ですので、とても違ったものになりました。耳で聞いているだけでも違うでしょう。それから、メーテルリンクの作品全てに共通していますが、『室内』には沈黙が多く含まれています。そこで、私が言語だと信じているもの(つまり沈黙のことですが)は国際言語であり、日本人俳優たちと分かち合えると思ったのです。テキストの延長線上にある様々なものでそういった沈黙を共に満たしていくことができる、と。

他の作品同様、『室内』も死に関する考察ですが、なぜ常にこのテーマを扱うのですか?
C.R. 死について考えずに、また生の均衡を保っている死を考慮せずして、生についての正当な見解は持てないと思うのです。納得のいく生き方もできないでしょう。生きるという概念(というと、大概が幸せの概念に結びつけますが)だけを念頭に置いて全力で、生きるためだけに生きている人は間違いを犯しています。とても大事なのは二重考察をして物事をバランスよく配分し直すことでしょう。つまり、生に関する考察と死に関する考察の両方が必要であり、片一方だけでは成立しないと思うのです。

確かにその二重考察は戯曲において二段階の意識によって表現されていますね・・・
C.R. そこに『室内』の面白みがあるようです。少女の溺死を知っている登場人物達のグループとまだ知らずにいる家族達がいます。死の知らせが告知される瞬間まで時間が引き延ばされていて、ずっと待たされているような状態です。その死を知っている登場人物もいれば、まだ知らされていない人物もいるので、意識と無意識の明白な関係性も見えてきます。私はその境界の脆さに興味を引かれます。境界線が二つの世界を隔てているのですが、その二つの世界は常に交流しており境界線上を行き来しています。

既知の向こう側へ行こうと試みて行き来しているわけですね・・・
C.R. そうです。それどころか、理解しうる限界の向こう側へまで行こうとしています。言ってみれば、表現もできないような秘密の領域を開拓しようと試みているのです。もっと的確に言うと、我々は無意識の領域に関しては全く知識がないわけですが、理解しえないようなことを、おそらく無意識の領域に触れる何かを他者へ移行させようとしているのです。我々の内部には、普段は全く見えないけれど、時々姿を現す暗く漠然とした領域があることは確かに想像できます。その領域は、例えば、特にアーティストと呼ばれる人達の作業を通してみることができます。アーティストというよりはクリエーターと呼ぶ方が好ましいですね、想像力を駆使して作品を創る人達ですから。その想像力を働かせられる場にとどまることが大切なのです。そのためには直感のようなものを利用して知識をできるだけ結びつけなければなりません。でも、実はその知識というものは我々の思い込みであり、確実に存在しているけれど不可知の領域にあるものなのです。

1985年と今日の演出の違いは?
C.R. 俳優からくる違いが一番大きいでしょう。30年前に共に芝居を創った俳優たちのパーソナリティーにとても愛情を持っていました。以来、当然のことながら、私の中で戯曲が熟し、進展しました。今回の日本版が、ジェラール・フィリップ劇場で公演したときよりも重くないといいのですが。夢の中でこの出来事が起こっているかのように俳優たちが体験できるよう計らってきました。夢の透明感。それを再び見いだすことに執着しました。

その透明感は1985年版にはなかったのですか?
C.R. あまり。当時は劇場(舞台)の造りを利用しました。家族は舞台上(プロセニアム・アーチの奥側)に、セリフのある登場人物たちは幕前にいました。今回は、家族と外界との境界は繊細な光のみで創られています。死のような主題を扱う場合は常に悲しみに陥らないように気をつけなければなりません。特に追悼の儀式になってしまってはいけません。30年前の公演は少しその傾向があったかもしれません。今回はその点に関しては冷静に捉え直すことができたように思います。

(マニュエル・ピオラ・ソレマ)
テラス222号  2014年7月版
                     
(翻訳 浅井宏美)

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2014年7月22日

【アヴィニョン・レポート】リベラシオンに『室内』記事!

ル・モンドに引き続き、リベラシオンに掲載された『室内』公演の記事をSPACの会会員の片山幹生さまが翻訳してくださいました!
ありがとうございます!

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『室内』身体に開かれた窓
『リベラシオン』2014年7月19日 11時56分
ルネ・ソリス

[写真キャプション]『室内』使者たちが子供の溺死を伝えにやって来る(写真撮影:三浦興一)

アヴィニョン
クロード・レジによるメーテルリンクの上演。夢の縁にあるドラマの中で。

 メーテルリンク+クロード・レジ+日本:その結果が宗教的な儀式に極めて近いものになったことは驚くにはあたらない。この作品はウィーン・フェスティヴァルで上演された後、この五月にブリュッセルで上演された。この後のヨーロッパ・ツアーでは、パリの秋のフェスティバルで上演されることになっている。ブリュッセルの上演では、客席に入る前、待合室にいる段階で、観客は沈黙を要求された。熱心な観客たちによってこれとはまた別の指令も伝達された。劇場内の薄暗がりのなかに座った後は、お尻をもぞもぞさせてはならないし、咳払いも禁止。「シーッ」といらだった調子で注意されるなんてもってのほか。レジの作品の観客には、こうした注意が行き過ぎだと思うものは誰もいないだろう。

 クロード・レジは1985年にフランス語でメーテルリンクのこの作品を上演しているが、今回の日本語版の上演では、作品の構想とその瞑想的雰囲気はさらに遠くの地点まで押し進められていた。日本語版『室内』は昨年、日本の静岡の山中の地下にある小さな劇場で初演された。

 一面に広がる砂地。もともと「マリオネットのためのドラマ」と作者に指定されている『室内』は、一軒の家の窓の前を中心に展開する。悲しい知らせを伝えるためにやって来た老人とよそ者の男は、窓の前でたたずみ、ノックするのをためらっている。室内では、家族が無言のまま、それぞれ自分の仕事にいそしんでいる。「あの人たちはなにも気づいてはいませんね。それに話もしていない」とよそ者の男が話す。レジの演出では、舞台上には壁も、窓も、家具もない。そこには砂地が広がっているだけだ。その砂地の中央に子供がひとり眠っている。静謐であると同時に重苦しい情景。使者たちはこの家族の娘の一人が溺死したことを伝えにやって来た。死んだのは眠っている幼い男の子の姉だ。横たわるその男の子の姿もまた死を暗示している。男の子が呼吸したり、ときおり動いたりするのを見て、われわれは安堵の胸をなで下ろす。

 暗い照明、緩慢でくぐもった発声。夢の縁で展開するこの演劇のなかで常に必要とされるのは、揺らぐための時間である。L’Intérieur(「内部・内側」を意味する)というタイトルは、邦題が示すような家の内部だけでなく、観客それぞれの内面も意味している。観客は自身の内面に沈潜し、瞑想の状態に身を置くように促される。簡潔で引き締まったメーテルリンクのテクストから、クロード・レジは彼が余分だと判断したものをさらに削り取った。字幕からも余分な言葉はそぎ落とされ、極限まで切り詰められる。それはあたかも白い画面に映し出されるこの黒い文字列(この2つの色がこの舞台の基調をなす色なのだが)もまた消え去ることが運命づけられているかのようだ……

 避けることができないことがら。クロード・レジは演劇における沈黙の重要性を訴え続けている。彼はサルトルのこの言葉をよく引き合いに出す。「言葉は、言葉そのものよりもはるかに広大な、語られないことがらを解放することができる」。 この意味合いにおいて、レジは完全に彼自身が目指す地点に到達している。語られてはいないが、推察されうることがらこそ、核心となる部分である。日本語の響きは、それぞれが理解可能なある言語が作り出す未知のメロディーとなる。この響きのなかで悲報を告げるのを先送りすることも、避けることができないことがらを受け入れるもっともシンプルな方法となる。終演後、子供が起き上がり、彼の仲間たちとともに観客に挨拶するとき、微笑が戻ってくる。その場にいることに対する喜びで満たされる。

ルネ・ソリス(『リベラシオン』アヴィニョン特派員)
モーリス・メーテルリンク作『室内』。クロード・レジ演出。日本語上演、フランス語字幕。サル・ド・モンファヴェ、18時開演。7/27まで(7/23は休演)。

訳:片山幹生(SPACの会 会員)


2014年7月20日

【アヴィニョン・レポート】ル・モンドに『室内』の記事も!

『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』に引き続き、ル・モンドに掲載された『室内』公演の記事をSPACの会会員の片山幹生さまが翻訳してくださいました!
ありがとうございます!

※元文はこちら
※ル・モンドに掲載された『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』の記事はこちら

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クロード・レジとともに時間と光を体験する
『ル・モンド』2014年7月17日 12h09
ブリジット・サリーノ

 常にかなたにある光を目指して進む。時間は忘却され、視線だけが空間のなかにある。言葉がすべてを侵食しようとするのを拒む。沈黙と静寂を保ちつつ、言葉のひとつひとつが、入って来るのを受け入れる。青色の時間のなかで聞こえる声のように、言葉に耳を傾ける。無意識のなかでの、かすかなざわめきのように、言葉を耳にする。身体に執着してはならない。そうではなくて緩慢な動きのなかで、身体を自由に生きさせるのだ。そして呼吸する……。クロード・レジが作品を通して私たちに提案するのはこうしたことがらだ。アヴィニョン演劇祭に『室内』(モーリス・メーテルリンク作)がやってきた。ひとつの贖罪を思わせるような作品である。

《新しい経験》
 91歳のこの演出家は、映画のマノエル・ド・オリヴェイラ監督[訳注:1908年生まれ、現在105歳のポルトガル人映画監督]と同じような道を進んでいる。レジは常により大きな自由を自らに与え、新しい経験に好奇心を示す。日本はレジに最も新しい経験をもたらした。ブルボン石切場で上演されている傑作『マハーバーラタ〜ナラ王の冒険~』の演出家、宮城聰が、東京から一時間ほどのところにある静岡にレジを招いたのだ。静岡県舞台芸術センターの芸術総監督である宮城は、このカンパニーの作品制作のためにレジに声をかけたのだ。富士山の正面にあるこの町で、クロード・レジはメーテルリンク(1862-1949)の『室内』を再び取り上げてみたいと考えた。レジは1985年に、[パリ郊外の]サン=ドゥニのジェラール・フィリップ劇場で、フランス人俳優たちとこの作品を上演したことがあった。

 愛する土地に戻ってくるように、クロード・レジがこの作品に戻ってこようと思ったのは、メーテルリンクは昔からずっと、彼の演出家としての方法論を照らす灯台のような作家であるからだ。レジは演出において、登場人物という概念も心理描写も拒絶する。時の経過とともに、彼の演出はパフォーマンスとの結びつきを徐々に強化したスペクタクルの創造を目指すようになった。クロード・レジの演出は、光と時間を創り出す。ある日、彼がとある展覧会で、ジェームズ・タレルのようなアーティストと並んでいても何の不思議もない。原子の探求者であるタレルもまた日本で仕事をしたアーティストである。

 タレルの作品の一つは直島で見ることができる[訳注:直島は香川県、瀬戸内海の島。現代アートの展示で知られる。ここで紹介されているのはタレル作の「南寺」http://www.benesse-artsite.jp/arthouse/minamidera.html]。一人の男に手をひかれ、古い家に入っていく。導かれるまま、ある部屋に入ると、そこは完全な闇に包まれている。あとはそこで待つだけでいい。そのまま身を委ねればいい。徐々に溶解していく時間のなかにしばらくいると、暗闇の中に灰色の長方形が浮かび上がってくる。亡霊や夢のように。私たちはそこでもはや何も考えない。ただそこにいて、想像しえないような何か、そしてそこで起こっている何かに目を凝らすのだ。

《一人で静かに読書すること》
 『室内』のなかで、想像しえない何かは、一軒の家の中に入り込んでいく不幸という形で現れる。この家では父親、母親、そして彼らの二人の娘が静かな夕べの時間を過ごしている。彼ら以外に小さな子供がいるが、彼は眠っている。この家族にはもう一人、娘がいる。彼女は、午前中に祖母を訪ねるために家を出たまま戻っていない。この娘が川で死んでいたのを発見されたことをこの家族はまだ知らない。見つけたのは通りすがりのよそ者だ。この家族と知り合いの老人と一緒に、彼は家のそばまでやってきた。二人はこの痛ましい知らせを伝えなければならない。

 子供が死んでしまったことを、どうやってその親に伝えたものか?それに、いつ伝えるんだ?もう家の前だ。窓越しに平穏で静かな家族の姿が見える。『室内』では、この家族は誰もことばを発しない。メーテルリンクが、この作品でことばを与えたのは、旅人、老人、そして老人の二人の孫娘だけである。二人の孫娘は、村人たちと一緒にこの家の前にやって来た。村人たちは行列を組んで、祈りの文句を唱えながら、オフィーリアのような髪を持つ若い娘の遺体を運んできた。

《影の領域と光の領域》
 メーテルリンクの作品は一人で静かに読まなくてはならない。クロード・レジの公演は、あわれな遺体に手を添えるときのように丁寧に、この要求に応える。この作品のなかでは、あらゆるものが、自分たちの物語を語ることで、生きている者たちの哀しみを償おうとする。彼らは、踏み越えた途端、あらゆるものが不可逆となってしまう瞬間の入口にいる。舞台上にある影と光の領域は、精神的な空間を形作っている。舞台の奥のほうの神秘的な楕円は家を表している。そこで最初にわれわれが目にするのは、子供の手をひいて、ゆっくりと前に進む一人の女の姿だ。子供は明るい色の服を着ていて、髪の毛の色は褐色だ。子供は静かに地面に横たわる。

 他の人物は、みな立ったままだ。光による境界が彼らを分け隔てている。光の境界は、人を和ませる家を表す楕円形と人を怯えさせる外界を示す直線のあいだに引かれている。不幸は外界からやってくる。日本人の俳優たちは、クロード・レジによって規定されたこの世界の中で、あらゆる永遠性について、あたかも体験しているかのようだった。

 動きの緩やかさ、言葉の穏やかさ、存在、空間、時間の結合。あらゆる要素が、この作品では光と調和している。そして光は、同一の動き、同一の静けさのなかで、死と生を結びつけている。アヴィニョンで『室内』を見逃したとしても、パリでまだ見るチャンスがある。この作品は、秋季フェスティヴァルの枠組みのなかで上演されることになっているのだ。驚異的な経験が『室内』の観客を待ちうけている。クロード・レジは世界のゆらぎを感じ取らせるために、世界のノイズを消し去るのだ。

訳:片山幹生(SPACの会 会員)


『室内』モーリス・メーテルリンク
演出:クロード・レジ
訳:横山義志
出演:泉陽二、伊比井香織、貴島豪、大庭裕介
下総源太朗、鈴木陽代、たきいみき、布施安寿香
松田弘子、弓井茉那、吉植荘一郎、関根響
アヴィニョン公演:サル・ド・モンファヴェ、18時より。7/27まで。
上演時間:1時間 30分。日本語上演・フランス語字幕。
パリ公演:9/9 – 9/27、パリ日本文化会館にて。


2014年7月13日

アヴィニョン演劇祭参加の記(6)

SPAC文芸部 横山義志
2014/07/03

アヴィニョン演劇祭は明日から開幕・・・の予定。ただし、今年は舞台芸術や映画に関わる労働者の失業保険制度をめぐる紛争があり、フランスではいくつものフェスティバルがストライキによって中止になっている。今日はアヴィニョン演劇祭インで働く方々の集会が開かれた。招聘されたカンパニーのメンバーにも参加の権利があるという。ふだん石切場でクールに働いているスタッフたちも、この職業の未来について熱く語っている。一方で、抗議行動の手段についての話になると、「法王庁に横断幕を掲げるとすると、幅18メートルくらいで、4人で作業すれば午前中いっぱいでできるかな」「スピーカーはあれをあそこから調達して、プロジェクタは3台いるかな」などと、技術スタッフが多いだけにえらく具体的な話になったりする。

投票の結果、明日7/4の開幕日にストライキを行うことが決議された。ただ、ストライキへの賛意は6割ほどで、具体的な行動は個々の判断に任せる、というもの。

石切場に戻り、照明スタッフと話すと、「やはり明日7/4に1日間のストライキを行うことにするが、今日から明日にかけて午前5時まで照明フォーカスの作業が予定されていて、それができないとまともに初日が開けられないのは目に見えているので、ストライキを5時間ずらし、7/4の午前5時から24時間のストライキを行うことにした」という。一緒に稽古を見たりしていると、みんな舞台が好きなのがよく分かる。当然、みんな仕込みが遅れているのはよく分かっていて、「政府のやり方に問題があるにしても、自分の行動の結果は意識しているし、それについての責任を負うのは自分だ」という。

明日は一日、全てのスタッフがストライキを選択することが分かり、石切場への入場もできなくなったので、一日自主作業となった。

午前5時、SPACの照明スタッフが作業を終えて退出しようとしたとき、はじめてこの明日のスケジュール変更を聞いて、あわてて照明卓に戻る。すでに全ての電源が落とされていたところに、「ごめん、もう一度卓の電源を入れてくれる?明日ホテルでデータの整理をしたくて・・・」と帰り支度をしているフランス側スタッフに聞くと、疲労の色を見せながらも、笑顔で「もちろん」とブースに戻ってくれる。

夜が白むなか、石切場をあとにする。
 
 
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※アヴィニョン公演に関わる写真はこちらから(随時更新中!)
 
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アヴィニョン演劇祭 公式プログラム
SPAC 『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』
公演日程:7月7日~19日  会場:ブルボン石切場  ※詳細はこちら


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