2014年7月30日

★シアタースクール通信 1&2号★ ふりかえり(7/13~26)

学校では触れることのできない演劇の面白さ、
奥深さを若い人たちに知ってもらうことを目的としてスタートし、
今年で8年目を迎えるSPACシアタースクール
今回は43名の参加者が集まり、7月13日(日)に始まりました。
参加者たちは、SPAC俳優たちによる指導のもと、
身体や声に関する様々なプログラムに取り組み、
「舞台に立つためのからだづくり」を学んでいきます。
8/16(土)・17(日)の発表会に向けた、
日々の様子をこの「シアタースクール通信」でお伝えしていきます!

7/13(日)  1日目
「SPACシアタースクール2014」いよいよ始動!今回は43名の参加者が集まり、初日を迎えました。この日は説明会、自己紹介、靴のフィッティングなどの後に、さっそく呼吸や動き、台本の読み合わせを行いました。
 
 
 
 
7/19(土)  2日目
SPACといえば、スズキ・メソッド。前芸術総監督の鈴木忠志が考案した俳優訓練法です。半袖・短パンに足袋、が基本スタイル。眞田里子先生によるダンス稽古も始まりました。普段はしないようなさまざまな動きを通して、身体を活性化させていきます。
 
 
 
 
 
7/20(日)  3日目
眞田先生によるダンスレッスン。柔軟・ストレッチからだんだんと振り付けへ。戸惑いつつもみな飲み込みが早い!その後は、指広げ→発声→スズキ・メソッド。メソッドでは経験者が初参加者のフォローに入る場面も。「力強い声を出すには、たくさん息を吸うことが大事」。演出の中野さんが何度も言っていました。
 
 
20140721_P1150414魔法使い7/21(月)  4日目
アシスタントの永井さんによるシアターゲームの時間が最初にありました。エア長なわとび、魔法使いの手、鏡、エアビーチバレー、ジェスチャーリレー。「自分本位に動くのではなく、相手に合わせて動く」がねらいでした。これもまた舞台に立つための基礎のひとつですね。
 
 
 
7/23(水)  5日目
初めての「歩行」。力強くすばやい動きのスズキ・メソッドとは違って、床を「押さない」イメージでゆっくりと歩き、重さを感じさせないためのレッスン。いろんな体のコントロールの仕方を身につけよう。この日は永井さんによるリズムトレーニングもありました。初めてのエッグシェーカー。ドラム、トーンチャイムなどの楽器も加えて全員で合奏。
 
7/24(木)  6日目
スズキ・メソッドのねらいのひとつは、「対象と向き合う」こと。「重心」と「呼吸」を意識して自分の身体をコントロールする。舞台俳優の基礎中の基礎となる大事な時間。この日は参加者同士で向かい合っての「スタチュー」(彫像の意。すばやく姿勢を変化させ、力強く対象と向き合うための訓練)をたっぷりとやりました。場面稽古では役がだんだんと決まってきましたね。
 
7/25(金)  7日目
眞田先生再び。ストレッチ、ウォーキングからダンスの振り写しへ。新たな振りもあるなか、懸命に先生についていくみんな。やっぱり飲み込みが早い。この日はビデオ鑑賞も。SPAC俳優の演技を見て、盗めるものは盗もう!
映像リスト:ディオニュソス、天守物語、マハーバーラタ、モモ(映画)
 
  
7/26(土)  8日目
『モモ』の場面稽古の時間が増えてきました。役もほぼすべて決まり、まずはセリフを完璧に覚えて自分のものに。できるだけ身体を自由にしてみんなでベストのパフォーマンスをつくりあげよう!
 
 
 
 
 
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flyer_2014momo


SPACシアタースクール2014
発表会『モモ』
8/16(土)・17(日)
各日18:00開演
舞台芸術公園 野外劇場「有度」
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「SPACシアタースクール」とは・・・
*詳細は画像をクリック


 




 
 
 


2014年7月29日

『タカセの夢』~再び!~

「ふじのくに⇆せかい演劇祭2014」で好評をいただきました『タカセの夢』がこの夏も帰ってきます!
振付・演出のメルラン・ニヤカムさんの故郷であるカメルーンでの公演を経て、静岡で凱旋公演を行います。

楕円堂ではスパカンファンが稽古中。

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『タカセの夢』は今年の公演で最後となります。
しかし、スパカンファンプロジェクトはまだまだ続きます!

ただいま来年度に向けて新メンバーを募集中。(対象:県内の小学6年生~高校1年生)
ダンスが初めての方も、新しいダンスに挑戦してみたい方も大歓迎です!
ご応募お待ちしています。
☆詳細はこちら

チケット発売中!!
******************
『タカセの夢
舞台芸術公園 屋内ホール「楕円堂」
8/20(水)18時45分開演
8/21(木)14時30分開演
カメルーン報告会やアフタートークも開催。
******************


『室内』ヨーロッパ・ツアー レポート(7)

『室内』アヴィニョン公演制作兼字幕オペの米山です。

今回は字幕のことをご紹介します。

モンファヴェホール客席
↑客席は8列、全部で210人ほど座れます。
 
今回私はこの客席の一番後ろにある机に座って、
ここから字幕を出しています。
ちなみにプロジェクターを挟んで反対側には、
前々回のレポートで布施が紹介したピエールさんが
照明の操作をしています。

オペ席から舞台を眺めるとこんな感じです。
字幕オペ席からの眺め
↑稽古休憩中
 
そして、手許の様子。
 
字幕オペ席手許
↑操作用PC(左)と字幕オペ用テキスト(右)
  
海外でSPACの作品を上演する時、
また海外の作品を日本で上演する時、
いつも字幕は悩みどころです。

どこに、どのくらいの大きさの文字で表示させるのか、
そのためにどのような機材を使うのか、
しゃべっている台詞に対して
どれくらいの割合を字幕として表示するのか、
そして、コマ割りや表示のタイミングは、、、。
と考え出すときりがありません。

その作品の舞台美術や作品全体がつくりだす世界を
邪魔したり壊さないように、
それでありながら、お客さんが舞台を観つつ字幕も読めて、
ストレス無く、内容を追っていける落としどころを、
探さなくてはなりません。

演出家や舞台美術家をはじめ、様々なスタッフと相談しながら、
そういうことを考えるのも、お客さんと作品をつなぐ
制作担当の仕事のひとつです。
 
 
では、『室内』のような舞台全体が暗い闇と沈黙に包まれ、
俳優の台詞や動きもとてもゆっくりとしていて、
お客さんも息をひそめてそれを見守るような作品で、
字幕はどうなるのかというと、、、。
 
 
私はアヴィニョン公演で
ようやくそれを目の当たりにすることができたのですが、
レジ氏のとった方法は、見事でした。
 
まずは、字幕として表示させる文章は、
台詞の中でもその場面や作品全体のキーになる
センテンスだけに絞り込まれています。
 
字幕テキスト
 
この写真の中のオレンジの線で塗られた部分だけが、
字幕として表示されます。
 
そしてこれらのセンテンスが、舞台中央の壁の一番下の部分に、
(上の舞台の写真の白い舞台のすぐ上の黒い部分です。)
あたかも闇の中からじわじわと浮かび上がってくるかのように、
数秒かけて表れ、
また数秒かけてじわじわと闇の中に消えていきます。
演劇の字幕といえば、ぱっと消えてぱっと消えるものだと
思い込んでいた私には、
こんなふうに字幕を
あたかも作品の一部であるかのように、
作品世界を壊さずに取り込むことが可能なのかと、
驚きでした。

アヴィニョンでは、ウィーンとブリュッセル公演で既に調整された
字幕素材を元に操作しています。

海外初演となるウィーンで字幕オペをされた現地の方は、
劇場での稽古期間中、レジさんの要望にしたがって、
このフェード・イン/アウトのタイミングなども含め、
字幕素材の細かい調整をされたとお聞きしました。
本当に大変な作業をしてくださったのだと思います。

そんなバトンを引き継ぎ、
舞台空間やそこにいる俳優、そしてお客様や字幕まで含めて、
一つの空間ができあがるレジ氏の作品世界に
加わらせていただくという、
とても貴重な体験をさせていただいております。

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*『室内』ヨーロッパ・ツアー レポート バックナンバー (1) (2) (3) (4) (5) (6)
*『室内』ヨーロッパ・ツアーの詳細はこちら


2014年7月28日

<制作部よもやまブログ#80>緑が香る舞台芸術公園の今

こんにちは。
すべての地方の梅雨明けが発表され、いよいよ本格的な夏が到来するようですね。

暑い夏の訪れを感じる今、SPACでは、夏から秋にかけてのプロジェクトが続々と同時に動き出しています。
前回のよもやまブログでご紹介した「シアタースクール」のほか、ここ舞台芸術公園では、『タカセの夢』 『ドン・キホーテ』 『走れメロス』 『しずおか徳川家康公物語』の稽古が行われています。

7月25日に始まった『ドン・キホーテ』の稽古は、今日で4日目を迎えました。
出演者の中には、アヴィニョン演劇祭での『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』に出演していた俳優もおり、彼らは7月23日に日付が変わったころ静岡に戻ってきたばかりです!驚きのタフさ!!
再演となる本作は、演出の原田一樹さんを迎え、中高生鑑賞事業県内ツアーへと着々と稽古が進行しています。


舞台装置の模型を示して説明する原田さんとそれを取り囲む俳優たち。
 

おっ!キャストの本多麻紀さんが着ているのは、アヴィニョンのフェスティバルTシャツでは?!
 

キホーテの愛馬ロシナンテもお目見え。表情があるわけでもないのに…ふふ、妙にかわいい!
 
スタッフたちも、同時に動くいくつかの作品を掛け持ちしながら、日々せっせと作業に汗を流しています。
稽古場の入口近くでは、衣裳のジェニファーさんがにこやかに仕事をしていました。


稽古場を出て、午後の公園の空気を吸うと、夏の緑の匂いをいっぱいに感じます。
「それにしてもいつもより深い香りだな」なんて思いながら歩いていると、聞こえてくる芝刈り機の音。


元SPAC専務の山本章さんと俳優の美加理さんが、照りつける太陽の下で公園の自然を大切に守ってくださっていました。
舞台芸術公園の木々は、こうして剪定されていますが、どれも街の多くの街路樹のように人工的な形にはなっていません。
この日、山本さんは「ここは芸術を創作する精神活動をする場所だからね。訪れる人の心が休まるように、落ち着いた気持ちで稽古や公演ができるように、山への畏敬を持って手入れすることが大事なんだよね。」と話していました。

はじめに挙げた作品の中では、今後シアタースクール発表会『モモ』と『タカセの夢』と『しずおか徳川家康公物語』が舞台芸術公園内で上演されます。
ご観劇にお越しの際は、真夏そして初秋の自然の様子も感じてみて下さい。

(制作部・熊倉)


【アヴィニョン・レポート】 リベラシオン紙に吉植荘一郎インタビュー掲載

リベラシオン紙に『室内』出演の吉植荘一郎のインタビューが掲載されました。
またまた、SPACの会会員の片山幹生さまが翻訳してくださいました!

※元文はこちら

***
吉植荘一郎インタビュー:「レジは沈黙を聞きなさいと私たちに言いました」
(インタビュアー:ルネ・ソリス)
『リベラシオン』紙 2014年7月17日

INTERVIEW「俳優が演出家との仕事について語る」

宮城聰の劇団の俳優、吉植荘一郎は『室内』で老人役を演じる。宮城の劇団の他のメンバーたちはアヴィニョン演劇祭で『マハーバーラタ』の上演に参加している。

─最初にメーテルリンクのテクストを読んだとき、どのような感想をもちましたか?
そんなに難しくはなかったのですけれど、読んだ翌日には頭にほとんど内容が残っていませんでした。水のように流れ去ってしまいました。もし普通の演劇のように、沈黙の重要性を考慮しないままメーテルリンクの作品を演じたら、それはとても凡庸なものになってしまうでしょうし、観客は書かれていることの面白さは理解できないでしょう。

─メーテルリンクは日本で知られているのですか?
『青い鳥』だけは知られていますが、沈黙と無意識の重要性は理解されていません。むしろ子供のための道徳的な童話だと思われています。

─でも沈黙は能の本質的要素ですよね?
確かにそうなのですが、現代演劇の場合はそうとも言えないのです。稽古では、クロード・レジは私たちに沈黙に耳を傾けるようにといつも言っていました。なぜなら沈黙がわれわれに様々なことを教えてくれるからです。しかしメーテルリンクにとっての沈黙は独特のもので、それは喋らないということだけではなくて、聞こえないことに耳を傾けることでもあるのです。

─それは能の考え方とは遠くないのでは?
能との共通点は死であると言うことができるでしょう。聞こえないことに耳を傾ける、そして見えないものに目を注ぐ。そう、まさにクロード・レジはこの点で、日本の伝統演劇と出会ったのです。

─ではあなたは、どんな演劇をやってらっしゃるのですか?
私の演劇はクロード氏の演劇の対極にあるものです[編集部注:吉植氏は相撲取りのように腕を組んでしゃがみ込んだ。それから大きなうなり声をあげて、高らかに笑った]

─最初の稽古のとき、あなたはこんなふうに演じたのでしょうか?
もっと静かに話さなくてはならないということはわかっていました。静岡の半地下にある劇場で作品は初演されたのですが、そのとき私は、声の音量を下げれば下げるほど、観客の注意を引きつけることができることを感じました。まるで私の重心がとても低い位置にあるかのように。私はこれに気づいたとき、非常に感動しました。

─観客たちも感動していましたか?
観客は驚愕していました。観客のひとりは劇場の出口で「夢のようだ」と言いました。

─日本では観客は行儀がいいのですか?
そうですね。客席に入ったとたん、日本の観客はお喋りをやめます。そして上演中に会場を出ることもない。

─クロード・レジの稽古はどんな感じなのでしょうか?
大きすぎる声で話してはならないと彼はいつも私たちに言います。完璧というのは存在しないんだ、でも毎晩毎晩同じ状態を取り戻すためにはあらゆる事をしなくてはならない、と説明してくれたこともあります。この言葉に、私は日本の古典の冒頭が思い浮かびました。「ゆく河の流れは絶えずして、 しかももとの水にあらず」

─レジはあなたがたに自由を許してくれますか?
束縛された状態があるからこそ、人はより自由な精神を持つことができます。静かに話すことによって、より注意深くなり、身体のなかにより深い感情を探しに行くことができるようになります。

─この経験は俳優としてのあなたを成長させるものになると思いますか?
私がこれまでやってきた演劇の中では、何かが私に欠如していました。重要なことはいかにしてエネルギーを感じさせるかということです。沈黙に耳を傾けること、それはよい方法です。

訳:片山幹生(SPACの会 会員)

※編集部注の補足
実際には吉植は記者の前で、両膝を床につき、踵に尻をつけた態勢で、『王女メデイア』(宮城聰演出)の使者の報告の一節を実演してみせたそうです。

***

◎『室内』ヨーロッパ・ツアーの詳細はこちら


【アヴィニョン・レポート】 L’Humanité紙に『室内』記事

ル・モンド、リベラシオンに引き続き、ユマニテ紙に掲載された『室内』公演の記事をSPACの会会員の片山幹生さまが翻訳してくださいました!
ありがとうございます!

※元文はこちら(仏語)
※ル・モンド掲載記事はこちら
※リベラシオン掲載記事はこちら

***
アヴィニョン:レジによる暗闇のレッスンの恍惚
アヴィニョン演劇祭 ジャン=ピエール・レオナルディーニ
『ユマニテ』紙 2014年7月17日(木)

[写真キャプション]クロード・レジはもはや取り戻すことのできないものを提示する。水死した若い娘。意識のない小さな身体を女たちが見守る。(撮影:三浦興一)

メーテルリンクの『室内』を、日本語で上演する。このフランス人演出家は、言葉では伝えられない領域のなかで、常により遠くの地点に向かって進んで行く。この希有な時間は音楽によってかき乱されることはない。そこで人が耳にするのは、喪失と哀悼を伝えるために丁寧にコントロールされた人間の声だけだ。

(アヴィニョン特派員)クロード・レジは、横山義志の日本語訳によるモーリス・メーテルリンクの『室内』の翻案を上演する。静岡で初演されたこの舞台は、すでにこの五月にウィーン(オーストリア)とブリュッセルでも上演された。さらに秋の芸術祭のプログラムとして、9/9から9/27までパリの日本文化会館(Maison de la culture du Japon)でも上演されることが決まっている。

 レジがやってくるのを、私たちは静かに待っていた。騒がしさとは無縁の事件が起こるに違いない。熱狂からは避難して、モンファヴェの多目的ホールで私たちは、レジを待っていた。レジはこの機能的で没個性的なホールを瞑想のための空間に変容させた。2009年に、ジャン=カンタン・シャトランとともにフェルナンド・ペソアの『彼方へ 海の讃歌』をレジが世に送り出したのも、この同じ場所だった。

〈奇妙な言語がわれわれの耳元で鳴り響く〉
 メーテルリンク (1862-1949)は、レジにとって、精神的な面における兄とも言える存在である。レジは1985年に[パリ郊外の]サン=ドゥニのジェラール・フィリップ劇場で『室内』を上演し、それからそのちょうど十二年後に[同じメーテルリンク作の一幕劇、]『タンタジルの死』を上演した。今回上演される『室内』では、言葉の楽譜に空白が目立つ。表現は切り詰められ、暗示的になっている。この新しいバージョンで、レジはほとんど沈黙といっていいような地点に到達した。

 その静けさのなかで、かすかに聞き取ることができる声がある。その声が話すのは、われわれの耳には奇妙に聞こえる言語、まったく別の世界からやってきた言語だ。それはどんな世界なのだろうか? おそらく潜在的な喪失を抱える世界だ。その世界は真っ白な砂地の広がりのなかにある。その砂地の上を、静かにゆっくりと人々が行き来する。その人々の姿は、あたかも音楽的な秩序に合わせて変容するかのような照明(レミ・ゴドフロワ)の奥に映し出される、華麗な書体で書かれた文字のようだ。この舞台では音楽は使用されていない。人の声が奏でる音楽だけがある。不安はこのためさらに増幅される。

 精妙にコントロールされた声は、取り返しのつかない悲劇があったことを告げる。若い娘が水死した。その様子は、オフィーリアの最期を思わせる。舞台の中央では、子供がひとり眠っていて、女たちがそれを見守っている。大きな永遠の眠りと小さな一時的な死の対比。詩人の直感は、無意識のうちに思い描かれたある種の精緻な儀式の進行にしたがって、われわれの目の前で具現化される。観客のわれわれは、芝居の外側から、息を飲んでその様子をうかがい見る。部屋の室内の様子を注意深く見守る彼ら、室内の様子を描き出す彼らの存在に、われわれはほとんど心奪われている。その家のなかでは、こどもが横たわり、眠っている。若くして死んでしまった娘を弔う行列が徐々に近づいている気配がする。

〈そして漆黒の闇は光を放ち始め、光に包まれる〉
 精神分析用語から取られた「悲哀の仕事」という表現は、その使い勝手のよさゆえに、あらゆる機会で用いられるようになったため、陳腐な紋切り型になってしまった(「レジリエンス(精神的回復力)」も同様だ)。しかし暴力的なイメージの傲慢さのなかでもまだ隠喩が機能していたときには、悲哀の仕事は、われわれの目(かつては「魂の窓」と呼ばれたこともあった)の前で、適切なかたちで遂行される。クロード・レジは、観念的な瞑想の演劇を抑制した行為のなかで作ってきたが、これほど遠くの地点に到達したことはこれまでなかったのではないだろうか。

 密やかな知覚の測量士としてのレジの技量は、今やその最高点に達し、その芸術は昇華され、リンボ(古聖所)のすぐ側にまで行き着いた。レジの作品を通して、われわれは死を味わうことができるとまで言えば言いすぎかも知れないが、彼の作品は、死をかいま見せ、感知させ、その匂いを嗅がせてくれる。レジの作品で問題となっているのは、バロック的な表象である「空しさ」ではない。このバロック的表象には、予兆と去ってしまった存在への悲嘆が詰め込まれている。レジの作品はそうではない。われわれは1時間45分のあいだ、中間状態、物事の本質について思索するための時間領域のなかにいた。メーテルリンクが「暗闇の海」と呼ぶ世界が目の前に広がる。

 われわれはこれほど深い暗闇と出会ったことはなかった(ピエール・スーラージュ(1919-)の絵画にはこれに匹敵する闇が存在するかもしれない)。この暗闇は光り輝き始める。そして灰色のあらゆるスペクトルがすみずみまで探索された後で、この暗闇は光に包まれ、われわれはそのなかに人影を見分けることができるようになる。人影は、絵画のように縁取りされた舞台の長い長方形のなかから、ゆっくりと現れ出る(舞台美術はサラディン・カティール。彼は大岡舞とともに衣装も担当している)。

 レジの深遠な構想は、彼の持つ絶対的な統治権のもと、『室内』という作品のなかで実現され、明らかになった。薄暗い明るさが意味を照らし出し、そこから彼の構想が明らかになる。レジが宗教的な領域において超越性を求めているのかどうか私は知らない。しかし彼にとって重要なことは、それぞれの人間が背後に抱えるあらゆることがらについての終焉を共有することではないだろうか。そして感覚的で具体的な経験を通して、死がわれわれにとって身近なものになったとき、この共有は行われるのである。

訳:片山幹生(SPACの会 会員)

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◎『室内』ヨーロッパ・ツアーの詳細はこちら


2014年7月27日

【アヴィニョン・レポート】 Le nouvel Observateur紙に『室内』記事

Le nouvel Observateur紙にも『室内』記事が掲載されました。
※元文はこちら(仏語)

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クロード・レジ、壮麗

 クロード・レジ演出、日本人俳優出演のモーリス・メーテルリンク作『室内』は政治にもふれず、神にもふれてはいない。だが、我々をのめり込ませ、あらゆる感覚の幅を広げさせる。この公演はまさに壮麗である。

 舞台中央には子供が横になって眠っている。その小さな身体は夢や天使のように無重力状態にあるかのようだ。まだ娘の死を知らされていない家族の一人息子だ。地面も壁も弓形にかたどられたとても柔らかく控えめな光の中に家族はいる。それ以外は闇だ。娘の死をすでに知っている人々が闇空間で話をし、屍を担いでやってくる喪の一行がゆっくりと野原からやってくるのを見ている。そして、一行の歩みを描写しながら家族に告知する瞬間を遅らせている。俳優たちの緩慢な歩みと身振り、声(日本語)は痛みというものの振動を強烈なまでに体現している。ここでは全てが放射線を発してくる、ゆっくりとした速度で。観客は中間にいる、生と死の狭間に。この芝居は子供の死を告げるその瞬間とその一言が永遠に広がっていくのを見事に捉えている。

 パリのフェスティバル・ドートンヌで再演時により詳しい記事を書くが、上演時間は1時間30分。形式だけで我々を魅了しようとは全くしていない。ただ、とても深い、自分に近しい位置での高い集中力を要求してくる。クロード・レジは、世界の喧噪から遠く離れたところで、時に挑戦し、あらゆる意味での地平線を押しやり、そして、『室内』をもって演劇の美を賞讃している。(モンファヴェ劇場にて7月27日まで)
 
オディール・キロ
ヌーベルオブセルバター ビブリオブ 2014年7月22日版
 
(翻訳 浅井宏美)
 
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◎『室内』ヨーロッパ・ツアーの詳細はこちら


2014年7月26日

『室内』ヨーロッパ・ツアー レポート(6)

SPAC制作部『室内』担当の米山です。
俳優布施に続き、アヴィニョン演劇祭のツアーレポート第二弾です。

俳優や技術スタッフがツアーの最中、
制作の私は、静岡でお留守番しながら、
その後のツアーの準備の事務仕事を進めているのですが、
アヴィニョン公演は、制作兼字幕スタッフとして、
ツアーに同行しております。

それにてしても演劇祭期間中のアヴィニョンは、
朝から晩まで街のいたるところで演劇が上演されていて、
深夜12時過ぎまで、本当にお祭り騒ぎです。

アヴィニョン街中

この街の一体どこに、
『室内』の上演に必要な沈黙と闇はあるでしょうか。

では、今日は『室内』の上演会場までご案内します。

?

アヴィニョンの中心地を取り囲む城壁を出て、アヴィニョン中央駅を右に見ながら…

アヴィニョン中央駅

さらにどんどん進みます。

池
草原
郊外の家々
劇場前の道
みんなてくてく歩きます

ようやく劇場、モンファヴェホールに到着!

劇場に到着
横から見たモンファヴェホール

そうなんです。
『室内』の上演会場は、アヴィニョンの中心街ではなく、
そこから車で25分ほどいった
モンファヴェという郊外にあります。

モンファヴェは遠いよ
(左端がアヴィニョンの中心地、モンファヴェホールは右端の終点2つ前)

途中には池があったり、草原や木々の茂る場所があったり、
そのなかにぽつぽつと家があったり…。

劇場への行き来のバスの窓から見えるそんな風景は、
なんだかメーテルリンクが描いた『室内』の世界を
思わせもします。

私たちは、この街の喧噪とは離れたこの劇場で、
『室内』の沈黙と闇の時間と空間を、
レジさんや、お客様と共にしています。

今日のおまけ

すぱっくんもモンファヴェでお出迎え
 
 
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*『室内』ヨーロッパ・ツアー レポート バックナンバー (1) (2) (3) (4) (5)
*『室内』ヨーロッパ・ツアーの詳細はこちら


2014年7月25日

SPAC県民劇団 劇団静岡県史 ブログ#2

舞台芸術公園の稽古場の前を通ると、「SPAC県民劇団 劇団静岡県史」の皆さんのウォーミングアップの声、セリフを練習する声が聞こえてきます。暑い夏に負けない、活気ある稽古場にお邪魔してきました。

『しずおか徳川家康公ものがたり』は、踊りあり立ち回りありの時代劇です。
台本の読み合わせでは、時代劇特有の言い回しがたくさん。合間には主宰の松尾交子さんより、人物や時代背景についてのレクチャーが入ります。
前回のブログでご紹介した着物での所作や殺陣の他にも、時代劇のDVDを観たり資料を読んだり、歴史を学ぶことにも皆さん大忙しなんです!!

読み合わせの後は、稽古した場面の発表会。
さあ、これはどんなシーンでしょうか?

戦国時代の有名な武将や姫たちが生き生きと立ち現れる本作、演劇好きな皆様はもちろん、歴史好きな方にもオススメです♪

明日から、チケット前売り開始!
詳細はこちらをご覧ください。

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SPAC県民劇団 劇団静岡県史
『しずおか徳川家康公ものがたり』
舞台芸術公園 野外劇場「有度」
2014年9月26日(金)・27日(土)各日19時開演

☆劇団員によるブログはこちら↓
劇団静岡県史 『しずおか徳川家康公ものがたり』ブログ
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【アヴィニョン・レポート】 『室内』当日パンフレット掲載インタビュ― 

アヴィニョン演劇祭『室内』公演の会場で配布されているパンフレット掲載の、
クロード・レジ氏インタビュ―も通訳の浅井さんに翻訳していただきましたので、
ご紹介いたします。

アヴィニョン演劇祭『室内』パンフレット
 
 
『室内』
クロード・レジ氏 インタビュー

すでに演出された作品を再び扱うのは初めてですね。なぜ、日本人俳優との仕事を受けましたか?

C.R. 新たなテキストを使っての経験を試みる方が好きなので、そうですね、初めてです。今回の制作過程は今までとは違い、静岡県舞台芸術センターの芸術総監督である宮城聰氏から日本人俳優とクリエーションをしてほしいという依頼があり、それをお請けして始まりました。
宮城聰氏の演出の仕方は私のとは全く違いますが、何度も私の作品をフランスでご覧になっているのを知っていましたので、その違いに興味を持っていらっしゃるのでは、と思いました。でも、とにかく私は冒険好きですから、まずメーテルリンクの作品を使って時間をかけてオーディションをし、俳優を自分で選びたいと願い出ました。

何故、この作品を選びましたか?

C.R. 初演は1985年で時間も随分と経っていますので、再びクリエーションを行なうことが可能でした。この戯曲に特に感銘を受ける理由のひとつはもちろん子供の死がテーマだからですが、もうひとつは私の方法論をもっと掘り下げる可能性を与えてくれるからです。声とイメージを分離して行なう探求をもっと突き詰めることができますし、言葉の狭間に隠されている見えないものを浮上させたいという私の熱望をも満たしてくれます。日本でも文楽という人形演劇界では17世紀からこのような探求がされていたように思います。ですから、『室内』に「マリオネットのためのドラマ(悲劇*)」とサブタイトルをつけたモーリス・メーテルリンクを日本人俳優に対峙させるのも面白いのではないかと思いました。あまり「人間的」に演技をしないようにし、つまり、(登場人物たちを*)体現しすぎず、センチメンタルになりすぎず、現実主義は完全に排除し、能動的とは言いきれない状態で行なう。
透明であるが故に通り過ぎていくものを発見できるよう、ある意味で受動態であることを寄りどころとする演技を求めました。また、日本にはもうひとつの伝統芸能、能があります。死せる者と生ける者の境目をくっきりと付けておらず、舞台に登場する俳優は死者の国からやってくるとも言います。『室内』を提案するのにいい口実がいくつもあったのです。

少女の死がメーテルリンクの戯曲の中心にありますね。

C.R. はい。でも、核にあるのは、舞台上にいる人間の一部はその娘が死んでしまったことを知っているけれど、家族は同じように舞台上にいてもまだ知らないということです。そこには意識と無意識が同時に存在しています。ジークムント・フロイトの思想や研究の基礎のひとつにこの同時性があるように思います。私が興味を持っていたのは、言葉を発し、会話し、語っている俳優グループと、完全なる沈黙の中で動き、生きている俳優のグループを対立させることでした。その対立においてメーテルリンクが関心を持っていたのは悲劇の「予感」だと言っています。知らないうちに気づいている。閉ざされた家族の世界にさえ存在しうる予感。

家族は家の中にいて、生活している(生きている*)様子が窓から見える、とト書きに書かれています。ト書き通りの舞台装置ですか?

C.R. いいえ。今回の芝居では、照明だけで空間を区切っています。テキスト自体が現実主義的ではないので、見た目の現実主義を排除することによって、メーテルリンクが起こした改革をもう少しだけ押し進められるような気がしました。演出家にとって大切なのは直感に身を委ね、感じるままにテキストを扱うことだと思っています。

貴方にとってメーテルリンクの文体とは?沈黙とともにあるエクリチュールでしょうか?

C.R. 音楽性のあるエクリチュールですね。彼のいくつかの作品のために描かれた楽譜がよく冗語的になっているのはそのせいです。リズム、ときにはアレクサンドラン(12 音節綴*)、ときにはシェイクスピアのようなデカシラブ(10音節綴*)を混合させたエクリチュールなのです。マラルメも言っているように、言葉は発せられているがどちらかというと示唆されています。とても神秘的な文章もあり、例えば、ある登場人物が傍にいる娘達について次のように言っています。
「まるであの子達は知らないうちにお祈りしているみたい。魂の声を聞いているみたい・・・」
このような文章には、演技も解釈も無限の可能性があり、我々を夢の世界へ連れていってくれます。沈黙はメーテルリンクの作品では最も重要な要素です。沈黙をつくらない愛人たちは真に理解しあっていない、とも言っています。我々は沈黙によって人間存在の核心に触れることができるのです。
激昂と騒音が常にあふれているこの世で、ゆっくりと沈黙の中で作業をすることは秩序を覆すような行為になってしまったように思えます。

でも、とても現実主義的なアクションがありませんか?

C.R. はい、でもメーテルリンクは現実主義からわざと方向をそらせています。例えば、娘の屍を担いでやってくる一行が見える箇所でも、屍は登場しません。観客が想像力を作動させるよう煽動しているのです。実際の描写はなく、テキストで示唆しイメージを想像させ、観客の想像界を支えにして芝居が構築されていくのです。

メーテルリンクは彼の演劇スタイルを表現するのに「日常の悲劇」という言葉を創りましたね。

C.R. つまり、舞台で悲劇を表現するには、何も起こっていないようにみえる静かな宵にいるところを設定するだけで十分だ、と。メーテルリンクは『室内』でまだ娘が死んでしまったことを知らない家族についてこう書いています。「誰かが立ち上がったり、歩いたり、身振りをしたりする時には、距離の遠さや光の加減、窓にかかるおぼろげなヴェールのために、重々しく、ゆっくりとした、貴重なしぐさのように見えて、あたかも霊的な存在のしぐさであるかのようである。」俳優の演技は作者が明確に書いているのです。それ以上何も加えることはありません。その指示に従うまでです。

マルトとマリーと名付けられた登場人物がいます。新約聖書にある、キリストによって甦ったラザロの姉たちと同じ名前ですね。そしてもう一人は「よそ者」と名付けられています。偶然でしょうか?

C.R. 違うでしょう。メーテルリンクはラザロについてのテキストを書いていますが、蘇生した人間がどのようにして日常生活に戻っていくのかという点に関心を寄せていました。よそ者に関しては、彼はどこにいても何に対してもよそ者であると言えます。我々と同じ世界の者だが、もしかすると別の世界から来ているのかもしれない。認識もあれば、我々にない知識も持っていますし、彼は秘密の世界と繋がっています。そのよそ者である彼が屍を見つけ、川岸に引き上げます。彼は死と生き生きとした関係性を持っているようです。

(ジャン・ピエール・ペリエ)

2014 年 7 月アヴィニョン・フェスティバル 当日配布パンフレット

*翻訳者注
(翻訳 浅井宏美)

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