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2012年3月1日

【コラム・劇場文化①】『グリム童話~本物のフィアンセ』西垣 通さん

公演当日、劇場で皆さんにお渡ししている冊子、<劇場文化『グリム童話~本物のフィアンセ~』>がウェブ上でも読めるようになりました。

こちらは、情報学者・作家の西垣通さんのコラムです。

『グリム童話~本物のフィアンセ~』
観劇の前後に、読みごたえたっぷりのコラムを是非あわせてお読みください。

生はただ一つ
 ―― 時空反転装置としての言葉

 

西垣 通 NISHIGAKI Toru

 人はいったいなぜ、劇場に足を運ぶのだろうか。

 日常生活ではのっぺりとした時間がねっとり流れ、うっとうしいノルマ、成績、競争で稠密に組み立てられたリアル世界は閉塞している。そんな息苦しさから、いっときでも逃れるためか。われわれが否応なく投げこまれた時空は、「情報社会」と呼ばれる(らしい)。ものごとの処理効率を高めるための「情報」が氾濫しているのだ。そこで生命的な「コミュニケーション」なんて成立するのだろうか。われわれはコンピュータのように機械的な応答を繰り返し、あたかもコミュニケーションが成立しているようなふりをしてごまかし、少しずつ消耗して、汚泥のような疲れを身体の底に溜めこんでいく。

 とはいえ、夢幻のファンタジー世界で遊びたいということなら、王子と美しい娘の「メルヘンチック」な愛の物語に浸りたいということなら、宮城聰のつくる演劇には背を向けて、さっさと立ち去ったほうがいい。なぜならそこは、はるかに恐怖にみちた世界、リアル世界と違ってごまかしのきかない、きらめくような「真実」の世界なのだから。

 たしかに、演じられるのは透明なメルヘンの世界だ。紙細工のうえを横切る光と影、星のように交錯する声と身体の群舞は、文句なくうつくしい。「覆された宝石のような朝」という、いつかどこかで耳にした詩句が思いだされる。

 が、だからこそ、そこには、ぞっとする生の深淵が顔をだすのだ……。

 舞台はどこか遠い異国、ヨーロッパのくらく深い森の中のはず。とはいえ、演劇空間を縦横にとびかう言葉は、いつしか自律性と普遍性をおび、逆に演技者の肉体を揺り動かし共鳴して、観ているわれわれの心のいちばん柔らかな部分を、まるでレーザーガンのように容赦なく、しかしたとえようもないほど優しく、つらぬき始める。

 もはや登場人物は、メルヘンの世界に住まう王様でも悪魔でもない。はからずも娘を悪魔に売り渡してしまう哀れな男の話は、つい昨日、新聞の社会面の記事に出ていたのではないか。手首を切り落とされた娘は、いじめられて失踪した隣家の女子高生ではなかったのか。娘をだまし、つらくあたる継母は、実は過去のわたしの化身ではなかったのか。そして、あの王様のように、決して忘れるまいと互いに誓った大切な記憶を、いつしか惜しげもなく捨て去った人物こそ、まさにわたしが愛したあなたであり、今のこの哀れなわたしに他ならないのではないのか……。

 日常生活の雑事のなかに埋め込まれ、たくみに隠されていた「真実」が、劇の進行とともにゆっくりその実相をあらわしてくる。観客であるわれわれは黙ったまま、おそるおそる、自分の世界のひそかな裏側を手探りしはじめる。「情報社会でコミュニケーションに忙しい」自分は、本当はいったい何をしているのか。無意識のごまかしこそが、汚泥じみた疲れをもたらしているのではないのか。

 そうして時空がゆっくり反転する。

 日ごろ信じきっている日常のリアル世界が力をうしない、縮みこみ、まるでメルヘンの演劇世界の中に埋め込まれた、一過性の小さな要素にすぎないように思えてくる。目の前で演じられるのは、生きること、死と再生の物語である。そこでわれわれは、自分の生きている世界が、地上にただ一つしかない「大いなる生」のほんの一断面にすぎないのだと、心底から確信するにいたるのだ。

【執筆者プロフィール】
西垣 通
情報学者、作家。東京大学教授。近著として、『スローネット』(春秋社、2010年)、『ネットとリアルのあいだ』(ちくまプリマー新書、2009年)、『コズミック・マインド』(岩波書店、2009年)などがある。