2008年7月1日

『エリザベス2世』(ゲルト・フォス演出・出演、トーマス・ベルンハルト作)

エリザベス2世、来臨せず
                      奥原佳津夫

 裸舞台に肘掛椅子と小卓、貼りものの柱時計。車椅子に乗って登場した老紳士が、膝の上に台本を開いておもむろに語り始める̶̶「『エリザベス2世』、作・トーマス・ベルンハルト。」
 ヨーロッパ式言葉の演劇の極北に位置する作品であり、ベルンハルトのテクストと演じるゲルト・フォスの演技にすべてを負った、愚直なまでにストイックな上演であった。
 主人公のヘレンシュタイン以下、すべての台詞とト書きをフォスが語る一人芝居。はじめ、海外公演のために簡略化した暫定的なリーディング上演なのかと思ったが、やがてどうやらそうではないことに気づく。「一人芝居ヴァージョン」として成立した作品なのだ。
 ストーリーは至って単純、エリザベス女王の行幸を見物すべく数多の知人が厭世家ヘレンシュタイン家のバルコニーに詰め掛ける。その朝、彼が使用人相手に垂れ流す言辞の数々̶̶。
 「エリザベス2世」が何か展開に関係するわけではなく、烏合の衆が群がる対象、虚像という意味からだけ云えば、日本の政治家でもテレビタレントの名前でもいいわけで、人を食ったタイトルである。
(そこにはオーストリア特有の政治的背景や国情があるのかもしれないが、オーストリア演劇とドイツ演劇の区別もつかない門外漢なので目をつむる。)
 さて、この「一人芝居」という上演形式の故に、舞台を観ながら、三つの次元からこの『エリザベス2世』という作品を味わうことになった。まずは、その視角性を排した舞台から、文学としての戯曲自体を味わい(独語を解さないので、実際字幕で活字を読むことになる)、次に完全上演された場合の舞台面や登場人物たちを想像させられ、そして現前するパフォーマンスそのものを楽しんだ。
 いきおい、文学(小説)と戯曲と上演、あるいは、戯曲(劇作家によって書かれた言葉)と台詞(俳優によって発せられた言葉)のあわいについて考えさせられた。
 この作家の一人称小説がそのまま舞台上演されたとも聞くが、この戯曲にしてからが、テクストのほとんどは主人公の一方的な語りに費やされており、一人称小説として充分に楽しめるだろう。しかしこの上演が、活字を音声化した「朗読」ではなく、「一人芝居」として成立しているのは、俳優の身体とその台詞を支える作品世界の確かな構築によって、言葉が充分な空間性を獲得しているからである。
 一人の極めて自己中心的な人物の内面に焦点をしぼり、その視点から外界を認識するベルンハルトの作風と相俟って、その戯曲全体を一人で語りきることによって舞台上に作品世界を成立させるゲルト・フォスは、限りなく作者ベルンハルトに接近してゆく。
 ヘレンシュタインは絶え間なく語りつづける。それは時に暴言であり、時に脈絡を欠いた連想である。だが、その言葉の大部分が向けられた使用人のリヒャルトには決まり切った相槌しか期待できず、対話が成立することはない。さらに彼は、この腹心ともいうべきリヒャルトが自分に殺意を抱いているに違いないという猜疑に秘かに怯えている。
 事故で両脚を失い、視覚、聴覚の衰えを感じながら誰を信じることもできない老人の孤独。
 一見、リアリズム演劇を思わせる日常的な道具立てながら、その孤独な言葉の渦を聞くとき、我々が作品世界に感じるのは、例えばチェーホフの中にベケットを見る視点、あるいはベケットを通してチェーホフを見る視点に通じるものである。
 こう考えると、孤独な主人公一人にすべてを語らせる「一人芝居」という上演のヴァリエーションが的を獲たものに思われる。
 途中、柱時計のネジを捲くのと一旦椅子に掛け替えるわずかなアクションを除き、台詞を語り続けるだけの上演に、退屈さがないと云ったら嘘になるだろう。意外だったのは、フォスがヘレンシュタイン以外の脇役の台詞を、ト書きを読むのと同列に処理したことだ。
 俳優にとって何役もの人物像を演じ分けるのは魅力だろうし(小物なら迷わず腕の見せ所と心得たろう)、化けるタイプの俳優フォスには容易なことだっただろう。あえてそうしなかったところに、演出者ゲルト・フォスの理解の深さと抑制を感じる。(この他に彼の演出作品があるのか寡聞にして知らないが、上演後の質疑応答で、かつて映画監督を志したと聞き、なるほどと思った。)少なくとも自分の演技を的確に操れる演出者であることが、優れた演技者の必要条件だと思っているが、ゲルト・フォスはまさしく名優であった。
 彼の言葉の聞き役である脇役たちが、個々の俳優によって演じられた場合、どのような人物像が提示されるだろうか?主人の言葉に唯々諾々と従う女中も、全面的な肯定の裏に隠れて一切本心を覗かせないリヒャルトも、その受動性や無人格性によって、ヘレンシュタインの孤独を際立たせる存在になるのではないか?フォスはそれらの役を、あえて演じないことによって完全な空白として提示したのだ。
 思えば、他者との関係性を否定したヘレンシュタインにとって、周囲の人物たちはいないも同然であり、それは彼の感知しないところで世間を賑わすエリザベス女王の行幸とて同じこと。ベケットの「ゴドー」同様、決して登場することのないタイトルロール「エリザベス2世」は、不在の象徴であるのかもしれない。この「不在」の劇は一人芝居にふさわしい。
 ラストに用意された(人々が殺到したことによる)バルコニー崩落は、チェーホフの皮肉な掌編を思わせもする。見下ろして、「みんな死んだな」と一言、この大詰めを語るフォスの語り口は、落語のオチにも似た味わいで痛快であった。
(於.静岡芸術劇場 2008.5.31所見)