2008年10月7日

『エレクトラ』(鈴木忠志演出、ホーフマンスタール原作)

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車椅子のエレクトラ——二十一世紀のギリシア悲劇

                      奥原佳津夫

 この上なく残酷な作品である。
 また、これほど観客の予想を裏切るギリシア悲劇の上演もあるまい。いうなれば確信犯的ギリシア悲劇未遂である。

 冒頭の十分余り観客は、山高帽に黒皮靴、そして下着一枚の半裸の俳優五人が見事に統制された動きで車椅子を乗り回すのを見せられる。その動きは力強く、並々ならぬ緊迫感を保ちながら、やがてコミカルなものに変ってゆく。物語が始まる以前に、演出者(鈴木忠志)のテクストに対するスタンスがはっきりと示される場面と云えるだろう。
 五人の男たちは、そのままこの作品のコロスとなるのだが、ごく一部原戯曲のコロスの台詞を口にするものの、この作品での彼らの役割は、大半エレクトラの台詞を代弁するに終始しており、それがこの上演の特色ともなっている。そもそも、古代ギリシア悲劇のコロスの役割が、プロタゴニストの共鳴装置でもあったことを思えば、正統な処理と云えるかもしれない。また、役を演じるロシア人女優に対してその内面の声を語る日本語のコロスという、日露二ヶ国語が生かされた上演であった。

 さて、車椅子に乗せられて登場したエレクトラは、己が身の不運をかこち復讐を叫ぶ。語られるのはホーフマンスタールのテクスト——抒情的で、時に奇想でさえある幻想性に彩られている。ソフォクレスの原戯曲が鼻白むほど論理的であるのに対して、このテクストを選んだこと自体が、演出者・脚色者(台本・鈴木忠志、宮城聰)の、そしてこの作品の指向を明確にしているように思う。
 二千五百年の時を経て、古代の物語を二十一世紀の現代に上演する方法の一つは、思想だの性格だのといった近代的なものを跳び越して、人間の情動のおよそ原初的なもの、情念にまで遡ることだと思っている。(云うまでもなく、関係性・社会性に重きを置くことは、その対極にあるもう一つの方法である。)この上演は、「精神病院」、「車椅子」、という設定によって、外界と遮断され、身動きを封じられ、ひたすらに内なる情念へと沈潜していく。

 その結果として立ち現れる登場人物たちの人物像は、やはり観客の先入観を大きく裏切るものだ。 おそらく最も観客のイメージに近く、違和感が少ないのは、タイトルロールのエレクトラだろう。冒頭、看護婦に車椅子を押されて登場するものの、打楽器のリズムにあおられて、叫び声をあげ、転げ回り、大きく躍動する(但し、限られた圏内から出ることはないのだが)。事件が彼女の妄想の中で起こるとするならば、車椅子で運ばれてきた姿が彼女の実体であり、激しくのたうつ身体は溢れ出る情念ということになろう。
 美貌と伸びやかな肢体のクリソテミスは、原戯曲では姉エレクトラとの対比から、感情的であるよりはむしろ計算高い人物像が窺えるのだが、この上演では、姉に劣らず明確な意思と強い欲望をもった人物として演じられる。自ら素早く車椅子を駆って、舞台上を一直線に走り込んでくる姿が印象的だ。
 だが彼女にしても、「世界は病院である」という世界観の中にあって自由ではなく、「精神的な障害を表す」と演出者の述べる車椅子から、一度として立ち上がることがない。自在に駆使すると見える車椅子こそが、彼女の桎梏なのである。
 杖にすがってようやく立ち上がるクリテムネストラは、夢に怯える老残の姿。古典の王妃は真っ赤な靴下で戯画化され、悪夢から逃れることだけを切望している。(付き添う赤いランジェリーを覗かせた看護婦が肉感的であるだけに、彼女の病んだ肉体と精神がきわだっていた。)

 大詰、エレクトラの期待を一身に背負って現れる筈のオレステスは、無残に年老いて力なく車椅子に身を寄せている。勇ましい台詞とは裏腹に、それを実行する力の無いことは明白だ。(ロシア人女優たちのエネルギッシュな身体に対して、この日本人俳優の枯れ具合が効果的。)彼は、復讐を誓う大言壮語ののち、力尽きて俯いたまま車椅子を押されて退場する。
 エレクトラの思い描く復讐は幻想の中でさえ実現しそうにない。
 このあと、凶刃に迫られたクリテムネストラの悲鳴が聴こえてくるが、エレクトラの願望、幻聴としか受け取れまい。もちろん、ソフォクレスの原戯曲でも、殺人の場面が直截的に舞台上で演じられるわけではないが、クリテムネストラの遺骸を示すだけの現実性はあった。

 エレクトラは幻聴の悲鳴に快哉をあげ、打楽器のリズムに感情を高揚させて激しく身をくねらせるのだが、観客はそれに共感することはできない。力尽きたエレクトラの姿が闇に沈んでいくのをただ距離をおいて見つめるばかりである。
 二十一世紀の現代、悲劇を個の情念のうちに突き詰めていけば、すなわち反悲劇とならざるをえない。

 鈴木忠志演出によるロシア人劇団の上演作品といえば、先年のモスクワ芸術座による『リア王』が記憶に新しい。まさに現代演劇の最高峰ともいうべき洗練された作品であったが、この『リア王』は(またその他の鈴木忠志演出のギリシア悲劇についても云えることだが)、主人公の幻想、精神病院、車椅子、など共通する道具立てを用いながらも、まぎれもなく高純度の悲劇であった。
 それに対して、この反ギリシア悲劇とも云うべき『エレクトラ』が、(謂わばブレヒトの劇場である)タガンカ劇場の俳優たちによって演じられたことは、興味深くも、また、いかにもふさわしくもある。
 

(於.静岡芸術劇場 2008.5.11所見)