2009年8月14日

『オリヴィエ・ピィのグリム童話』より『少女と悪魔と風車小屋』(オリヴィエ・ピィ作・演出、グリム兄弟原作)

グリムよりグリム的なグリム童話
―オリヴィエ・ピィ作・演出『少女と悪魔と風車小屋』劇評

森川泰彦

この作品はグリム童話の『手無し娘』を原作とし、それに大筋で従うものである。そこでまず、原作から検討しよう。グリム童話は、民間伝承を忠実に記録したものではなく、グリム兄弟の意図的な編集が加えられていることは今日よく知られている。兄弟は、残酷な場面は残したものの、版を重ねるに従って性的内容を極力排除していった。この童話についても、兄弟は論理的に一貫している「一つ抜群にすばらしい」類話を見つけたのに、全面的には採用しなかった (ⅰ)。悪魔は登場せず、父親に結婚を迫られ拒んだ娘が両手と両乳房を切り取られて家出するという内容であったためである。またこの採話では、手紙をすりかえるのは、嫁を快く思わない王の母であった(ⅱ)。そして兄弟は、改定に当たってキリスト教色を強めていく。天使が登場して娘を助ける役割を担うようになり、また手が回復するのが神様のお恵みとされるのは、二版以降なのである(ⅲ)。

おとぎ噺については、今日、ユング派の深層心理学的解釈や、フロイト派の精神分析的解釈は広く行われている。こうした観点から排除された性的意味を回復しようとすれば、悪魔とは人間の道徳に反する心=欲望の象徴だと見做すことができる。裏を返せば、人間の悪心を外部に投影して擬人化することで、本人を理想化し、その責任を免除するという無意識的置き換えが行われているのだということである。さらによりテクストに素直なのは、父親が人買いに一度は娘を売り渡したが娘を不具にすることで諦めさせたという解釈、そして、王は王妃が不義の子を産んだと疑い立腹して母子の殺害を命じたが、後に後悔したという解釈だろう。不自然なことに、王は「贋」の手紙を見せられても号泣するばかりで言い訳しないのだ。また悪事を働いた悪魔は処罰されず、娘の幸福の回復が解決とされている。現実を否認し、悪魔に責任を転嫁することで、忌まわしい過去を同様に正当化したのだと考えうるのである。さらには家出した娘は、両手が無いのにどうやって生計を立てたのか。林檎の木や梨の木は、エデンの園の禁断の果実を連想させる。前者は近親相姦や人身売買を象徴し、後者は売春を暗示していると捉えうるのである。「王」とは、そこで出会ったのだ。もちろん異なる解釈も可能である。A・ダンデスは、娘が母親に取って代わりたいという願望を持ち(エレクトラ・コンプレックス)、父親が自分と性的関係を持ちたがっていると想像して、無意識的に自らを責める話だと解する(ⅳ) 。王は父親の身代わりであり、かかる近親相姦の結果化け物を産むことになるが、最後には小児的状態を意味する「手の無い状態」から脱却するのだという。

オリヴィエ・ピィ氏は、かかる原作をどう改作・演出したのか。氏の採用したのは、さらなるグリム化というべき方針であった。すなわち、性的含意はさらに取り除き、キリスト教化を推し進めたのである。まず悪魔は一個の主体として存在し、一人の役者が演じることで舞台上に現前する。また王と手紙をやり取りするはずの王母は省略され、庭師がこの役割を兼ねる。悪魔を完全に実体化することで、娘の両親や姑とは別人格であることをはっきりさせ、近親相姦や母親の息子への欲望といった性的要素を物語の表面から拭いさったのである。そして劇中劇の場面を設け、骸骨の人物を登場させる。死の前では万人が平等たることを表す「死の舞踏」は、宗教劇中で儀式化した踊りとして演じられていたというが、これはもちろん、現世のむなしさと死後の救済の重要性、神の前の平等を示唆する宗教的主題である。また、最後に父親が赦しを求めて教会を象徴する家へやってくる場面も付加される。

しかし、ピィ氏が演出ノートで述べているように、「『グリム童話』がいまでも信じられないほど私たちを魅了するのは、」「変わることのない真理をささやいているから」であり、そこでは「欲望とか」「死とか」「知への渇望」といった「問題が、これ以上ないほどシンプルな仕方で問われている」のだとすると、受け入れるにせよ反対するにせよ、性や悪の抑圧をめぐる知を無視することはできないはずである。また、彼は熱心なカトリックとのことだが、対抗宗教改革に現れたカトリックのバロック美学の本質は、直線的に天を目指す力の表象ではなく、それを破壊する力とそれに打ち勝ってさらに天を目指す力の二項対立的葛藤の表象にあるとされる(ⅴ)。従って、彼の立場を考慮しても、人間の闇を直視せず神による救済が前面に出る改作・演出には、死や罪の意識の強調という要素もあるにせよ物足りなさを感じてしまう。特定の解釈を押し付けよと言うのではない。そうした解釈を喚起し、さらには神学的世界と呼応させる方が豊かだろうし、少なくともそれへ誘う余地を狭めるべきではないということである。例えば、フロイトの言う心的構造をなす超自我、自我、エスの三対を、神、人間、悪魔の三対に対応させることが考えられるし、天使や悪魔は声だけにする、悪魔を複数の役者に演じさせる等、工夫はいくらでも可能だろう。

とはいえこうした深層から表層に目を向ければ、極めて充実した出来栄えであったと言える。走馬灯のように次から次へと現れては消えるシーンの連続は、音楽劇であったこと、分かりやすく感情移入しやすい物語であったことと相まって、豊かな叙情性と見世物的楽しさに富んでおり、観る者を一時も退屈させない。またこれは、ピィ氏の強調する現世の儚さという主題とも調和している。そしてその展開を支えていたのは、物語上の〈虚構〉とそれを表す舞台上の〈現実〉の狭間で働く表象作用(〈虚実〉と呼ぼう(ⅵ))の豊かさである。演奏し歌い演じる役者たちは、その大袈裟な表情・身振りを通じて、観客を巧みに異世界に誘う。また美術や衣装、メイクの赤、黒、白、金を基調とする限られた原色に彩られた空間は、煌びやかだが影をも感じさせる独特の雰囲気を醸し出す。さらに特筆すべきなのは、ブレヒト的な仕掛けの露呈を利用したその美術であり、そこには、最小限のものから最大限のものが生まれることによる演劇特有の面白さが溢れていた。二つの大きな木箱が、変幻自在に移動し回転し組み合わされ、あるいは畳み込まれた壁を広げることで(現実)、様々な場面(虚構)が表象されるわけだが、そうした大道具の変貌(虚実)は、その質素さを保ったままで豊穣さを備えている。それらは、能的身体が老人から乙女まで様々な表象を担う前表現的身体であるのと同様、言わば前表現的美術として、この物語にふさわしい〈虚実の空間〉を切り開いていったのである。
(2009年6月27日観劇)

(ⅰ)鈴木晶『グリム童話』p148~
(ⅱ)高木昌史『グリム童話を読む事典』p140
(ⅲ)間宮史子『白雪姫はなぐられて生き返った』p175~
(ⅳ)J・ザイプス『グリム兄弟』p184~
(ⅴ)渡辺守章他『文化と芸術表象』p49~
(ⅵ)渡辺守章氏らの「虚構の身体」概念の拡張である。渡辺守章『仮面と身体』p242


2009年8月13日

『オリヴィエ・ピィのグリム童話』(オリヴィエ・ピィ作・演出、グリム兄弟原作)

『グリム童話』を語ること
奥原佳津夫

民間伝承やあるいはそれを模した文芸作品が、その構成要素を遡れば祖形において神話と同根であることは云うまでもない。オリヴィエ・ピィ作・演出の三部作は、童話の素朴で典型的な登場人物たちの両脇に天使と悪魔を配することで、『グリム童話』をいわば「キリスト教説話」の次元で語り直した。

父親が悪魔と交わした契約によって両手を失った娘が王妃となり、再び悪魔に仲を裂かれながらも王と再会する『少女と悪魔と風車小屋』。三人の王子の末弟が、天使の助言を容れて瀕死の父王のためにいのちの水を手に入れる『いのちの水』。継母に虐げられた娘が、言い交わした王の記憶を取り戻して結ばれる『本物のフィアンセ』。いずれも、善良な主人公を支える守護天使が登場し、一貫してアコーディオンを持った語り手の女優によって演じられることで、三部作を構成する縦糸となっている。
もう一人、三部作に共通する登場人物として、宮廷に仕える庭師がいる。権力が悪に傾く時も、己の信じる所を曲げないこの庭師には、自然の摂理=天意に従う人間という役割が与えられている。自然に天の恩寵を見るこの作品のメッセージは、『少女と悪魔と風車小屋』の終幕の台詞に明らかである。切断された両手が再生したことは不思議ではない、年々木々が芽吹くのと同じだから、と説明する王妃に、王が答える、「ぼくはいつもそれが不思議だった」と。
だが、純粋素朴なメッセージは、むしろ実感をもって観客に受け取られにくいものでもある。どう語られるか、が問題だ。

単純な物語であるが、それを語る手法には、様々な演劇伝統が援用されている。
まず目につくのは、額縁状に飾られたイルミネーションや、赤黒を基調にした衣装、白塗りのメイクアップなどが連想させるバーレスクやキャバレーの演芸、道化芝居の世界。少人数の俳優が類型的な演技もいとわず複数の役を演じわける手法や、彼らが演奏する音楽もその印象を強めた。
さらに、空間いっぱいに演技エリアを取った今回の上演では、観客が至近距離から仮設舞台を囲むバラガン(縁日芝居、見世物芝居)の感覚も存分に味わえた。
そして何より、主人公をめぐる天使と悪魔の存在を顕在化することで、三連作の童話は、中世道徳劇の並列的なエピソードを思わせるものとなった。「人間」をめぐる「美徳」群と「悪徳」群のせめぎ合いから「天国」に辿り着く結末によって人の一生を描く道徳劇のキリスト教的世界観が、この作品の基調として生かされている。(そしてそれは、クローデルに傾倒するとも聞く、カトリック詩人オリビエ・ピィの資質にも通じるものだろう)
とは云え、中世道徳劇のメッセージ性がそのまま現代に通じる筈もなく、バーレスク風の徹底して「俗」な装いで観客の共感を勝ち取ることで、純粋素朴なメッセージに耳を傾けさせてしまう所が、この作品の工夫であり妙味である。

多様な演劇の記憶を交錯させた作品だけに、「演劇」自体についての自己言及も注目に値する。
劇中、二つの劇団が登場し、第一作『少女と悪魔と風車小屋』では、余興の骸骨芝居を演じる一座が「芸術とは死とともにある悦楽」というデカダンがかった台詞を語るが、第三作『本物のフィアンセ』に登場する旅芸人一座は大きな役割を担う。記憶喪失の王に、劇中劇で自身の役を演じさせて記憶を取り戻させるというプロセスによって、虚構の中に劇中の現実を取り込むのだが、そればかりではなく、レパートリーとして『少女と悪魔と風車小屋』のパロディを演じてみせることによって、この上演全体を一挙にメタシアトリカルなものにする。
この一座は、不幸な物語を専門に上演する劇団だという。現実世界がそうであるからだ。だが一座の座長は「この結末は芝居がかっていすぎる」と云いながらも、終幕のハッピーエンドをむしろ嬉々として許容する。
ここに、一方にペシミスティックにならざるをえない芸術を見据えながらも、より開かれたものへと演劇を転化しようとする作者の姿勢を感じる。

オリビエ・ピィの作品では、昨年上演された『若き俳優への手紙』が印象深い。まさに、演劇芸術へのクレド(信仰告白)とも云うべき純粋な言葉が至情をもって語られ、なおかつそれが演劇的な充実感を持ちうるという奇跡的な作品に感動したが、一方、演劇創りの側に馴染みの薄い観客には、その言葉は実感しにくいものであったらしい。
その点、この『グリム童話』三部作は、誰にでもわかりやすい内容ながら、ともすると実感をもって受け取られにくい純粋素朴な言葉が、空虚に響くことのない絶妙なバランスが計られていた。一見たわいのない童話劇と見せながら、真摯に、愚直なまでに純粋に演劇芸術と向き合おうとするこの作者ならではの作品世界が拓かれていた。それは、道化芝居の俗性が、時としてそのまま宗教劇の聖性に転ずる瞬間を垣間見せるような、稀有の演劇装置である。
(於.舞台芸術公園 楕円堂 2009.6.27/28所見)