2012年6月25日

■準入選■ 深澤優子さん 『グリム童話~少女と悪魔と風車小屋~』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作)

■準入選■

深澤優子

 1月28日の「少女と悪魔と風車小屋」を観劇した。
 劇場入口で演出家の宮城さんが出迎えてくれる。きらきらした目の、きどりのない小柄な人だ。「この人はかわいいものが好きそうだなー」と思いながら入口をくぐる。
 柔らかな光に照らされた舞台は隅から隅までが白い。舞台上左側に打楽器を中心に、楽器が並べられている。舞台装置は折り紙の手法で構成されているので直線的な印象であり、巨大な白い壁が正面にある。グリム童話を下敷きにしたこの劇が記号と隠喩に満ちたものであることを予感させる。だが、それよりも、私の注意を引いたのは、舞台上、右手におかれた、白い折り紙で作られた木きな角のある鹿のオブジェである。これは、ただの「童話に登場する森の鹿ではなかった。この鹿は役割を三転し、後に天使の起こす奇跡を舞台に現出する仕掛けとなった。
 舞台袖の白い衣装の役者たちによる生演奏は祝祭的で賑々しい。音楽に応じて現れた一人目の登場人物、風車小屋の娘の父親は、やはり白い衣装である。そしてロボットのように、平板に不自然にしゃべる。動きもロポットのようである。男の妻も(これは男性が演じていて迫力があった。古典的でもある。)他の登場人物もみな、衣装は白で、平板にしゃべり動く。後に出てくる少女も庭師も王子も、出演者の衣装はみな白だ。動きも発声も意図的に統制され制限されている。不自然な姿勢でのストップモーションでせりふをしゃべる場面の連続を可能にするのは演技者の鍛錬であろう。
 舞台では余分な動きも、色彩も排除されている。その分、デザインも素材もより注意探く作られていて、観客は舞台上の仕掛けや演出家の意図にきちんと気づくことができ、何度も謎解きの楽しさを味わうことになる。
 巨大な白い壁はいつしか大きなスクリーンになり、そこに写った父親の薄い影は、いつのまにやら、黒く顔を塗った悪魔にすり替わっている。不古な悪魔の出現は実に巧妙に演出されており、観客は思わずしらずぞっとする。この瞬間、黒は白に対するもう一つの色彩となり、存在となる。口数少ない父親に対し、悪魔は饒舌だ。父親はいつの間にか風車小屋にいる自分の娘を悪魔に与える契約をさせられてしまう。だが、少女は悪魔にたった一人で抵抗する。少女が描く水の結界の輪は光の円で表現される。悪魔に命じられて抵抗する娘の手を切る父親が現実に手に持っているのは鈴である。だが、スクリーンに映しだされた父親の影が手に持つのは斧である。斧の記号としての鈴が鳴るとき、少女は両手を切られてしまう。もちろん、白い舞台に赤い血が流れるわけはなく、少女は無感情に「いたいわ、おとうさん」と叫ぶ。それでも観客はこの場面の残虐性に打たれる。舞台では、実在と影、善と悪、天使と悪魔、虚と実、が対立したり、交わったり、次々に柔軟に入れ替わっていく。
 手を切り落とされた少女が家を出ることで物語は俄然動き出す。
 折り紙の鹿の位置を出演者がずらして光線の角度を調整すると、白いスクリーンに映る鹿の角の影は梨の木である。その木には光でできた梨の実が実り、少女はその梨で空腹を満たす。そして、梨園の主であり運命の相手である王と出会う。二人の間には玉のような男の子が生まれる。やがて、悪魔の悪巧みで殺されそうになった子どもの身代わりとして「鹿」は殺され目玉をくりぬかれ舌を切られる。だが、鹿は退場せずそのまま舞台上にある。鹿の角の影はもう一度角度を変えて、子どもを連れて森に逃げ込んだ少女の隠れ家になるのである。
 少女は天使に困難の度に、食べ物を、家を与えてくれと無邪気に祈る。だが、それははじめから舞台の上に準備されていたのである。ただ、天使はそのありかを示すだけだ。奇跡はいつもすでにそこにあるのだ。
 少女は言う。王は王冠をかぶっているから王なのではないと。王は王であるから王なのである。とするならば、手を父親に切られ、勇敢にも一人荒野をさまよう少女はあらかじめ王の后になるべくしてなったのかもしれない。風車小屋の娘が王妃になるなど、まさに奇跡の範疇である。
 世界は奇跡に満ちている。奇跡は世界のあちこちに、当たり前のように私たちのために準備されている。
 私がこの舞台から、受け取ったメッセージだ。見終わった後、おいしい西洋菓子を食べたような幸せな気分になる。自分がいつかみたいと思っていたのは、こんな舞台だったような気がふとする。
 その気分を乱されたのは、7歳の王子の声が成人男性の声であったときと、風車小屋の父親(この人は声優のような特徴のある声の人だ)の役の人が別の配役で出ていたときの2回だけだった。


2012年6月19日

■準入選■ 渡邊敏さん 『グリム童話~少女と悪魔と風車小屋~』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作)

■準入選■

渡邊敏

 グリム童話やシャルル・ペローの童話には、こどもの頃の絵本に始まって、長い間親しんできた。お姫様に王子様、魔法使いに巨人、毒りんご、豆の木・・・などなど。何度読んでも楽しいのは、苦難の果てにはハッピー・エンドが待っていて幸福感が味わえることと、残酷なものや、わけのわからないもの、深遠なものが混じっているせいかも知れない。

 先週見てきたお芝居は、グリム童話の「手なし娘」をもとにしたもの。脚本はフランスのオリヴィエ・ピィ氏。SPACの舞台は折り紙づくりの純白の世界だった。折り紙の木々や動物には無邪気さや遊び心とともに、洗練された神経の細かさも感じられて、こちらの神経もぴりりとする。現代のグリム童話の舞台には、昔話の大らかさや土の匂いはなく、美しく静かで、ひんやりしている。
 舞台も衣装もすべて白の、白一色の世界に、様々なものが浮び上がる。白は乙女の純粋さや無垢のように輝き、また、毒気や悪意のようなものも、白をバックにじわじわとにじんで来る。登場人物は生身の人間というより象徴的な存在のようで、ときどき紙芝居の絵みたいに停止したり、操り人形みたいに動いたりする。
 英語版のせりふも片隅に表示されていて、見ていると英語の方が日本語より低温に感じられる。この真っ白な舞台に英語のせりふが響くのを聞いてみたいと思った。

 お芝居は、粉引きの男が悪魔と契約する場面から始まる。薄闇からそおっと立ち上がる悪魔。男は、悪魔のささやきに、小声で、モールス信号みたいに単調に答える。心が死にかけているみたいだ。
 悪魔に命じられると、男は、娘が描いた魔除けの円も消してしまうし、とうとう娘の両手も切り落としてしまう。こういうことって、もう、私たちの日常になってしまっている、と思った。わが子の将来のために(あるいは自分のために)親が子どもを作りかえる。または、自分で自分の一部を譲り渡す。金持ちになった粉引きは、手を失った娘に、このお金で一生面倒を見ると言う。でも、娘はひとり、放浪の旅に出る。本当の人生、本当に生きるということの象徴だと思う。

 グリム童話の書かれた時代には、この物語にはそのままの意味があったかもしれない。ヨーロッパには魔女狩りや魔女裁判があったから、「悪魔との契約」は現実で、最後には聖なる力が勝つというお話。
 現代では、この物語は、社会のシステムや、世界を覆う不安感、無力感に流されずに、「本当に生きる」ことをすすめているようだ。たった一人で森の中をさまよう時、頼りになるのはもともと体の中にそなわった知恵、直感、内なる声のようなもの。「私の足は私より賢い」、そう言って森に入っていく娘。

 そうは言っても、今は、悪魔の誘いにのる方が当たり前に見える。人生に妥協はつきもの。自分の心に問いかけ、心の声を聞くのはやめて、大きな力に従えばうまくいく、楽に生きられる。それは、賢い処世術かもしれない・・・でも、物語は注意する。両手を切られちゃうよ、と。
 ひとりでさまよい、自分の足で歩いたごほうびは、成長、知恵。物語の結末、娘には新しい両手が生えていて、彼女自身も、森の女王か、女神のように輝かしく、威厳と知恵に満ちている。

 森は、自分の心とか、魂の深さを表していると思う。私にとっては、森に入るのが一番難しそうだ。ずっと自分の外に気を配って生きてくると、内なる声を聞き、足にまかせて歩くなんて、よくわからない。たぶん足だって麻痺しているだろう。森へ入るには、まず、心の中の要らないものを捨てなくちゃ。


2011年6月24日

『グリム童話〜少女と悪魔と風車小屋〜』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作)

■入選■

無垢の声音は、か弱くかすれているが
〜宮城聰演出<グリム童話〜少女と悪魔と風車小屋〜>を観る 〜

阿部未知世

かつて静岡の地で、作者オリヴィエ・ピィ自身の手によって上演されたことがある、<グリム童話>シリーズの一作、<グリム童話〜少女と悪魔と風車小屋〜>を、SPAC芸術監督の宮城聰が演出、上演するという。この作品については不覚にも、ピィ自身によるオリジナルの舞台を観ていなかったことが、ひどく悔やまれた。何故なら、以前この二人の組み合わせで観た<若き俳優への手紙>が、必ずしもすんなりと腑に落るものではなかったのだから。

グリム童話の「手無し娘」を下敷きとした物語は、こんなふうに展開する。

ある日、男が悪魔と出会う。悪魔は男に、金持ちにしてやると言う。その見返りは、男の家の風車の後ろにあるものを自分のものにと。風車の後ろには、みすぼらしい木が一本。男はすぐに同意し、瞬時に男は金持ちに。しかし風車の後ろにいたのは、自分の娘。やがて現れた悪魔に、この敬虔な娘は健気に立ち向かう。業を煮やした悪魔は男に、娘の両手を切り落とすよう命じ、男はそれを実行。両手を失った娘はこの運命を甘受。誰を恨むこともなく旅に出る。旅の途中で娘は王に見初められ、妃となる。しかし王は日を置かずに長い戦に。妃となった娘は、ほどなく赤子を出産。それを伝える手紙を王へ届けるのは、何と悪魔。悪魔は手紙を改ざんし、五体満足な赤子は、おぞましい奇形児との知らせに。気遣う王の返書も、悪魔は書き換えて、赤子は殺される運命に。しかし娘は助けもあって、森の奥で子供を育てる。その場に、落ちぶれた父親、かつて娘を過酷な運命へと導いた、その男がさ迷って来ても、娘は親切に対応する。やがて七年が過ぎ、王と娘は再会し、真実が明かされ、悪魔に打ち勝ち、娘の両手が再び蘇って、ふたりは幸せに……。

この過酷な運命の物語は、感情を排するような、モノクロームの無機的な空間に生起する。大きく折り目を付けた一枚の巨大な白紙のような装置が、漆黒の舞台の大半を占める。その他には、白い折り紙で作ったような動物や樹木が少々。この極めて簡素な空間は、一切の固有名詞を排除している。固有名詞の排除が意味すること。それは、時代や場所を消し去り、物語をひとつのモデル、あるいは典型例へと変化させる。

人間の精神活動が有する、モデルとしての物語の存在について明言したのは、スイスの精神医学者、カール・グスタフ・ユングである。ユングは、人間が擁する広大な無意識領域に光を当てた。彼が捉えた無意識は、個人をはるかに超える深みを持ち、自律的でエネルギーに満ちた、創造の源泉たり得る魅力的かつ両義的な世界である。

個人の意識から排除された事柄の集積である個人的な無意識の層を超えて、無意識領域を遡るにつれて、場所と時間を超えたかたちでの無意識が出現する。すなわち社会が共有する無意識、民族および文化が共有する無意識、さらには人類全体が共有する無意識といったかたちで。これら集合的無意識と言われる領域には、時空を超えて人類に共有される精神活動のかたちがある。人間の精神活動が持つ<骨格>とさえ言えるこのかたちは、時と場所によって異なる衣装をまとってはいるが、昔話や童話など、語り継がれる物語世界や芸術作品に、まさに無意識的に反映されて生き続けている。ユングは、伝承される物語の心理的側面を、このように位置付けた。

ではグリム童話の「手なし娘」とオリヴィエ・ピィが示すこの物語の<骨格>とは、如何なるものなのか。不条理とも言える過酷な運命に翻弄されながらも、無垢の魂を失わない者は、最後には幸福を得る。運命を甘受して誰をも恨まず、過去に拘泥することなく、知恵を使って今を生き切る。その過程には自ずと神の働きも顕現し、助力者も現れて、ついには奇跡も起こって、望まれる最も好ましい情況が出現する。

<正直の頭(こうべ)に神宿る>という諺がある。このテーマをまさに集約する言葉だろう(日本の物語の中にも、<鉢かづき姫>などこのテーマは散見される)。

作者のピィは、この物語に二つのメッセージを籠めることで、さらにこの主題を明確なものにする。メッセージのひとつは、あらゆるものは、それが本来存在すべき場所を持つ。さらには、それを否定しなければ、どのような奇跡も起こりうるのだ。この二つのメッセージを発したピィは、熱烈なカトリック教徒であり、<信仰よりも神秘が大事なのだ>との立場に立つという。彼の宗教実践は、決して知的な信仰あるいは帰依という、人から神への絶対的な信頼のみでは成り立っていない。それとは逆に、神から人への積極的な働きかけが常に存在しているとの大前提から発した信頼なのだ。それ故に彼の神に向けての実践は、神の力がより顕現しやすいように、人間の側の条件を整えることにあるのだろう。その一環としてこのテキストが示す方策とは、我々は予定調和としての世界の一部となって、主役の座を降りること。そしてその世界に起こる超越的な力の働き(神秘)を恐れないこと。そこに幸福がもたらされるということなのだ。

演出の宮城は基本的に、ピィのこの思想を継承している。しかし宮城は、それが今の社会で実現することの困難さについての深い視点を加える。身体と言葉を重視する宮城は、演者にこんな制約を課す。引き攣ったようにぎくしゃくした身体の動き、そして自然な発声とは対極にある声音がそれなのだ。

悪魔は、朗々とした声で語る。対する男はしかし、かすれて小さな聞き取りにくい発声。娘の唄は無声のまま(英語の字幕は歌っているのに)。何ものをも恨まず、旅に出る娘の声は、最後までひどい風邪をひいたようなざらついただみ声。まさに、無垢の生を生き切ることの困難さを象徴して、あまりある演出だった。観終わって、苦い澱のようなものが心にあって深いため息を吐いたのは、決して私ひとりではないだろう。そして舞台音楽としての俳優たちによる打楽器演奏は、この困難な生の物語を力強く支えていた。声が、そして音が特異な役割を果たす、感慨深い舞台であった。

四回にわたるこの公演のちょうど中間で、この度の大震災が起こった。ユングの言うシンクロニシティ——意味のある(偶然の)一致——に、期せずして思い至った。未曾有の困難の中で、芸術が本来持つ深い意味を見失わず、上演を続けたSPAC の姿勢に拍手を送りたい。この災害は、多くの人に価値観の変化を求めている。その一環として、見えざるものに、今まで以上の価値が置かれる情況が生まれるだろう。それは端的に、各人が持つ心が、力として、まさに心的エネルギーとして認識され、その在り様が問われることになろう。エネルギーとしての心に働きかけ、その変容を導くことが直接的にできるものが芸術である。芸術の重要性がさらに高まる情況への第一歩を、このようなかたちで進めたことに、心からの敬意を払うものである。(2011年3月6日観劇)