2009年2月18日

『ドン・キホーテ』(原田一樹演出、北村宗介脚本、セルバンテス原作)

「ラ・マンチャの男」を超えて──原田一樹演出、SPAC版「ドン・キホーテ」賛

井出 聖喜

 

 静岡芸術劇場で上演された原田一樹演出、SPAC制作の「ドン・キホーテ」は、私見に拠ればSPACがこれまで上演してきた多くの作品群の中で最高の演劇的達成を示した作品の一つであると共に近年の日本の演劇作品の中でも最高ランクに位置するものである。

 演出家は上演チラシの中の「『ドン・キホーテ』への道」と題する文章で「(ドン・キホーテという名称が日本の様々な分野で多用されている割には)当事者の大多数はこの長編を読み終えていない」と喝破しているが、私もその「大多数」の一人だった。少年時代子供向けにリライトされたもので読んで以来、全くのご無沙汰である。だから、今回の上演作を原作との関わりで論じることはできないが、多くの演劇愛好家と同様、私には別のテキストがある。それは、デール・ワッサーマン脚本のミュージカル「ラ・マンチャの男」だ。日本では松本幸四郎主演で繰り返し上演されている。この脚本の見事さは既に語り尽くされてもいるが、原作者セルバンテスと彼の芝居の作中人物、騎士物語に取り付かれたアロンソ・キハーナ、そして彼の狂気が生み出したドン・キホーテの、三人の男の物語が重層的に展開され、その三つの世界は、物語の後半、セルバンテスによって語られる「最も憎むべき狂気は、ありのままの人生に折合をつけてあるべき姿のために戦わぬことだ(森岩雄訳)」という言葉によって鮮やかに一つに結ばれる。

 SPACが「ドン・キホーテ」を上演すると知った時、「ラ・マンチャの男」は「ドン・キホーテ」に触発された別物語だとは知りつつ、どうしてもそこを範とし、基準として鑑賞しないわけにはいかないという呪縛のようなものが私にはあった。さて、その「呪縛」は解かれたか、というのが私の語るべきことである。

 原田一樹と北村宗介の脚本には狂言回しとしてのセルバンテスは登場しないが、アロンソ・キハーナ=ドン・キホーテの物語を現代の観客に橋渡しする語り手が登場する。その意味ではこの作品も三重の構造を持っている。また、もしこの世界が狂っているとするなら、狂気こそは理想と高貴な人生に到達するための最も正しい道だというリア王的メッセージも両作品に共通するものとして指摘できるだろう。

 しかし、「ラ・マンチャの男」は、前述の「あるべき姿を求めて戦い続ける」という理想主義的主題とは別に、アロンソ・キハーナの、常識的には狂気でしかない精神の高潔さが下働きの女アルドンサのすさんだ心を高貴なドルシネア姫の尊厳へと昇華させていく、キリスト教的な魂の救済のドラマをも形作っており、それが大詰めの高揚感をもたらしているのに対して、今回のSPAC版「ドン・キホーテ」の終末部にはそのようなわかりやすい「感動」はない。アルドンサは最後まで娼婦まがいの行為を止めないし、「聖女」にもならない。死にゆくアロンソ・キハーナを見つめる彼女の目は、相変わらず虚無的で冷ややかに見える。そして今や狂気すら奪われた哀れな初老の男は、「夢は稔り難く敵は数多なりとも 胸に悲しみを秘めて我は勇みて行かん(福井峻訳「見果てぬ夢」より)」などと雄々しく歌うこともなく、ベッドに打ち萎れて死んで行こうとする。夢は既に夢見られて、語られるべき物語は既に語り終えられて、残るのは人生の空虚とほろ苦さのみか……と、その時、アントニアが「あなたはやはり遍歴の騎士ドン・キホーテであった。」というオマージュを述べる。そして、それに誘われるかのように彼の脳裏にドン・キホーテの冒険の物語がかすかに蘇ってくる。そう。かすかにだ。人生の空しさをくつがえすほどに、ではない。その匙加減がいい。そう思ってみれば、アルドンサの冷ややかな目つきの中に、死にゆく者への同情ではない、いとおしさでもない、あえて言えば哀しみのようなものも見て取れる。それもこれも含めて秀逸な幕切れだった。──感動は静かに、惻々として、人生へのある種の諦観と共に忍び寄ってくる。「呪縛」はきれいさっぱり拭い去られていた。

 さて、その大詰めだが、アロンソ・キハーナの思いを共有する我々観客は、舞台後方に小振りのプロセニアム(舞台を囲む額縁のような枠)に縁取られたドン・キホーテの世界(風車もあれば人形のドン・キホーテもいる)がせり上がってくるのを見ることになる。その時、はたと気づいた。開演前から舞台中程を大きく囲むプロセニアムと共に前方客席の天井に舞台上のプロセニアムを更に大きくしたものの一部が切り取られたように吊られ、一種の遠近法を形成しているのを見て気になっていたのだが、「ああ、これはアロンソ・キハーナの世界とドン・キホーテの世界、更に死の間際に夢見られた新たなる冒険世界の三重構造を視覚的に表したものだったのか」と。(語り手の世界を考えると四重構造になるが、そこまでやると煩わしくもなる。)このアイデアだけでも見事なものだが、もう少し舞台装置について言えば、木が多く用いられ、作品全体に何とも言えない温かみを与えていたのも成功だった。衣装はリアリズムを基調としながら、色彩とデザインの変化で次々と移り変わる場面をくっきりと彩っていた。

 役者はいずれもまずまずだったと思うが、三島景太のドン・キホーテは滑稽味より剛胆さ、一徹さが勝る造形だった。ラマ追い達を打ちのめす場面で、ささくれたアルドンサをじっと見つめるその澄んだまなざしが忘れがたい印象を残す。本多麻紀のアルドンサは、その容姿、声音含めて適役だ。

 役者諸氏への注文を一つ。この作品はもっと諧謔味を加えなければならない。笑いは確かにあったが、十分ではない。これは脚本の問題ではなく、演技の問題だと思われる。SPACの役者は重厚な演技はお手の物だから、茫洋とした諧謔味を出せるようになってほしい。その意味では今回の上演は完成形ではないだろうし、また、今作はSPACの最も重要なレパートリーの一つとして繰り返し上演していく必要があるだろう。

(観劇日 12月13日)