2010年1月12日

『ドン・ファン』(オマール・ポラス演出、ティルソ・デ・モリーナ、モリエール他原作)

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ドン・ファンとドン・ジュアンの折衷の末路
―オマール・ポラス構成・演出『ドン・ファン』劇評

森川泰彦

この舞台の基本戦略は、前回の『スカパンの悪だくみ』や前々回の『プンティラ旦那と下男マッティ』と同様、高度な舞台造形技術を駆使した「幻想的笑劇」である。今回は演出家子飼いの劇団での公演ではなく、短期滞在による日本人の俳優・スタッフとの創作ということで、その造形の水準に一抹の不安があったのだが、幸い全くの杞憂に終わった。

赤茶色の板を敷き詰めた床面と、微妙な変化を帯びた様々な単色に彩られる背景幕に包まれた抽象的空間が、立ち上がる幻想の基盤である。そこに玉座や衝立といった最小限の事物が適宜配置され、幕が巧みに使用される。原色の醸し出す華やかさを残しつつも複雑な色合いを交えて質感を高めたそれらは、簡素だが豊穣なポラス的空間を具体化してゆく。そして役者の顔立ちを残しながらも誇張した半仮面が、彼(女)らを脱人種化しつつ、その身に纏う装飾性に富む衣装と共にかかる異空間に溶け込ませる。そこにテアトロ・マランドロ的身体が見事に展開されたのだが、お手本とすべき映像があったにせよ、短期間であそこまで習得していることには驚かされた。外国人の演出の際に時折起きる台詞回しの不統一もなく、その聞き取りに苦労はいらない。それらを前提に、ティスベアの嘆きなど例外もあるが、小柄な役者の演じるふんぞり返った国王や原作にはないドン・ファンの女装など、秩序転倒的な身体技に基づく練り上げられた可笑しさが、次から次へと繰り出されてゆくのである。まるで生命を持つかのように動く杖の曲芸的な使用や、絶妙のタイミングで騒々しく撒き散らされる金物がかき立てる混乱感、物音に呼応して小さく飛び上がってはドスンと落ちる役者が錯覚させる大地の揺れなど、細かい芸の積み重ねも素晴らしい。またエルビラの訪問の場面では、清楚なポワントで入場した彼女のトゥシューズを脱がせて収蔵品とする仕草により、ドン・ファンの説教への無関心と彼女への欲望の再燃、さらにはその欲望の幻影追求的性格を美的洗練の内に象徴してみせた。そして、舞台上空を覆う石像の出現は仕掛けの楽しさで最後を盛り上げ、幻のごとく一瞬で消える回転する逆さ吊りで示されたドン・ファンの地獄落ちが、その残虐美によって幕切れに強い印象を残すこととなったのである。

しかし他方で、この舞台からは前二回にはない中途半端さが感じられた。そしてその原因は、個々の舞台形象というより、それらが表象する物語全体の構成にある。今回用いられた台本は、ティルソ・デ・モリーナの『セビーリャの色事師と石の招客』を基に、後半を中心にモリエールの『ドン・ジュアン』を取り入れたものである。それは、前者にある結婚による解決というカーニヴァル的回復の常套手段を取り払い、モータ侯爵を同じくドン・ファンの友人で恋人がその標的となるオクタビオ公爵に吸収させるなど、その簡略化・単純化を図る一方、金貨を餌に極貧の信仰者に瀆聖を迫る場面を導入するなど、後者に強く見られる不信心の主題を強調する。確かにテクストは巧みに繋げられており、造形の卓越もあってそれほど大きな瑕疵は見えない。しかし基盤となった前者のドン・ファンが、臨終に告解すれば足りると考える愚かな信者に過ぎないのに対し、後者のドン・ジュアンは確信犯的無神論者である。苦言も呈するが基本的に主人の同志であるカタリノンと、絶えず主人に抵抗を試みるスガナレルの差も大きい。こうした異質な人物の折衷は新たな創造となっておらず、逆に彼らの性格や相互関係を曖昧にすることで、各々の長所を相殺しているのだ。殊にそれは、結末で告解の機会を与えられなかった部分の省略と相まって、性格不明のプレイボーイの大袈裟な破滅を印象付けることになった。その最期は、物語の表層を疾走するトリックスターの最終的な加速に必要な軽さも、信念あるリベルタンの超越的な殉死ないし享楽(ラカン)への突進に不可欠の重さも、共に欠いていたのである。

また『ドン・ジュアン』の切り貼りは、さほど効果的なものとならない。というのもこの作品の特長は、「言葉」とそれに対応する「行為」の乖離という主題の下に、豊かな細部が構築されていることにあるからである。結婚を誓って女を騙すドン・ジュアンは、同様に借金取りの家族を気遣って見せ、父の前で改心したふりをし、神を口実にエルヴィールの兄の追及をはぐらかす。そしてスガナレルも、主人を怒らせまいと一般論を装って諌め、あるいは堂々と批判しようと試みたものの体が言葉についていかないか、支離滅裂の論理展開になってしまう。また主人の非道を非難する彼自身が、己の借金を踏み倒そうとする。この劇においては、こうした言行不一致の数々が、悪漢の企みが煽り立てる背徳的快感や道化の振舞いがもたらす滑稽感など時に思索へ誘いもする多様な情動を引き起こしつつ、複雑に変奏されてゆくのである。かかる主題論的統一の下に置かれることで、この芝居で発せられる全ての言葉は疑惑の眼で眺められるようになる。エルヴィールが「真心」から悔い改めを説くのも、まさにダ・ポンテのオペラ台本で顕になっているような「夫」への激しい欲望と一縷の希望、それを否定せんとする葛藤を秘めての行いであることが、その言葉とは裏腹に暗示されてしまうのだ。しかし言行不一致をめぐる主題の布置を欠く今回の上演では、このような建前と情念の二重性の軋みは現れにくい。

そして作品全体に張り巡らされた連関が生み出すこの疑念は、まさにドン・ジュアンが戦った現世での信仰に対する来世での神の保証をも揺るがすものである。彼がはっきりと口にする偽善者の言行不一致だけでなく、神の言行不一致(その救済の否定)さえもが、彼個人の見解を超えて構造的に語られることになるからだ。一見、不信心者の処罰によって正しき秩序が取り戻されるかに見せかけつつ、その背面で不信による信の破壊を示してしまう、ここにこの劇の凄さがある。それは、代弁者をこしらえ上げて自己の信念を宣伝させたり、敵を戯画化して溜飲を下げるといったレヴェルの「批判」ではない、芸術を構成する宗教批判なのだ。しかし今回の摘み食いが付け加えたのは中途半端な重みであり、そこにかかる凄みはない。

結局わざわざ折衷テクストを作る必要などなく、単にどちらかを使えば良かったのだと考える。ティルソなら、原作の持つ「格調」に対するドン・キホーテ的パロディとして独自に一貫し得ただろう。この舞台でも、ティルソの部分では概ね表層的な笑劇性が維持されていた。その路線ならば、騙してきた女が差し出したように死神に騙されて差し出した手を摑まれ、秘蹟に与れず地獄落ちするという回帰的落ちで、何ら不都合はあるまい。モリエールにも大いに期待できよう。元々道化役のスガナレルの活躍の余地は大きく、ピエロまでいる。そしてポラス的笑劇化は、哲学的深遠と隣り合わせの対話とも両立しうるばかりか、信と不信の矛盾と反転を際立たせたどす黒い笑いの世界を、運動感豊かに創出しえたはずなのだ。
(2009年10月11日観劇)