2009年2月18日

『ハムレット』(宮城聰演出、シェイクスピア原作) 

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「脳内世界のハムレット」(宮城聰演出 シェイクスピア原作)   

  坂原眞里

 

 この「ハムレット」は意表を突く。亡霊が出ない。そればかりならまだしも、ハムレットが本当に狂っている。彼は余人に見えない父王の亡霊を見、余人に聞こえないその声を聞く。叔父によって「父親殺し」の機会を奪われ母親を横取りされた彼の深層心理が、亡霊という扇動者を作り上げ、無意識の弁を開き、理性をもその歯車に従わせるのだ。新王による戴冠と婚姻の辞の直後に置かれたこの場面が、この上演のすべてを決定づける。

 方形の白布を敷いた主舞台は能空間を思わせるが、ここには魂の召喚も異界のものの到来も起こらない。これはハムレットの脳内世界であって、ここに現れるのはその脳裏に浮かぶイメージの投影なのだ。当然、新王クローディアスは卑小であり、その忠臣ポローニアスはおあつらえむきに滑稽。旅回りの芸人たちは脳味噌の襞からわき出した子鬼たちのようだ。そして、彼らの芝居を観た新王と王妃が動揺することを、扇動者を作り上げた無意識はあらかじめ「知っている」。二人は有罪でなければならない。しかもテキストレジーの結果、原作に流れる王権の正統性と復讐行為の正当性の問いは弱音化し、形容語としてロマン派好みの「立派な」「美しい」という言葉が耳につく。演出は、ハムレットとクローディアス双方がそれぞれの行為の正当化に「立派な」という同じ形容語を用いることを観客に気づかせるが、ハムレットはそのことの問題に気づかない。深層心理の「シテ一人主義」は悩むよりも糾弾させ、自らの物語の進行を急がせる。

 頬骨が高く、荒武者も犯罪者も適役にしてしまいそうな武石守正が、このハムレットによくはまっている。観客を引かせる難役である。ハムレットの狂った意識に限界付けられた出来事は「怖れ」よりも嫌悪を、「憐れみ」よりも脱力感を覚えさせる。悲劇のカタルシスは生まれない。悲劇的ヒーローとしてのハムレット像が脱神話化されているのだ(これには「ドン・キホーテ」が同シーズンに上演されることも無関係ではな

いだろう)。およそ30年前、ハイナー・ミュラーが、ハムレットの物語を歴史的成層のテキスト空間の中へ投げ入れることで、個体としての人間を超えた言葉が響く演劇テキストを生み出しておきながら、ハムレット的運命の方は呪いつつもむしろ普遍化してしまったことを考えると、静岡芸術劇場の脱神話化されたハムレットは明らかに「ハムレット・マシーン」後の時代の変化と創り手および観客双方の変化から生まれてきている。

 このことは舞台表現に関しても言えるだろう。方形の白布による主舞台(四隅の一角が最初から少しめくれあがっており、狂ったオフィーリアの場面では持ち上がってなだらかな膨らみを見せ、脳の襞の変容を思わせる)、その白布を効果的に変化させる照明、上演のベクトルをほぼ間断なく支える音楽、「小栗判官照手姫」の記憶が鮮やかに甦る遠藤啄郎制作の仮面の妖しさ、和装の特徴を残しながら無国籍な衣裳、言葉と身体表現をともに大切にする演出。ハムレットが観客を引かせる一方で、「ハムレット」は豊かで創意あふれる現代的な総合芸術の楽しさで引きつける。この総合芸術が現代的であるのは、それが20世紀の西欧演劇が東洋演劇に着想を得て試みてきた数々の成果や、それらが東洋演劇にもたらした新たな自覚を土壌に、資源としての東洋に甘んじることはできない演劇芸術創造をめぐる認識の地平に立っているからだろう。

 この「ハムレット」が出版界のドストエフスキー熱冷めやらない日本で生まれたことには、不思議な印象を持つ。192030年代のフランスで、時代と演劇の病をめぐる問題がジャック・コポーら演劇人の関心を集めていたとき、ジャン=リシャール・ブロックがその著「演劇の運命」(邦訳1954)の中で、「20世紀のロマンチスム文学は、心理学を標識とし、ドストエフスキーとフロイドを名付け親としている。つまり内部世界への逃避である」と書いていたからだ。その頃ブロックと接触しようとしたこともあった一回り年下のアントナン・アルトーは、むしろ物理的演劇言語の探究を進めてバリ島演劇を発見し、東洋演劇への関心も含めて20世紀半ばの世界的演劇シーンに大きな影響を与える論を書いていった。ハイナー・ミュラーもまた、アルトーに関心をもった演劇人の一人である。

 見えないものを見ることの危険を「ハムレット」に学んだ上で言うのだが、宮城演出の「ハムレット」を観ながら、私はこのような20世紀演劇の大きなうねりをそこに重ね合わせてみずにはいられなかった。 

                      (11月23日観劇)


『ハムレット』(宮城聰演出、シェイクスピア原作)

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構造的読解と革新的手法を求めて

―宮城聰演出『ハムレット』劇評

 

森川泰彦

 

 暗めの冷たい光を基調に巧みに変化する照明の下、端をやや吊り上げたりする四角い白布が主舞台をなす。周囲には金属板を円錐形に一巻きしたようなオブジェが配置され、それが役者の物語空間からの(さらにはこの世からの)出口を示している。そうした簡素で硬質な空間に、陰影が質感を際立たせる衣装を纏った役者たちが登場し、鍛え上げられた朗誦法で明確に台詞を回してみせる。そして、ク・ナウカからのファンにはおなじみのリズミカルでエキゾチックな伴奏が加わる。奏者は役者でもあり、その存在は聴覚にとどまらず視覚にも訴えかける。冒頭、音楽で台詞がかき消されるところがあったが、総じて他の舞台要素と衝突することなく、その効果を高める役割を堅実に果たしてゆく。演技は、惰性的な身体の使い方を極力排したバロック的と言うべきスタイルで、斬新な所作が観る者を飽きさせない。そして同時にその身体レヴェルの過剰さは、技巧的な修辞の連鎖からなるシェイクスピアの台詞の過剰さに対抗し得るものとなっている。

 美しく心地よい舞台である。大した戦略もなく上演される凡庸なシェイクスピアが氾濫する現代日本演劇においては、これらだけでも十分評価に値する。残念ながら最後方の席であったため臨場感に乏しく、この演出家の舞台独特の硬質な生々しさは感じとれなかったが、それでも十分楽しめた。

 しかしながら、この古典中の古典を綿密に読解したか、それに基づいて上演を有機的に組織し、舞台上の様々な形象・記号を整合的・効果的に配置したかについては、強い疑問が残る。紙幅が限られているため、主な問題点のみ簡潔に取り上げよう。

 第一に注目されたのは、ホレイショーらによる亡霊の目撃場面が省かれると共に、影が映されただけで亡霊役は登場せず、ハムレット役者によってその台詞が語られたことである(二度目の出現も同様)。これは精神分析的読解に基づき、亡霊がハムレットの幻想に過ぎないとの趣向を示すものであるかに思われた。息子は、母親を欲望できるのは父親のみであるという規範を受け入れて母親への欲望を断念し、父親に同一化する。そうして社会秩序に組み込まれるわけだが、他人が母親を手に入れたのを目の当たりにしたハムレットは、再び葛藤に直面し、現秩序を是認できなくなったと解するのである。ハムレットが現秩序に留まりつつも自分の憎悪を正当化するためには、叔父が罰せられるべき大罪を犯したと考える必要があり、そこで彼の無意識は亡霊の語りを欲したのだということになる。実際宮城氏は、当日の配布物において「いったん『世界から切り離されてしまった』人間が、」「もういちど、世界と和解」しようとする物語だと書いている。

 しかしながら、不敵な面構えで落ち着いた今回のハムレットは、反抗心はあっても強く健全な人格統合を感じさせる野武士のごとき人物である。なるほどロマン主義の描く悩める柔弱な青年像は、少なくともこの読みからはふさわしくない。彼はただ受身なのではなく、機知に富んだ弁舌を披露し、ポローニアスを刺し殺すなど行動的だからである。しかしその行動は、多くは激情に駆られてであり、高い知性にもかかわらず計画性に乏しい。彼の内部では「この世の関節が外れてしまった」ことにより様々な力が激しくぶつかり合っており、それがしばしば噴出するのだ。だとすれば、多重人格的あるいは境界性人格的な振る舞いが強調されるべきである。今回の舞台では、墓場でレアティーズにくってかかる代わりに、オフィーリアの死体を前にして号泣する場面が加えられていたが、逆効果ではないか。

 さらには、クローディアスによる己の罪の独白場面が省かれず、現実の出来事として扱われる。しかし、精神分析的読解に基づくということはハムレットの主観的世界に焦点を当てるということであり、クローディアスが客観的に弑逆したかどうかは宙吊りにしてしまうべきだろう。結局、そうした読みがあったわけでなく、物語をスリムにするためにカットしたに過ぎないようなのだ。

 第二に注目すべきはこのスリム化である。この芝居は長いから短縮は普通だが、今回カットはかなり多い。付加の方は、覆面の人物を登場させてオフィーリア暗殺を示唆するなど意図不明の場合もあるが、ほとんどは削るためのつじつま合わせのようだ。しかし、『ハムレット』は復讐をひたすら延ばし、最後はほとんど偶然、半ば敵失によってそれを完遂するという芝居である。通常は、復讐へ突き進むのでなく、悩み逡巡するというこの「遅延」にこの劇の現代性を見出すわけで、このように迅速に進めてしまうとこの特長は大きく損なわれる。ではそれに代わる何を得たのか。初心者向きになったということを除けば、それが見えないのだ。

 これに関連して第三に注目されるのは、このように切られた細部が多い中、劇中劇部分が残され、『リチャード三世』が挿入されたことである。劇中劇は雅語で語られ、内容を把握しづらいことが多いから、同じシェイクスピア作品の主題の共通するよく知られた場面に差し替えるのは面白い試みである。しかしこの部分は、直後のホレイショーとの会話だけでも話を繋げられるから必須ではない。確かに、この芝居の演技性の主題を強調する場面としては重要であるが、ローゼンクランツらが消え、彼らとハムレットの騙し合いが存在しないので、その主題論的連関の豊かさは半減している。

 それでは、こうした「深」読みなど要求しない演出であったのかと言えば、そうでもない。第四の注目点は、ラストにおいて、亡霊とよく似たやり方でマッカーサーらしき人影を映し、その演説?を流していたことである。明らかに大戦後のアメリカの日本占領をフォーティンブラスの武力を背景にした王位奪取に重ね、その読み取りを要求しているのである。しかしこの演出では、外敵の脅威というフォーティンブラスに関わる部分や、民衆がレアティーズと共に彼の即位を求めて押かける階級闘争的?な部分など、政治的文脈はほとんど消し去られている。そうしておいて、最後に原作にない政治史的要素を付加しても説得力を欠く。

 辛口の批評になってしまったが、これは思い入れの裏返しである。SPACでの演出作品は観られなかったが、休止までの数年間ほぼ欠かさずク・ナウカを観続けた私が宮城氏に期待するものは大きい。氏は「二人一役」と称する画期的な手法で刺激的な舞台を造っていたが、自己模倣になったとしてこれを封印してしまった。しかし、自身でもしばしば踏み越えていたし、何よりこの手法の本質は「言動分離」にあり、その観点からは様々な発展が可能なはずなのだ。例えば、一人のムーヴァーの身体に対し、二人のスピーカーの声がかかっていけば、一人の人間を突き動かす二つの異なる力のぶつかり合いを端的に視聴覚化しうる。『ハムレット』なら「To be, or not to be.」を分割してかけるのだ。革新的手法が鋭い古典読解に結びつけば傑作が生まれる。今後の作品に注目してゆきたい。

20081122日観劇)