2009年2月18日

『大人と子供によるハムレットマシーン』(大岡淳演出、ハイナー・ミュラー原作)

座る椅子無きあとのオフィーリアとデモクラシーの行方

~『大人と子供によるハムレットマシーン』劇評


                              高原幸子

 

 「きのうわたしは自殺するのをやめました」。

悲劇の中断は歴史の中断に重なり、オフィーリアの心臓であった胸の時計は埋葬される。自己のほとんどを形成しているが自己を囚人にするマイホームを破壊し、自己自身も破壊する行為は、肉体の時を刻むことも止め、歴史から脱却する。

第二場「女のヨーロッパ」は、パイプ椅子と女たちそれぞれが格闘し、一人乱舞し、通過するハムレットと接することで、座るためだった椅子を倒し、失ってしまう。もしデモクラシー発言があってもなくても、誰もがその場に座ることのできる椅子として喩えることができるのなら、自らその椅子を放棄せざるを得ないオフィーリアに託された欲望と主体の布置と可能性は、「大人の責任」という主体性の裏側がうっすらと顕わになる契機ともなるだろう。

共産主義体制下の知識人の苦悩をシェイクスピアの「ハムレット」に重ね合わせ、「ハムレット」を欲望/戦争機械として脱劇化するハイナー・ミューラーのテクストは、大人と子供ならほぼ〈子供〉に属する市民参加の教育劇として生まれ変わっていた。だからこそテクストのメタファーの増殖として構成された劇というよりもむしろ、テクスト内在的な骨格を有する歴史的唯物論の立場としてこの劇を読むことができるだろう。

始まりは子どもたちの教室での資本主義と共産主義についての授業である。「今の日本をどのようにしたらよいのか」、と子どもたちなりにデモクラティックに考えてみる。自由で個性を尊重するが格差・不平等を生む資本主義と、平等だが自由は抑圧される共産主義体制。ほぼ多勢が資本主義に傾くなか、一人が平等の大切さを説き共産主義を唱え、一人はどちらにも傾けない苦悩を抱えたハムレットとなる。しかし第一場「家族のアルバム」において、教室での結論は覆され、ハムレットは権力者の息子として〈子ども窃盗団〉なるものに拉致され、資本主義は崩壊したと告げられる。

第四場「ブダのペスト グリーンランドをめぐる闘い」では、アメリカ合衆国初の有色人大統領オバマが〈子ども盗賊団〉に捕まる場面において、ミシェル・オバマやヒラリー・クリントン、シュワルツネッガーを匂わすターミネーターまでも登場してコミカルに描かれる。テロリストと名づけられる〈子ども窃盗団〉の要求は、ディズニーランドとハワイと核兵器である。日本にも同時並行的に流入されたアメリカ消費文化と、世界の防衛覇権を持つアメリカの要となる核が、皮肉にもポストキャピタリズムの象徴となっている。

一転した第三場「スケルツォ」はミニマムなコントラバスの響きと韓国打楽器が舞台上を打ちながら踊りまわるなか、前方隅の大きな木製の脚立装置でハムレットとオフィーリアが無言で交わしあう、魅入られる場面が繰り広げられる。歴史が中断され、男であることを降りるハムレットと自己破壊をして往来に出たオフィーリアは、もう近づこうにも近づけない距離を保ち、振り向いたり振り返ったり、柱の影に隠れたり、手を差し出したり、縦横無尽に舞台上を動き回る韓国打楽器奏者が刻む鼓動が静謐な情熱を高める。音の響きに表現の基底を委ねた、全体を通じて最も美しい演出である。

第五場「激しく待ち焦がれながら/恐ろしい甲冑を身にまとって/幾千年世紀」では、深海に一人車椅子に座るというオフィーリアのモノローグのテクストに続き、ホメロスの「オデュッセイア」における甘美な歌声によって船乗りたちを誘惑するセイレーンの逸話が視覚化される。マシーンとして機械化/機能化され、「啓蒙の主体」の道具となった船乗りたちは、欲望を抑圧し「主体性」の自己保存に加担するが、最後には生の終わりを迎える。職業的専門人(知識人)を暗示するこのような〈大人〉の主体性は、女・子どもが居るゆえに成立しているにもかかわらず、それらを巧妙に排除し、自己保存に至る。

既に座る椅子を放棄せざるを得ないオフィーリアと自らが〈主体性〉に至りきれないハムレットとのモノローグの往信のような詩的テクストは、「移行点ではない現在の概念、時間の衡が釣り合って停止に達した現在の概念」というヴァルター・ベンヤミンの進歩主義ではない過去の解放を表わすがごとく、2008年の現在に過去が一瞬のあいだ現れるかたちをとっている。やや難と思われる点を述べるとすると、子どももしくは市民という表現者たちと観客とが地続きであることが強調されるために、ポピュリズムに加担した喜劇的様相を呈したところだと思われる。しかしそれ自体が既にデモクラシーの闘争のなかにあるのかもしれない。

 

観覧日:12月14日(日)


『大人と子供によるハムレットマシーン』(大岡淳演出、ハイナー・ミュラー原作))

ハムレットは人間に戻れるのか  —大人と子供によるハムレットマシーン

 

おおのひろみ

 

 東西冷戦の終結/社会主義世界の崩壊から20年の歳月が過ぎた。かつて二極構造という危ういバランスの上に成り立っていた世界は、一方の崩壊により一方の暴走を招き、今や資本主義ですら崩壊の危機を迎えようとしている。

 非常に難解な「ハムレットマシーン」というテクストを、子供たちに語らせた。そのテクストはおそらく彼らの世代では、目にしただけでも「恥ずかしい」言葉が散りばめられている。しかし、性的で暴力的で過激なそのテクストは、子供たちにとって、むしろ実感の伴わない遠い世界の「神話」にすぎず、かつマイクロフォンを通した機械的な声は、観る者にその解釈を拒絶しているかのようであった。

かつて「悩みも痛みもないマシーン」となることを切望していた「ハムレットだった」若者は、時の流れと共に、今や「悩めることのみをインプットされたマシーン」と化してしまった。冒頭の「資本主義 VS 社会主義」に関するディスカッションにおいて、我が道を行く女達、意見が変わってしまう男達、そして悩み続けるハムレット(だった若者)。そう、もう既に「資本主義 VS 社会主義」という二極構造はとっくに崩壊してしまっているにもかかわらず。

 悩み続けるマシーンと化したハムレットを横目に、悩まない男達は、しなくてもいい選択を強行し、バランスを欠いた世界により一層のブレを生み出す。女達は、自らの生(性すらも)を楽しむため、全てを享受していく。しかしそれすらも一方に大きくぶれた世界の中においては、全てを破壊し尽くしてしまう危険をはらんでいる。少し前に世間が大騒ぎした「産む機械」という言葉。本当にこの言葉は否定されるべきものだったのか?全てを自らの胎内に戻し「産まなかったこと」にしようとするオフィーリアは、むしろ「産む機械」になりたかったのではないか。ハムレットが「マシーン」となりたかったのと同じように。

 どんな人間にも相反する価値観や世界観が内在している。二律背反な価値観があるとして、現代の日本人は、必ずしもその価値観を選択する必要はないのではないか。ハムレットが機械的に悩むことをやめた時、本当の「幸せ」が訪れるのだろうか?あどけなさの残る子供たちが精一杯背伸びして語ったテクストをはさんで演じられる現代社会のパロディに、混沌としながらも、力強いエネルギーを感じた。

 コントラバスと韓国打楽器は、西洋と東洋というこれまたある意味相反する文化の競演であった。コントラバスにあのような多彩な表情があるとは。

 さて、舞台は脚立と、反対側の天井に逆さまの脚立のみ。二つの脚立が、様々に対峙する二律背反な価値観を象徴しているようにみえる。出演者が持ち運ぶシンプルな椅子が、椅子のみならず、ベッドやバルコニー、船、あるいは「何者でもない物」など様々に見立てられる。ハムレットとオフィーリアは、現代の、平成の、子供の姿に身をやつした。誕生してから30余年の歳月を経た「ハムレットマシーン」は、「見立」と「やつし」という日本的手法を持って、我々の前に提示された。

 悩み続けるマシーンと化したハムレットと、オフィーリアもまた全てを享受しているように見せつつ、全てを破壊し尽くそうとするマシーンと化してしまった。ハムレットが悩むことを止める時、それは「痛みを感じない」機械になることなのか、それとも人間に戻ることなのか。人が人として生きることに、痛みや悩みは常に伴う。人が人として生を受けた瞬間から母親の「産みの苦しみ・痛み」を背負わなければならない。しかし、ハムレットの悩みは母親の痛み苦しみを理解できない「産めない性」であるが故の苦しみなのか。それならば、ハムレットは永遠に悩み続けなければならないしオフィーリアも破壊し続ける。

 今回、「ハムレットマシーン」を演じた子供たちも、「性」や「生」「死」というものへ実感を持つことは、まだまだ難しいことだろう。間もなく訪れるであろう「性」や「生」「死」の持つ、喜び、苦しみを見つめ、そして時には悩み、さらに30年後の「ハムレット」を考えて欲しい。

 ラストシーンに、ハムレットとオフィーリアのモノローグの冒頭を持ってきたのは印象的だった。30年前の東ドイツでハイナー・ミュラーが感じた閉塞感。その対局であるはずの30年後の平成の自由を満喫しているはずの我々にも同じ未来が見えると言うことなのだろうか、歴史は繰り返されるのだろうか。今回演じた子供たちが大人になる頃にも、ハムレットは悩み続け、オフィーリアは破壊し尽くそうとしているマシーンであり続けるに違いない。彼らが悩むこと、戦うことをやめる時こそ、人間そのものが痛みを感じない「マシーン」になってしまうのだ。