2009年8月10日

『ブラスティッド』(ダニエル・ジャンヌトー演出、サラ・ケイン作)

肉食に満ちた寓話・現実・悪夢
―ダニエル・ジャンヌトー演出 サラ・ケイン『ブラスティッド』劇評

森川泰彦

一見無秩序かつ自己破壊的に展開するかに思われるこの戯曲は、多方向に開かれてはいるが強靭な構造を持つ。この劇を兵士登場の前後で分け、その骨格を取り出してみれば、前半においてイアンはケイトを強姦し、後半においてイアンは兵士に強姦され両目をつぶされるが、ケイトに救われる。つまりこれは、加害とそれに対する「処罰」と「赦し」の物語なのである。被害者ケイトのためにイアンを害したのではないから変形されてはいるが、物語論的に言えば、兵士は、加害者イアンに復讐する「主人公」の位置にある。

そしてかかる二重の加害は、副筋として埋め込まれた兵士の語る物語における暴力の連鎖と重なり合う。彼は殺人と強姦の限りを尽くしてきたが、その妻もまた惨殺されたというトラウマと絶望を抱えている。またイアンの振るう暴力の根底にも、生への絶望と共に他者への怒りが存在する。そして、こうしたトラウマと絶望が生む暴力の連鎖が物語全体を覆う一方、それと対比される博愛と救済がケイトの行為によって示される。彼女は自らに関わりのない幼い命を救おうとし、また被害者でありながら、自らを犠牲にしてまで加害者イアンを救うべく帰還するのである。復讐と博愛の二項対立が、この物語を深層で規定しているのだ。そしてこの人物配置に重ねられた二項対立は、男と女や「健常」者と障碍者といった強者と弱者の社会的二項対立、さらには排外主義と寛容主義、差別主義と平等主義の思想的二項対立にも繋がっている。従ってこの劇に、後者の立場からの前者の本質的暴力性の告発といった政治的メッセージを読み取ることも十分可能である。しかし、そのような観念的対応への還元にとどまるのなら、この劇の持つ豊かさを十分に享受しているとは言えない。

というのもまず、この劇の持つこうした抽象的骨格は、「肉・食」をめぐって喚起される鮮烈なイメージ群によって、豊かに肉付けされているからである。イアンはハムやソーセージを頬張り、暴力を拒否し肉を食べないケイトを自分の肉欲の犠牲にする。またケイトは、イアンに対する拒否を食事の拒否で示そうとする。兵士は、登場直後からイアンの肉を奪って貪り食らい、彼を肉欲の対象としたばかりかその両目まで食らう。さらにイアンは、ケイトが葬った赤ん坊の肉を食物とする。この劇では、「人を食い物にする」という比喩が、そのまま現実化していくのである。食欲と性欲は肉のイメージを介して繋がり合い、自己の欲望の赴くままに他者を犠牲にするという主題が、多様で強烈な印象を伴って観る者に植え付けられるのだ。生理的肉体的飢えの現前は、こうした錯綜したイメージの結びつきによって精神的根源的な飢えを実感させる。無意識的であれ、このような緻密に構築された細部を味わうことで初めて、虚構の中にしかない感動に身を浸すことができるのである。

そして、後半に展開する異世界についての理解もまた重要である。イギリスの地方都市が突然、どこかの武装勢力に占領されるという物語は、演出家がノートで語るように「おとぎ話」となりうるし、客観的現実として捉えることもぎりぎり可能だろう。しかし、より自然にかつより豊かに、この劇の持つ諸要素を構造化し意味の連関を広げてくれるのは、絶望と自責の中で酔いつぶれたイアンが実際に見ている悪夢だという解釈である。

恋人を愛しながらも、結局自らの欲望を抑えることができず、傷つけてしまう男。酒やタバコで健康を害し、死を強く恐れながら、なおもこれらに逃避する男。彼は、欲望を果たした後は自責に駆られ、内心では自らの処罰を望んでいる。銃で武装し殺人者だと称してはいるが、「敵」の襲来を恐れてルームサービスのノックにも怯える彼は、元々傍観者たるジャーナリストである。行動する英雄に対し憧れを持ちつつも決してそうはなれないのだ。こうした日中残余は、夢の中に進入してきた現実のノックと結びついて、他者たる兵士(や軍隊)として姿を現し「目には目を」式の処罰を己に与える。従って、敵を容赦なく辱めて殺戮しても恥じず、同様の精神的闇を抱えながら死を恐れず自害する兵士は、イアンの歪んだ自我理想の投影だといえる。兵士に犯されることには、意識上の異性愛規範が抑圧した同性愛願望を読み取ることもできよう。かくして、彼に両目を奪われるイアンは、英雄たる国王から最下等の人間に転落するオイディプスのイメージをも召還することになる。オイディプスと同様、自ら(=超自我)えぐったことになるからだ。ここで強調されるのは、これ以上、自らを恥辱の内に存在させる希望なき世界を目の当たりにしたくないという、自閉≒退行の欲望である。そこへ無条件に己を守ってくれる母≒ケイトが帰って来る。イアンは、死への恐怖を乗り越えた証に自らへ向けてピストルの引き金を引いて見せもしたが、予め弾を抜いてくれたのも彼女なのだ。

ジャンヌトー氏はきちんとテクストに向かい合い、凡庸な演出家がやるように、貧弱な理解に押し込めることで作品の豊穣さを殺してしまうようなことはしない。その可能性を十全に引き出そうとするのであり、前述したような重要な細部を形作る主題系への配慮も怠らない。食物もその生々しさにこだわって本物を使い、さらにはボロボロとこぼしながら貪らせることで、日常においては文化的仮象が隠してしまう「食べる」という行為が持つ本能性を露呈させる。しばしば出てくる性的場面も、猥褻さというよりはその動物的おぞましさをまざまざと見せつけるのだ(猥褻は文化の産物である)。そしておとぎ話だとは言うものの、抽象的象徴的に処理しようとはせず、寓意表現だともリアリズムだとも、そして悪夢の表象だとも見做し得るという世界を構築してみせた。寓話との理解は、前述したような社会的思想的二項対立を前景化するだろう。悪夢との理解は深層的な意味連関を、現実だとの理解は残虐さが本物だと感じられることによる迫真性を生む。夢か現かという適度に限定された曖昧さが、両立しえないはずの劇的効果を共存せしめるのである。こうした本来相容れぬ三つの世界の共存を可能にしたのは、現実とも幻想とも捉えうる具体的だが抽象的な空間であり、それは、ぎりぎりまで明度を落とした照明やスモーク、ばら撒かれる「土砂」、象徴的質感に富むベッドといった要素で構成されていた。

役者の演技についても触れておこう。阿部氏は、ことさらに大仰な演技をすることによってではなくその圧倒的な存在感によって、おとぎ話の異者、強烈なトラウマを凄まじい暴力に転化する兵士、イアンの歪んだ理想像を併せ持つ人物を現前せしめた。大高氏は、冒頭は押さえ気味だったのか生彩を欠いていたものの、次第に調子を上げ、自らの欲望と良心に振り回され、暴力を振るい振るわれる、尊大だが卑小な人間を見事に演じ切った。布施氏は、例えば吃るところはあまりうまくないし、けたたましく病的に笑うところなどもっと凄みが欲しいが、総じて無難にこなしていたと言えよう。

(2009年6月20日観劇)