2010年9月28日

『彼方へ 海の讃歌』(クロード・レジ演出、フェルナンド・ペソア作)

■卒業者劇評
母なる海が煽り立てたマゾヒズム的生成変化の舞台
―フェルナンド・ペソア作 クロード・レジ演出『彼方へ 海の讃歌』劇評

森川泰彦

1 テクスト分析
I 大意
II 解釈
i マゾヒズム幻想論
ii 生成変化論
2 上演分析
I 演出家の読解
II テキスト・レジ
III 演出
i 前説
①〈現実〉〈虚実〉〈虚構〉
②「空無」「欲望」「力動」
ⅱ各説
①〈物体〉
②〈身体〉
③〈光〉
④〈声〉
⑤〈空間〉
iii 総説
①一体的〈虚実〉
②無と力の美学
③無意識的「交歓」
3 レジ演劇導入の意義

1 テクスト分析

この舞台が上演対象とするのはペソアの長詩であり、これをほぼそのまま一人の役者が「朗誦」することが、その大部分を構成している。従って、この舞台の享受においてかかかるテクストの理解は決定的に重要であり、まずはこれを詳しく分析しておく。

Ⅰ大意

波止場に佇む一人の男が、遠く入港してくる貨物船を眼にするところから、「物語」は始まる。動力船に我知らず同一化し、己と世界のアイデンティティの揺らぎを感じ始めた男は、内なる「はずみ車」を回して想像の大海に乗り出すのだ。まず、「絶対の隔たり」である「在りし日の海」の「神秘」に想いをはせながら、彼は「水の夢」に囚われ始める。海は様々に彼を呼ぶが、それを集約するのは、「イギリスの船乗り、わが友、ジム・バーンズ」の叫びである。彼はその声に「おれの血へ向けられた古の愛」を感じ、狂おしく出発へ駆り立てられて、「人生の窮屈さ」に「激昂する!」。海洋冒険者たちへ、「おまえたちと道徳観念をなくしたい!」、「遠くで自分の人間性が変わるのを感じたい!」「規律ある、繰り返しの生活を」「脱ぎ捨てたい」と羨望を込めて呼びかける男は、雄叫びを上げつつ次第に常軌を逸してゆく。反乱を起こして船長を首吊りにする船乗りたちに血を滾らせた彼は、ついには、古の「凶暴で強欲な大海賊の歌」が轟く中、自ら非道な殺戮に加担して愉しむに至るのだ。
ところがそうした「サディスティック」なイメージは、二度にわたって「マゾヒスティック」なイメージへと一転することになる。「おれの人生を」「海に投げ入れたい」男は、「苦痛を孕みながら享楽的に『死』に導くこと」を欲し、「おれを切り刻み、殺し、傷つけよ!」と叫び、「おれは生身のまま、世界のあらゆる海賊犠牲者たちの集大成になりたい!」、「海賊たちに犯され、殺され」「たすべての女になりたい!」と告白するのである。「夢がその絶頂に達しようとするなか、おれは完全に自失し、」「おれの中の女性性」が「おまえたち(=海賊)となる」。「とめどない官能性の中で」「おれは服従の役割をいつまでも誇り高く手にしたい」と洩らす。言葉にならない叫びは極まり、「おれのなかでなにかが砕け」、その結果「おれの魂は空になり」「夜の海だけ」が残る。その「『海』の深いところから」「セイレーンの声が」「生まれ」、「この歌の響きはおれの過去から二度とふたたび手にすることのなかったあの幸福を呼んでいる」。彼は、「息子を亡くしたこともあっておれをかわいがってくれた年老いた叔母」の歌った船の歌を思い出して涙を流し、「美しき王女」の歌や「誰かに壊されたおれの人形」の想い出に浸りながら、「子どもとしていつまでも、喜びのままいつまでもいることはできないのか」と嘆く。崩壊しかかった想像力を呼び覚まそうと苦闘する中、「突然に、より遠くから、より深くから」やってきたのは、「思いがけない冷たさ」である。「バーンズの古の声」が、「おれのなかで母親の膝と妹の髪のリボンといったたわいもないことについての不可思議な慈愛の情の声となり、事物の表層を超えて奇跡的に到来する」。それは、「絶対的なるものの声」となって「おれを呼ぶ」のだ。
その後「おれは閉じていた眼を開」き、「夢から抜け出」して「神経の休まるここ実在の世界に」帰って来たこと喜ぶ。そして「すべてがしっかり整備され、すべてがとても自然に配置され」た「現代の海の生活」に感心しながら、「自分の時代を誇らしく思」いもする。しかし「現実のむき出しの時刻」、残ったのは「おれの悲しみだけ」である。
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2010年7月22日

『彼方へ 海の讃歌』(クロード・レジ演出、フェルナンド・ペソア作)

■準入選■

孤独な“観客”  ――「彼方へ 海の讃歌」を観劇して

渡辺美帆子

あんな拍手の音を聞いたのははじめてだった。たった一人の俳優、ジャン=カンタン・シャトランは観客の鳴り止まぬ拍手に応え、何度も舞台上に呼び戻され、まっすぐ正面を見つめた。

演劇を観ているとき、人は孤独だ。劇場が笑いに満ちても、涙に満ちても、一体になることはない。客席に座る一人一人は別々のことを感じ、別々の人生を参照している。しかし、今までに「彼方へ 海の讃歌」を観たときほど、その孤独さを強く感じたことはなかった。それは舞台に立つたった一人の男、その男自身もまた、孤独な“観客”だからであろう。

舞台はうす暗く、俳優の姿は闇の中で浮かび上がるようだ。俳優はただ正面を見つめている。そこから一歩も動かずに正面を見つめている。

俳優が見ているのは海だ。詩人が見つめている海だ。詩人は海の感覚に飲み込まれ、そこを行きかう船や船乗り、船乗りに略奪され凌辱された女に思いを馳せる。詩人はその全てになりたいと願う。しかし、詩人はただ波止場に立つことしかできない。海やそこにいる人々の血になりたいと願う。しかし、詩人はそうなることはできない。「ああどうやってでもいい、どこでもいい、おれは出発したい!」。そこにあるものがたとえ残忍さであったとしても、それを感じたい。いやむしろ「血なまぐさく、凶暴で、嫌悪され、恐れられ、崇められる」ものがいい。「海の生活の陰鬱でサディスティックな情欲が俺からほとばしる」。詩人はサディステッィクに、マゾヒスティックに叫ぶ。ときに言葉になる前の摩擦音で、ときに大声で、ときに絞り出すような声で、震える唇で、それを叫ぶ。俳優は動かない。しかし、その息遣いや表情で痛いほどの感情が伝わってくる。私は仏語がわからないが、だからこそむしろその音やリズムが彼の切望を伝えてくる。

「切望でいっぱいのおれの人生の窮屈さ」と詩人は自らの状態を語る。彼の目線の先には世界がある。しかし、彼はそれを見つめることしかできない。海に、船に、人々に、同化することはできない。ただ正面を見つめ、そこに入っていかれない自分の体を思うことしかできない。俳優は一歩も動かないことで、どんどん存在感を増していく。時間が経過することがとても効果的に使われている。俳優のゆっくりした喋り方も、観客の時間感覚を日常から引き離す。俳優が舞台上で一人きり、届かない世界を思うにつれ、観客も自分が一人きりであることに自覚的になっていく。

観るということは窮屈なことだ。どんなに感情が動かされても、そこに参加することはできないし、影響を与えることはできない。客席の最前列に座ると、芝居の途中に舞台上に侵入したいという気持ちになることがある。小劇場の客席最前列と、舞台の上に物理的な距離はほとんどない。しかし、観客は舞台上に入ってはいけない。まれにそれが許されるのは、演出が観客を舞台の上に連れてこいと命じたときのみである。観客が無断で舞台に上がってしまうと、芝居は止まってしまう。観客は舞台上で起こる様々なドラマを見つめる。しかし、観客は客席という狭い場所から動くことは許されていない。観客は舞台から隔てられているのだ。どんなに感動したところで、観客が見ているものは、観客の頭の中の妄想にすぎない。一人一人の頭の中の世界は決して誰とも共有されることはない。詩人が自らの体の窮屈さを嘆くのと同様、観客も自らが一人きりで、誰とも同化され得ない存在であることを理解している。

「彼方 海の讃歌」は鏡のような作品だ。そこには他者がいない。対話も事件もない。詩人が語る他者、対話、事件は、詩人の言葉の中にしかいない。それらは詩人の頭の中で激しく描写されるが、現実にはどこにも存在しない。そしてそれを詩人自身が深く自覚している。それはこの作品が一人芝居であることや、モノローグであることにも由来するが、それだけではなく、詩人の世界観にも由来する。レジは詩人について、パンフレットに「フェルナンド・ペソアの人生には、旅も性生活も、実際には起こらなかった。だが精神のなかで彼は大波に乗り、性の境界を自由に行き来しながら、サド・マゾヒズムの限界を超越した」と書いている。実際の現実にくらべ、精神はなんと自由なことだろう。観客の精神もまた自由だ。

本作品は観客の想像力を広げさす。俳優の動きはなく、照明は薄暗く、音響も最小限しか用いられていない。観客の集中力を保とうとする為の仕掛けは全く行われていない。しかし、観客の集中力を保とうとする為の演出は、観客をアジテートし、観客の想像力を奪うことにも繋がる。本作品で、観客の想像力は自由に広がっていく。しかし、観客は自分の集中力が切れることと戦わなくてはいけない。例えばお腹が鳴ったり、隣の人がもぞもぞ動いたり、色々な現実が集中力を途切れさそうとする。その葛藤は、詩人の葛藤と同じ葛藤である。想像力は自由だが、現実はそれを妨げようとする。観客の中で起こった想像力の自由さと、現実がそれを妨げようとする葛藤は、詩人の言葉の葛藤そのものだ。

カーテンコールで他の観客の拍手を聞いて、私はとても安心したような気持ちになった。2時間の孤独な観劇を終え、現実の他者である他の観客の存在が、やっと傍に帰ってきてくれたように思えた。そして、他の観客も私同様に本作品を称えていることが奇妙に素晴らしいことに思えたのだった。


『彼方へ 海の讃歌』(クロード・レジ演出、フェルナンド・ペソア作)、『若き俳優への手紙』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作、平田オリザ日本語台本)

■入選■
「孤独な」言葉と観客
ー「彼方へ 海の讃歌」(クロード・レジ演出)、「若き俳優への手紙」(宮城聰演出)
(2010年6月12日静岡芸術劇場と舞台芸術公園楕円堂にて観劇)

坂原眞里

クロード・レジの舞台は暗い、とどこかで読んだことがあった。初めて観るその舞台は、暗い、確かに暗い。闇の中に、楕円堂の円蓋と梁が、そして舞台中央の演台の四隅に立つポールが暗灰紫色に浮かび上がる。どこか崇高な空間に身を置いているようでもあり、あるいは濃く滞る靄の中、埠頭とその後方のドームから成る夜明け前の光景を眺めているようでもある。

やがて、ただ一人の出演者ジャン=カンタン・シャトランが「埠頭に」立つ。そして、2時間余、両腕を大きく頭上に上げ脇に降ろす動き(その動線に電光が走り、劇場の闇を神話的次元へと引き上げる)と、頭をそらせるなどのわずかな動作を除いて、その場に同じ姿勢で立ち尽くす。大半は闇の中である。大柄とはわかるが、重く厚みのある体躯も穏やかな顔立ちも、上演が終わるまでその全容が観客の目に入ることはない。彼の背後上方に日本語字幕が出るが、それも私にはかすんで読めない。配られていた原詩の日本語訳を開演前に斜め読みしておいたので、その記憶に助けられつつ、幸い難解ではなかったフランス語を時に目を閉じて聞き入った。

一人の男が埠頭に立って港を眺める。船の出入りが、旅への渇望を激しく掻き立てる。かつて船乗りたちが放恣の眼差しを注いだ場所を経巡りたい、海賊の蛮行をも味わってみたい…リスボンの孤独な勤め人だったらしい作者のペソアにも、フランスのロートレアモン伯爵やアルチュール・ランボーのような文学上の心の兄たちがいたのではなかったか。しかし、やがて直截な暴虐性を増すペソアの言葉は、「年古りたる大わだつみ」の威容それ自体に向けられるマルドロールの敬礼とも、読者を「非情の大河」くだりに連れ出すスウィングとも大きく異なっている。クロード・レジによる声の演出に関して言うなら、それは明らかに、フランスの演劇人アントナン・アルトー後の、声もまた舞台芸術表現における物理的要素ととらえ、その身体性を重視する流れに属しているが、ここでもまた、「海の讃歌」の声の演技は、アルトーが晩年に行った録音の声とは大きく異なる。聴く者に空間の変容さえ感じさせるアルトーの変幻する声(「神の裁きにけりをつけるため」)は、猥雑なイメージを含む悪夢をたわませ、反転させ、人間の解放を希求する。これに対して、レジが行ったのは、リバイアサンが呻き、嘆き、のたうち回るかのようなペソアの言葉を、つまり、近代文明も穏やかな幼年時代も馴致しえない人間性の闇のマグマを、ファドに憑依させたフランス語で擬態することであった。

「埠頭」の男は、歯間から絞り出すように息を吐く。身体の内奥の闇、肉の壁をこすり上げて噴出する声、叫びとなって突き出す顎。体液のように温かく、泥のように重い、荒れ狂う声。男の影は時に巨大な岩塊、時に後足で立ち上がり咆哮する獣にも見える。また時に、多数の身体が多数の声に乗ってうなるようにも思える。神話的位相が縮んで、生身の男の影が現れ、聴く者を怯えさせる鬱屈とした呻きを漏らすことがある。そんなとき、私は、頭の片隅に昔LPレコードで聴いた清明なフランス語の「酔いどれ船」を甦らせ、笑いの炸裂をも生むアルトーの異言に逃げ込もうとした。

つまり、レジの企てが人間性の負のマグマを現出させ、観客をしてそのおぞましさ、哀しさに立ち会わせることであったとしたら、それは完璧な成功だったのだ。そして、「海の讃歌」が、周到な演出と信じがたい強度を保つ声のパフォーマンスによって、驚嘆すべき希有な作品となっていたことは確かである。

オリヴィエ・ピィの「若き俳優への手紙」もまた、孤独な言葉の舞台であった。しかも、おそらく、人間性の負のマグマ以上に客席に届かせることの困難な、正しさを主張する言葉である。そのような言葉は、演じれば演じるほど胡散臭くなりかねない。それに、そもそも表題からして、一般観客は「手紙」の対象ではない。加えて、その主張は、「初めに、ことばがあった」キリスト教の、その「ことば」に奉仕すべき演劇の言葉の擁護である。それをいかにして日本の観客に届けるか、演出の宮城はこの困難を充分意識していたようだ。そして、能の形式を援用することで、ほぼ見事に難題をクリアした。公募による美術も演出の意図によく適っている。

橋がかりを思わせる朽ちかけた木橋のベンチに、長い白髪に異形の女が座っている。となると、たいていの日本人観客の場合、女の語るであろう言葉を聴く体勢にスイッチが入ってしまう。ここで、私たち観客はさながら諸国遍歴の僧となって、孤独な言葉に耳を傾けるのだ。

女が批判する演劇界の現状は戯画化されていて、彼女の訴えが粗雑に思えたり、「御ことば」の訳語で「手紙」の世界が一転狭くなるかの印象を受けたりするが、それはピィの原作の問題である。

ピィの企てと演出力は、静岡デビューの二作よりも、その翌年の三作の方によりよく現れていた。その内の一作「少女と悪魔と風車小屋」が、2011年春に宮城の演出で上演されるという。どうなるのか、今から楽しみだ。