2010年9月28日

『王女メデイア』(宮城聰台本・演出、エウリピデス原作)

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■卒業者劇評
“言葉”の悲劇

奥原佳津夫

有度山の深い翠を借景に緋傘が立てられ、裏を返せば文明開化の錦絵をあしらった傘も並んで、ハイカラな野点といった風情。ただし床に敷き延べられたのは毛氈ならぬ、血だまりのような日の丸である。襷掛けの女中が十人ばかり紙袋で顔を隠し、それぞれの写真を遺影のように抱いて立ち並んでいる。法服の男たちが登場し、謡の会めいた座興に人形として使う女を品定めする。こうして劇中劇として幕の開くSPACの『王女メデイア』は、まさに“言葉の悲劇”と呼ぶにふさわしい作品であった。その“言葉”と“悲劇”について、以下三つの観点から見てみたい。

まず第一に上演形式から。古代ギリシア悲劇は、ヨーロッパの言葉の演劇の源泉たる詩劇であって、擂鉢型の客席をもつこの野外劇場は往古の上演を偲ぶにはうってつけなのだが、この上演は古代劇を模したものではなく、台詞を語るSpeakerと人物の動きを受け持つMoverが分離した、いわゆる二人一役の手法が採られており、むしろ義大夫語りと人形、丸本歌舞伎の床と役者の関係を思わせる。この演出者(宮城聰)が開拓してきた独自の手法と云えようが、今や充分に成熟し、一つの演劇形式として確立した観がある。ことに、端座したまま客席に垂直に語られる台詞が、そのロジカルな構造までも存分に伝え、動きと分離することによって、むしろ豊かな言語表現を獲得していることに注目した。西洋古来の劇詩の、近代劇的な感性が曇らせてしまった一面を、東洋的な語りの手法が再発見した、とも云えようか。

第二に社会的な側面から。古代ギリシア悲劇は、紀元前五世紀に都市国家の祝祭に国家行事として上演されたものであり、その劇場は同時に、社会的、政治的、言論の場でもあった。現存するほとんどの劇詩が神話時代に材を得たものであるとはいえ、そこには、当時の都市国家とその市民にとってのアクチュアルな問題が読み込まれていた筈である。この上演では、Speakerを男性、Moverを女性に振り分け、明治末期から大正を思わせる時代設定の下、メデイア役の女性を朝鮮半島の出自とすることによって、ギリシア神話の異邦の魔女の物語は様相を変え、現代日本の観客が無関心ではいられぬ問題に引き寄せられている。これは、劇場を詩の言葉に耽溺するのみならず、アクチュアルな言論、言説に向けても開かれたものにしようとする試みと云えるだろう。

第三に、戯曲解釈の面から。上演は、前述の外枠の設定によって(男性による)言葉の収奪というテーマが明確に打ち出される。冒頭、女性たちが紙袋を被って立ち並ぶ光景に示されるように、言葉の収奪は、個性の収奪、(固有の)文化の収奪でもある。そして、男性たちの法服によって示されるように、支配する側の言葉は固定化され、権威付けされ、流布される。イアソンが手にして登場する書物(侵略者の視点による『アルゴ船記』か?)、塔のように聳え立つ無機質なオブジェいっぱいに挿された本、鬘桶のように使われる小道具の蓄音機が、その表象となる。メデイアの悲劇は、言葉の収奪の悲劇として読み換えられる。

実子を殺害するというメデイアの復讐手段は様々に解釈され、その動機づけは作品解釈の眼目である。原戯曲どおりに読めば、家系の隆盛を何より望む夫から、その機会を奪うことが目的であろうが、それだけで我が子を手に掛ける動機として充分だろうか?(余談めくが、ハイナー・ミュラーが『メディア・マテリアル』で提示した、「己の血を回収する」という概念は注目に値する。)この上演では、メデイアの子別れの愁嘆場を無対象で演じさせ、その傍らで当の息子は本を読んでいるという形で、完全なディスコミュニケーションを視覚化した。つまり、息子はすでに支配する言葉の側に取り込まれてしまっているのだ。メデイアの子殺しは、ミュラーにならえば、(父親の)言葉から(息子の)肉体を取り戻す行為、ということになる。

大詰、原戯曲では竜車に乗ったメデイアが登場する件りでは、意表をつく演出がなされる。それまでMoverとして男たちの言葉の支配下にあった女たちが、Speakerの男たちを殺害するのだ。芝居の外枠部分の概略を追えばこうなるだろう―座興の劇中劇が進行するうち、女の一人が手籠めにあって争ううち男を殺してしまう。(これが領主とその娘の毒殺にオーバーラップして演じられる。)それを契機に事態は破局へと向かい、メデイア役の女が巫女鈴を打ち振るのを合図に、女たちが男たちに襲いかかって鏖殺する。―芝居の幕切れとしては見事にキマる。だが反面、“言葉の収奪の悲劇”としては、これは復讐になりうるのか、という疑問も浮かぶ。緻密に提起された問題を単純化してしまいかねないからだ。原戯曲のメデイアが領主にも警戒されるのは、男の武器である言葉=ロジックを存分に使いこなす優れた知力の故でもある。そう考えた時、この上演形式における女たちの復讐は、ナイフを振るう実力行使、肉体の言葉への復讐であるよりも、計略の進行に従って、いつしかMoverとSpeakerが入れ替わるたぐいの、したたかな言葉の奪還であるべきなのかもしれない。

最後に一つ、この演出の特筆すべき点として、舞台上の離れた場所から終始展開を見守っている浮浪者めいた老婆を置いたことに触れたい。この老婆が舞台の進行に関わるのは二回だけ。メデイアが復讐の計画を乳母に打ち明けた時、彼女も言葉を奪われた女たちの一人らしく、それに応える台詞を手元のテープデッキから流す。原戯曲にこの場の乳母の台詞はない。(エウリピデスがことさら謎めかしたわけではなく、当時俳優は三人しかいないため、冒頭の乳母を演じた第二俳優はイアソンに役替わりしてしまっているという上演法の制約によるのだが)過激な復讐計画を年老いた乳母がどう受けとめたのか、演出者はこの乳母の沈黙に着目して、メデイアの情熱とは距離を置く台詞を、いわば幕外のコメンタールとして付け加えた。

幕切れに、老婆は初めて演技エリアに足を踏み入れ、殺害された男の骸を上着で覆ってやる。同じ言葉を奪われた女の一人でありながら、暴力による復讐に(あるいは復讐という選択自体に)与しない第三の視点を設定することで、作品のメッセージは多義的なものとなり、この老婆の存在は興味深い。ただし、そもそもが重層的な(記号過剰な)この作品構造に、さらに一つ外枠を加えることは、観ようによっては、結論を躊躇う演出者の留保のようでもあり、この第三の視点は観客に委ねてもよかったかもしれない。

小雨模様のこの日、芝居ごころある雨風は劇展開につれて絶妙の効果となり、満席の観客に野外劇の醍醐味を存分に味わわせる一夜となったことを云い添えておく。

(於.舞台芸術公園 野外劇場「有度」 2010.6.26所見)


2010年7月22日

『王女メデイア』(宮城聰台本・演出、エウリピデス原作)

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■入選■

丹治佳代

暗くなりゆく有度の森を背景にし、細かい雨と異界から漂ってくるような霧に包まれ、6月26日上演の『王女メデイア』は野外公演ならではの非常に美しい舞台となった。宮城聰演出の『王女メデイア』は、明治時代の日本において、法律家の男たちによって催された宴席での余興として、つまり劇中劇として演じられる。男たちは登場人物の台詞を語り、朝鮮から連れてこられたと思われる女たちが、生きた人形として舞台上で無言のまま動き回る。

この『王女メデイア』は、ク・ナウカ活動時から宮城聰の代表作と言われ、インターネット上でも過去の上演について多くの劇評を読むことができる。そこで、本劇評においては、ロゴスと非ロゴス的なものとの対立、そして後者による前者への復讐…といった点は他の劇評に任せることにして、(他の劇評ではあまり論じられていないと思われる)本作品における「破滅と再生」という点に論を絞り、評を進めていきたい。

破滅と再生というのは、ギリシア悲劇を考える上で外すことのできないキーワードである。主人公オイディプスが、人間としての視力(=ものごとの仮象の姿しか見ることができない)を捨てることで神的な視力(=真理を見る力)を得ようとする姿を描いた『オイディプス王』など、ギリシア悲劇作品は、「現在のあり方としての破滅と、さらに高い次元の存在への再生」というテーマを含んだものが多い。エウリピデスの『王女メデイア』も例外でなく、子殺しを終えたメデイアが竜車に乗って上空へと去っていくというラストシーンにおいて、彼女が人間を超える存在となっていくことが示されている。

では、メデイアの再生を端的にあらわすこのシーンを完全にカットした宮城版『王女メデイア』において、「再生」は、そして再生の前提となる「破滅」は、一体どのように表されているだろうか?

まず、「再生」の前段階となる「破滅」について。私は、宮城版『メデイア』を観るまで、メデイアの破滅というのは子殺しを行なってしまうことだと思っていた。が、宮城演出により次のことに気づかされる。メデイアの破滅というのは劇が始まる前に生起しており、メデイアはすでに破滅を引き受けながら生きているのだ、と。つまり、メデイアにとっての破滅とは、劇の前から前提としてあること―「女であること」そして「(ギリシアにおいて)異国人であること」だ。このことを気づかせるのは、上演前の光景―観客が客席に案内される間ずっと、舞台上では女たちが頭に紙袋を被せられ、手には自分の写真を持ち、微動だにせず静止している―だ。この一見異様な光景は、主体性を奪われた女たちが、自らの遺影を手にし、静かに自らの弔いを行なっている様子を物語っているのではないか。つまり女たちは、上演が始まる前にすでに、自分自身を弔ってしまっているのだ。ここで弔われているのは、強固な男性原理・家父長制度のもとで女として生きる存在、また帝国主義のもと異国人として生きる存在だ。舞台上にあらわれる男たちの騒々しさに比べ、彼女たちの静かさは、その内に強靭な力を秘めているように思われる。

劇中劇としての『王女メデイア』はほぼ原作どおりに進められてゆくが、上演前に早々と自らの弔いを決行してしまった女たちにより、男たち―支配の側にある存在―の世界が徐々に侵食されてゆき、ついにラストシーンで、今までの力関係が一転する。語り手の支配下におかれた人形であった女たちが男たちに次々と襲いかかり、躊躇うことなく彼らを殺していくのだ。鈴を持ち、赤いスリップドレス姿になった美加理のたっぷりとした豊かな肉体が圧倒的に美しく、原始的で力強い母性を感じさせる。この「女たちによる男たちの殺害」というラストシーンこそ、竜車に乗って去っていくメデイア像の代わりに、宮城聰が本作品に与えた「再生」のシーンである。女たちに殺された男たちは床の上で丸くなるが、その姿は母親の胎内で誕生の日を待つ胎児のようだ。女たちは、男たちに復讐を行なったのではなく、再生させるため、新しく生きさせるために、彼らを殺したのだ。つまり本作品においては、すでに破滅を引き受けた存在がその手で、これから滅びることになる者たちに、再生の契機を与えている、と言えよう(男たちの行く末は、床に敷かれた日の丸―書物の差し込まれたオブジェが突き刺さり、血を流しているかのようだ―によって暗示されている)。こうして宮城版『王女メデイア』は私たちに、「今あるあり方から脱し、新しく生きるためには、まず一度滅びねばならない」というメッセージを投げかけ、幕を閉じる。

また、本作品における「破滅と再生」を語る上で欠かすことができないのは、襤褸をまとい最初から最後まで舞台脇に座り込む乳母の存在である。彼女は、二千年以上『王女メデイア』を観続けてきた観客であり、現在本作品を観ている私たちであり、これからも『王女メデイア』を観続けていく存在だ。終幕時、イアソン役の男性にそっと上着をかける乳母の姿は、「私たち人間は、時代を問わず洋の東西を問わず、エウリピデスの生きた時代のずっと前から今に至るまで、常に再生を求め続けているのだ」ということを強烈に語っていた。
宮城版『王女メデイア』については、その演出において「男性と女性」「ロゴスとパトス」などといったわかりやすい説明図式を用いたことで、劇として幾分単純なものとなった、と論じられることもあるようだ。しかし本作品は、女たちによる男たちの殺害という強い劇的カタルシスの後に、人類が絶え間なく抱き続けてきた再生への切実な希求―それは絶望でも希望でもあるのだろう―を感じさせるという、非常に複雑で深い余韻を残すものであり、単純などといった言葉からは遠くかけ離れた作品であると言えるだろう。
(6月26日観劇)