2010年9月28日

『頼むから静かに死んでくれ』(ワジディ・ムアワッド作・演出)

■卒業者劇評
頼むから静かに死んでくれ(原題─沿岸─)

井出聖喜

主人公のウィルフリドの独白によって舞台は始まる。彼は、行きずりの少女と「人生で一番すごいセックス」をしている最中に電話が鳴り、父親の死を知らされる。この若者は、「(ぼくの人生は)はじまらないうちにおしまいになった」(三島由紀夫『近代能楽集─邯鄲─』)ような思いにとらわれており、セックスをすることにしか、言を換えれば性的高揚感の中にしか生きていることの実感や意味を見出せないでいる。
その一方、彼は自分の人生の折々の場面を映画に撮る幻想にひたっている。これは彼が自分の人生にとにかく美しい形を与えたいと願うロマン主義者の一味であることを物語っていよう。要するに彼に欠けているのはずしりと手応えの重い現実であり、希薄な現実がさらさらと手の間からこぼれ落ちた後に残ったのものは、持て余すしかない虚無であろう。

「リーン・モシモシ・キテクダサイ・アナタノオトウサンガシニマシタ!」と、父親の死を知らせた言葉が何度も彼の中で反芻される。これは、ずっと自分の中で決着を付けきれないできた父という存在が、その死によって「宙吊り状態」になってしまっていることを証している。「母を殺し、父と寝た」というシニカルな自己批評の言葉は、エディプス・コンプレックスなどというわかりやすい言葉でくくられる以前の未分化な状態に彼がとどまっていることを証拠づけている。また、その彼は突然現れたアーサー王の円卓の騎士の一人と思しきギィロムランと共に父の死体を葬るために父の故郷まで旅をすることになる。円卓の騎士と結構饒舌(!)な父の死体──彼の中では現実も幻想も境目なく同居しており、そんな子どもの心を捨てきれないのが、彼、即ちウィルフリドなのだ。
結局彼は父を海に葬り去り、幻想の騎士とも別れることになる。その時、彼の子ども時代は終わり、彼は知り合いになった若者達と共に人生に向かって歩み始める。要するに2時間45分、休憩なしでひた走るこのドラマは、オイディプスに近付き、ハムレットを越えていこうとする現代の少年のイニシエーションの物語なのだ。

さて、ウィルフリドの独白で舞台は始まると冒頭に述べたが、正確にはウィルフリドが他の人物によって白いペンキ様の塗料をかけられ、塗りたくられるところから始まるのである。この「ペンキ塗り」は、しばらく後、次のような場面へとエスカレートする。則ち、ある人物が円筒型の缶らしきものを握って股間にあてがい、ピストン運動をさせた後フタを取って中の白い液体を放出させるというものだ。度の過ぎた悪ふざけとしか思われない場面である。しかし、そうした思いは、ウィルフリドの母が難産に苦しむ中、子どもに命を与えるために死ぬ場面で彼女が頭から赤い塗料を浴びせられるのを見るに及んで一変する。この白と赤の塗料は要するに精液と女の子宮の血液であり、性と生の簡明なるアレゴリーであったと納得させられるのだ。「人が生まれて、生きること」とは畢竟この二つの液に収斂されるということか。

しかし、このドラマは社会道徳の欺瞞性を告発したり、倫理的アナキズムを過激に主張したり、といったものではない。しばらくこのドラマを追っていくと、そうした過激な、あるいは児戯にも等しいと見えるパフォーマンスの中から各登場人物(死体である父も含めて)のイノセントな魂、そして彼、または彼女らが語る言葉の詩的イメージの広がり、更にはそれぞれの直面した苛烈な現実と、それをくぐり抜けて到達したであろう、人生に対する透徹した洞察とが次第に立ち現れてくるのである。また、活力のみなぎったスピーディーな舞台展開とはうらはらに、その内奥には生と死に対する静謐な祈りにも似た思いがある。
例えば、前述の、ウィルフリドの母が「妻を助けるために子供の命を絶つ」と主張する夫イスマイルの訴えを拒み、ウィルフリドを産んだ後に死ぬ場面。「命が、命が私の外に!」「命がそこにある! 命はなんて美しい」と、魂の叫びを叫ぶ時のウィルフリドの母、ジャンヌは神々しいほどに美しい。また、例えばウィルフリドが父親の故郷で知り合った若者の一人、サベが、自分の父親をこれ以上ないとも思われる残酷さと辱めの中で殺されたことを語る様の衝撃は観客の胸を突き刺さんばかりだ。
更には、人の名を次々に口にしながら登場するジョゼフィーヌ──彼女はその国のすべての町や村のすべての人の電話帳を持ち、小さな村のものは手書きをして集めたが、鉛筆がなくなった後は全部暗記したという。彼女はまた、「洞窟に住んでいる隠者や隠れた湖のほとりに住む世捨て人を忘れていないか」不安であり、「新しく生まれた子供たち、私が訪ねた後から来た人たち」もいると訴える。ただの一人もゆるがせにするわけにはいかないというオブセッションとも言うべき執念が彼女にはある。一つの名前にはその人の膨大な人生の記憶が詰まっている。だとすれば、ただのひとりといえどもいいかげんにすませるわけにはいかないのだ。「交通事故死者数5155名で、減少傾向が続き、大変喜ばしい」などという立場とは全く正反対の姿勢がここにはある。

ドラマもこの批評もそろそろ最後になる。ウィルフリドの父親の死体は海に沈められる。父は羊飼いとなり、群れの守り人となる。群れの守り人とは神のことだろうが、現代の神は「虚無」の御手に抱かれている。人生に折り合いを付けると言っていたウィルフリド。彼は父の死体を虚無の広漠たる海に委ねることで、自分の中の「虚無」を葬り去ったのではないか。そうすることによって、彼は生きることに向き合おうとする。広大無辺な虚無の海のこちら側の岸に我々の人生がある。生きている者はその海を背後に感じながらも沿岸の大地を踏み進んでいかなければならない。人生は生きている者たちに委ねられているのだ。
ラスト・シーン。父親を葬り去った若者達は、一種透明な微笑をたたえながらゆっくりと、しかし、確かな歩みを始める。その歩みが捉えようとしているものは「未来」などではない。今の彼等の、そして私たちの、のっぴきならない現実なのだ。

美しい舞台だった。「ペンキ塗り」がどんなに汚かろうとも美しい舞台だった。
いい舞台作品を見ると、自分の目の前の現実がつまらなく思えることがある。しかし、これほど美しいドラマを見た後では、自分も自分の人生とまっこうから向き合ってみようかと、遠からず還暦を迎える筆者も、粛然として襟を正す気になったものだ。そういう力を、この作品は持っている。