劇評講座

2017年12月26日

ふじのくに⇔せかい演劇祭2017■優秀■【ダマスカス While I Was Waiting】西史夏さん

カテゴリー: 2017

 私が『ダマスカス While I Was Waiting』のチケットを予約する電話を入れたのは、3月30日。呼び出し音が長く続いた。混線しているのだろうか、しばらくして回線が切れ、私はもう一度、電話番号を押した。
 トランプ大統領がシリアへの空爆を行ったのは、その一週間後だった。現政権の化学兵器使用に対する武力行使というのが、攻撃の理由である。まさに歴史的事件だった。更に事件は続く。アメリカは次に、核開発を進める北朝鮮への警告として、一国の軍事力にも匹敵する空母の一群を朝鮮半島に派遣したのである。こうして劇評を書き進める今も、極東地域の緊迫は高まったままである。チケット予約から観劇までの期間に、遠き国の出来事はまさに他人事ではなくなり、当事者意識を強くして劇場へ足を運ぶことになった。 続きを読む »

ふじのくに⇔せかい演劇祭2017■入選■【MOON】菅谷仁志さん

カテゴリー: 2017

 地球を模した巨大なバルーンが開き切り、私たちはタイトルである『MOON』(=月)にたどりついたことを知る。そこで劇は「終演」。装置に圧倒されつつ、時計を見て思ったのは、予定よりだいぶ早く終わっていることだった。
 予告では上演時間はおよそ90 分。それが、4 月30 日はおよそ75 分で終演した。観客はみんな自由に動いているはずなのに、定刻より早い終演。初めて顔を合わせた人間同士が作る空間を、これほど正確に制御できるタニノの力量に驚きだ。しかし次の瞬間、言いようのない怖さを感じた。「さっきまで地球にいたはずの私は、いつの間にこれほど遠くに『来てしまった』のか」と。 続きを読む »

ふじのくに⇔せかい演劇祭2017■入選■【ダマスカス While I Was Waiting】高須賀真之さん

カテゴリー: 2017

未来への祈り―『ダマスカス While I Was Waiting』を観て―

 『ダマスカス While I Was Waiting』(以下『ダマスカス』と記す)を観てまず思ったのは、シリアに生きる彼らもまた普通の人間たちなのだという当たり前のことだった。こんな言い方をするのは語弊があるかもしれないが、しかし日常的に銃声が響き渡るような環境にいる人々というのは自分たちとはどこか違っているのではないかと思ってしまっていたのも事実だ。それこそシリアのことを「遠い国の自分たちとは違う世界の出来事」であるかのように捉えている自分がいた。だが、この芝居を観れば、シリアで暮らしている人々もまたお洒落をし、(ヒジャーブをつけているにせよ)肌の手入れをし、スマートフォンを操作し、音楽を聴き、身内や友の不幸を嘆き悲しみ、喧嘩をし合い、美味しいものを食べれば微笑み、魅力的な女性を見れば「超セクシー」だと思うのだということがわかる。彼らの姿は何も我々と変わるところがないし、彼らの日常と我々の日常がいまこの瞬間に入れ替わったとしても何の不思議もない。まずそのことを痛感させられた。 続きを読む »

ふじのくに⇔せかい演劇祭2017■入選■【アンティゴネ~時を超える送り火~】五感さん

カテゴリー: 2017

賽の河原。
水が張られた舞台を見て第一に、私はつぶやいていた。次に、此岸と彼岸、三途の川。言葉が頭を駆け巡る。ギリシア悲劇、という前情報をもって行ったのに、まず私の脳内を満たしたのは、日本の死生観だったのだ。水はこの世とあの世の境目をあらわす、そしてそこに足をつけ、ゆっくりと歩む役者たち。生と死、というぼんやりとしたイメージを抱いたまま、席に着いた。
しかし、その脈絡のない、ぼんやりとした第一印象、イメージこそが、演劇アンティゴネの根幹と深く結びついていることを、すぐに確信する。確信してしまえば、イメージはイメージにとどまらず、くっきりとした輪郭を持ち出す。 続きを読む »

ふじのくに⇔せかい演劇祭2017■入選■【アンティゴネ~時を超える送り火~】青柳暢人さん

カテゴリー: 2017

 手にしたチラシを見て、初めて演劇を見る気になった。
 「憎しみ合うようには、生まれていない」「人間を「敵か味方か」二分しない姿」、何年も続く目を覆いたくなるようなニュースの応えとして「時を超える送り火」が、日本が発することができるメッセージとチラシが訴えてくる。演劇は、言葉にできない概念を、人の声と息遣いで、音とリズムで、劇場と時で伝えること、と思ってきた。だから、そんなものは、あやういと思ってきた。何かが分かるかもしれないという予感。野外の、夕闇が深まる中での公演、夜と炎の情景を見ることができるかもしれないという期待。チケットを買った。 続きを読む »

ふじのくに⇔せかい演劇祭2017■入選■【アンティゴネ~時を超える送り火~】山下智代さん

カテゴリー: 2017

全ての死を悼むことは、すなわち全ての生を悦ぶこと。人はみな等しく人である。 シンプルだけれど今世界に向けて上演する意味をつよく感じながら、魂が浄化されていく音をきいた。
船を漕いでついとやってきた御釈迦様が、水面を彷徨う魂たちが手にもつ魂(玉)と引き替えに生前の役を与えていく。生きている間は誰もが自由でありながら、何かしらの役割を背負って不自由に生きている。シェイクスピア劇などで役者たちが控えている様子から、定刻になると前口上と共に物語の役として生き始める瞬間、つまり役者本人と役の境界を見せる演出があるが、この場合死者たちが還ってきて今再び実態を得て生き始めるというさらに大きな生死の境界を感じる。そのことがいっそう2500年という時の長さを思わせる。 続きを読む »

ふじのくに⇔せかい演劇祭2017■入選■【アンティゴネ~時を超える送り火~】西史夏さん

カテゴリー: 2017

 政治家の失言にはいつも辟易としたり憤ったり、その都度暗澹たる気持ちを味わうものだが、私にとって今村前復興大臣の発言の数々は比類ない悲しみを呼び起こすものだった。記者の質問に怒声をあげ、「自己責任」と発言した姿は被災者を突き放すようにしか見えなかったし、死者の数を読み上げる声は冷徹そのものだった。その時の彼、そして背後にある永田町には、決定的に、とても大切な何かが欠けていた。それは何だったのか。疑問符が残るなか、私は静岡へと旅立った。 続きを読む »

ふじのくに⇔せかい演劇祭2017■入選■【アンティゴネ~時を超える送り火~】ニシモトマキさん

カテゴリー: 2017

水の意味するものは何か

 「アンティゴネ」には、個人的に特別の思い入れがある。というのも、はるか昔の学生時代、東京は下北沢あたりの、客席に三十人も入れば満杯になるような小さな小さな劇場で、アンティゴネの妹イスメネを演じたことがあったからである。
 当時はアングラ演劇華やかなりし頃で、流行のまくしたてるような台詞回しとスピーディーな動きで構成された、およそギリシャ悲劇とは似ても似つかぬ奇妙奇天烈な代物だったが、そこは素人芝居の自由さ、結構真面目に且つ楽しく演っていたのを懐かしく思い出す。
 そんなわけで、SPACが「アンティゴネ」を上演すると聞き、これはぜひ観たいものだと心が躍った。しかも野外劇だという。ポスターを見ると、サブタイトルに「時を超える送り火」とある。すぐさま、薪能のイメージが頭に浮かんだ。日本の伝統芸能とギリシャ悲劇の融合──なるほど、いかにも合いそうな感じがした。 続きを読む »

ふじのくに⇔せかい演劇祭2017■入選■【腹話術師たち、口角泡を飛ばす】長谷川真代さん

カテゴリー: 2017

レイプ的自慰行為の先にあるもの

 芝居の幕切れ、彼女(彼)は自らの腕にはめたマぺットの内部に、もう片方の手を静かに少しずつゆっくりと差し込みはじめた。その行為の辿り着く先を、我々観客は目を釘づけにして見守る。洩らした吐息と「結末は思い出せないの」という言葉を残して芝居は唐突に終わりをむかえる。照明が落ち、舞台上が闇と静寂に包まれても、我々はお決まりの拍手ができずにいた。「果たしてこれでこの劇は終わりなのだろうか?」血液を脈打たせながら平静を装っていた観客は、期待の昂ぶりに終止符を打たざるをえなかった。自らを彼女(彼)に投影していたのに、その利那、鮮やかに現実に引きずり戻されたのである。 続きを読む »

ふじのくに⇔せかい演劇祭2017■選評■SPAC文芸部 大岡淳

カテゴリー: 2017

 SPAC文芸部スタッフとして、ここ10年ほど、観客の皆様から寄せられた劇評を拝読して参りました。毎回どの投稿も、本来なら「言葉にできない」はずの御自身の観劇体験を、あえて言葉にして他者に伝達しようという熱意に満ちたもので、心打たれます。今回もやはり感動いたしましたが、それとともに、年を経るうちに変化も確実に生じていると感じました。
 それは、ここ数年の傾向でもあるのですが、「可もなく不可もなし」という印象の劇評が大半を占めている、ということであります。なぜ「可もなく不可もなし」なのかと申しますと、作品の内容の紹介や、作品の背景の解説は、皆さんきれいにまとめておられるのですが、そこで終わってしまっているのですね。しかし、劇評はあくまで批評であって、レビューとは異なります。もちろん作品についての紹介・解説は、劇評の果たすべき役割でありますが、それに加えて、作品に対する評価を下さねば、劇評としては完結しません。結局その芝居は、良い作品だったのか、そうではなかったのか。その良し悪しは、もちろん突き詰めれば主観的な判断に過ぎないわけですが、その主観的な判断をなるべく客観的に説明してみようという危うい綱渡りが、劇評(のみならず批評一般)の醍醐味だと私は理解しています。 続きを読む »