劇評講座

2008年7月28日

『剣を鍛える話』(中島諒人演出、魯迅作)

カテゴリー: 剣を鍛える話

祝祭的寓話の革新的演出
―中島諒人演出 魯迅『剣を鍛える話』劇評

森川泰彦

 まず、形式についての検討から始めよう。この上演の最大の特徴は、語り物形式を採用することにより、小説のすべての言葉を舞台に上げたことにある。それでは、かかる手法をとる理由はどこにあったのか。それはこの小説が、極めて豊かに広がる主題論的体系を有する作品だからである。この作品においては、寓話の寓話とも言うべき重層的な意味を帯びた登場人物たちの行為が、グロテスクなカーニヴァル的世界を繰り広げてゆく。相互に木霊し合う細部を形作っている地の文を切り捨てて、現代演劇のスタイルで上演してしまえば、この作品の魅力はあらかた失われてしまうのである。
 しかし、これを劇として成立させるのは容易なことではない。小説は、言葉だけで成り立つべく編まれているのであり、そのまま舞台化すれば語り(語られるもの)と視覚形象(見えるもの)がだぶってしまうのだ。しかし演出家は、そのようなハードルを、数々のテクニックを駆使して乗り越えることに成功している。
 まず、演技は簡略化され、言葉をそのまま再現しない。また、語られる視覚的事象が語りに遅れて現れたりもする。語りと視覚形象の間に、絶えず様々なずれが持ち込まれるのである。これは両者に存在意義を与えると同時に、そのせめぎ合い自体を舞台上の劇的表現の一部とすることになる。視覚形象には一定の抽象化が施され、特に演技は、伝統演劇に観られるような様式性を帯びる。しかし、完全な様式と異なり、ある時は言葉に接近して具体的(=リアリズム的)になり、ある時は乖離して抽象的になるといった具合に、両者の離接振り自体がこの上演を構成する重要な要素となっている。このような様式なき様式は、舞台にリズムを生むと共に、その予測不能さがサスペンスを生むことにもなった。
 加えて、「仕掛けの露呈」に関わるブレヒト的な手法も的確に用いられる。語り手の語りが演技者の発話に移る過程で、両者が同時発声したり、異時発声(語り手の語りを演技者が繰り返す)したり、片方が口パクになったりといった「遊び」が、随所に盛り込まれているのだ。このように、言葉に対して視覚形象が一定の自律性を持つことが、この舞台を極めて豊かなものにしている。また、暗めの照明を基調とした抽象的空間に、質感豊かな衣装、小道具が置かれるという模範的なセノグラフィーは、この作品のグロテスク・リアリズム的な幻想性をよく支えていた。
 工夫は、このような視覚面と言葉の関係をめぐるものだけではない。聴覚面との関係においても際立った技巧が使われる。まず、聞き取れなければすべての言葉にこだわる意味がなくなるから、明晰に発音することが当然の前提となる。その上で、言葉の有する音声としての物質性を際立たせるべく、誇張された語り口が採用される。さらに太鼓の強い連打を中心とする、まさに「劇的」な効果音を随所に挟むことで、語りの冗長さ単調さが避けられる。きびきびとした役者の動作もそれに連動する。これらを実現するためには、通常の芝居でのそれとは異なる高い技量が要求されるわけだが、役者たちはそれに見事に応えていた。
 この舞台は、伝統演劇の主たる手法の一つである語り物形式を、上演テクストの内容に即する形で、鮮やかに使いこなして見せた。現代演劇に新たな可能性を開く優れた舞台であったというべきである。
 次に、テクスト細部の形象化を検討しよう。まず今回の舞台では、眉間尺の母の父についての語りの際に、父を視覚形象化し、その父親役の役者を黒い男役の役者と兼ねさせていた。これは、黒い男が実は眉間尺の父であるという解釈に適合する。眉間尺の母を娶り、眉間尺をもうけたことも含めて、彼自身の復讐のための謀だと解して初めて、この物語の数々の謎が明らかになるのだ。またこの演出では、眉間尺の生首を、うっすらと青く塗ったマネキンの首によって表していた。これは、眉間尺の首が青剣の寓意であること、つまり「剣を鍛える」とは、彼の成長の寓話であることを示すものである。さらに演出は、大王の鼻を赤くしていた。これは、眉間尺親子の安眠を妨げた鼠が、臣民を苦しめる暴君の分身であることを示している。さりげなくテクストの構造的理解を誘導するこれらの演出は的確である。
 また、大王の前に現れた黒い男は、ひょうきんな扮装をし、おどけた声で口上を述べる。これはテクストに直接書き込まれていないものを、適切な読みに基づいて掘り出した説得力ある演出と言える。男は大王の気を紛らせるためのエンターテイナーとして登場しなければならないわけだし、この作品の本質はカーニヴァルにあり、その上演はクライマックスに向かってグロテスクな笑いを増していくべきだからである。
 カーニヴァルにおいては、「真面目、恐怖、教条主義」を特徴とする公式文化に支配された日常的生活が、「自由、笑い、陽気な相対主義」を特徴とする民衆文化に突き動かされた非日常的混乱に取って代わられるとされる(バフチン)。黒い男の魔術により、生首が乱舞し噛み殺し合った末、暴君の「恐怖」の支配が崩壊するこの物語の世界は、まさにカーニヴァルそのものなのだ。
 最後に、テクスト外部の形象化について検討しよう。この演出は、ブレヒト的な手法を用いることにより、テクスト外の「歴史」を巧みに舞台に取り込むことに成功している。まず物語最後の人民が行列を見る場面、人民を演じる役者たちは、それまでの誰かを演じるための表情を一変させ、鋭く冷ややかな眼つきでじっと観客席(行列)を眺める。見られる者(客体)であった彼(女)らが、見る者(主体)になる瞬間である。これは、有史以来、支配の客体であった人民が政治の主体となる時代の始まりを告げるものだと解し得る。またこの演出では、最終行の「1926年10月作」まで発話の対象としているが、これは効果的にこの時代を想起させる。そしてこの演出では、語りが始まる直前、民衆の子供がこの話を幾度も聞きたがり、母親もまたそれに喜んで応えるという場面が付加されている。この数少ない創作部分は、語りの導入を正当化すると共に、人民の革命願望を表象し、革命到来を暗示する物語終末の場面と響き合うことになるのだ。
 他方でカーニヴァルは、民衆の不満を解消させることで社会秩序を安定化する、「ガス抜き」の装置でもある。そこで演出家は、革命到来を謳い上げたりはしないし、また人民を美化したりもしない。行列を見つめる場面のすぐ後の行列の混乱を示す場面では、我先に人を押しのけて前へ出ようとする人民の姿を描き、最後には悠久普遍であるかのような人民の生活を凝縮した場面を付け加えてこの劇の幕を下ろすのだ。テクストの内容にふさわしい、バランス感覚を備えた演出だというべきである。

(2008年6月14日観劇)

『アンティゴネ』(ハナン・スニル演出、ソフォクレス作)

カテゴリー: アンティゴネ

『アンティゴネ』における議論の政治
―ハナン・スニル演出 ソフォクレス『アンティゴネ』劇評

森川泰彦

 『アンティゴネ』は「対立の劇」である。この劇では、国家の敵ポリュケイネスの埋葬禁止の是非と、それを敢行した妹アンティゴネの処罰の是非をめぐって、アンティゴネが主張する神の掟とクレオンの主張する国の法がぶつかり合う。どちらが正しいかを原理的に決定できない対立が生じ、しかし決定を下さなくてはならないという極限状況が、この劇の基本構造をなしているのである。
 そしてまた、『アンティゴネ』は「議論の劇」である。登場人物は、ひたすら政治的な正当性をめぐって討議する。たとえそれが、肉親の埋葬や自己や許婚の生命という重大な私的利害に関わることであれ、ひたすら弁論によって、自己の主張の公共的正当化を図ろうとするのである。この劇の大部分は議論によって構成されているのだ。まず物語は、アンティゴネとイスメネの埋葬実行の是非をめぐる議論に始まる。これは私的な会話であるが、捕えられたアンティゴネは、公的な場でクレオンに同様の議論を挑み、クレオンもこれに応じる。続いてクレオンは、アンティゴネを弁護する息子ハイモンとの論戦に応じる。そして最後の預言者テイレシアスとの議論の後、急にクレオンは、自己の主張を全面的に撤回することになる。
 ではなぜ、登場人物たちはこれほど雄弁なのか。そしてなぜ、その発言において、公的正義を私的利害に優先させるのか。クレオンは独裁者であるのなら、なぜ相手の発言を封じ命令だけを下さないのか。同じ日に上演された魯迅の『剣を鍛える話』においては、大王の「発言はいつも短い。」これが絶対的権力者の通常の姿であろう。また、なぜクレオンは急に弱気になるのか。
 以下のように解すれば、これを合理的に説明できる。つまりは、クレオンは絶対的権力者ではないのである。「全体主義」と言われる政治体制の中にも、様々な類型がある。民主政でないとしても、首長に権力が集中しているとは限らず、複数の主体が権力を分かち持っている寡頭政も広く存在する(権威主義体制)。それではクレオンは、誰と権力を共有しているのか。それはテーバイの長老たち(コロス)である。彼は「同輩者の中の第一人者」に過ぎないのだ。だから彼は、自己の政治的決定を常に長老たちの前で正当化し、その(暗黙の)同意を得なければならない。だから挑戦者たちは、長老たちを味方につけるべく、言葉によって王に闘いを挑むのである(もっともアンティゴネの主張は、現世の公共性にとどまらない点で特殊であり、その検討は極めて重要であるが、紙幅が限られているので割愛する)。
 原理的に決定できない決定を執行するためには、裁定者の権威だけがその担保となる。戦勝の高揚の中で、既に決断に踏み切っていたクレオンは、そのように考えて後に引くことができない。彼は、自己の権威を印象付けるべく振る舞いつつも、同時に長老たちの説得に必死になる。家父長主義的な長老たちは、女に負けてよいのかと煽られてクレオンへの忠誠を維持し、民衆はアンティゴネを支持していると聞いてハイモンに傾きかけるが、踏みとどまる。彼らの中には信念を変えぬ者もいようが、大部分の者は、どちらが正当なのか迷い続けて、揺れ動く。そして程度の差はあれ、優勢な方につこうと周りをうかがう日和見主義者でもある。
 このような流動的状況を決定付けたのが、王も認める権威者テイレシアスの態度表明である。長老たちは一人ではクレオンに歯向かえず、その世俗的権威を畏れなければならないが、彼らの多数の支持がなければ、クレオンは直ちにその座を失う。そして、テイレシアスという宗教的権威の反対を目の当たりにして、まさにその危険が迫ったのだ。クレオンは己の形成不利を悟って、態度を変える。独裁者を「演じる」のをやめたのである。後は、普通の人間に戻ったそれなりに優れた男が、過酷な運命にさらされ転落していく様が描かれることになる。
 今回の上演は、クレオンの権力の限界とそれに関連した長老=コロスの重要性に着目した点で注目すべき舞台であった。クレオンは、最後を除いて堂々と自信ありげに振舞いつつも、絶えず長老たちの動向を気にし、直接の論敵たちの方ばかりでなくそちらにも語りかけ、彼らが反対意見を述べようとするなら、機先を制しようとしたのである。そしてこの舞台では、発言者が常にコロスを意識するために、体や首の向き、視線の動きが必然的に運動性に富むものになる。これは、舞台上に台を設けて、簡単な移動により身体の高低差や視線の上下を作り出すことを可能にした美術や、特にクレオンを演じた役者の高度な技量とあいまって、豊かなスペクタクルを形作ることになった。
 しかしながら、先に述べた立場からは、演出家の読解は不十分である。まず演出ノートによれば、コロスは「尊敬すべき経験豊かな大衆」で「現代における世論を体現する存在」であるという。また、アフタートークでの発言では、クレオンは短絡的思考の現役の司令官、コロスは思慮深い退役軍人であると位置付けられていた。しかし、テクストはコロスをそのように理想化していないし、かかる解釈では、ポピュリズムに対する批判を欠くことになる。さらには、そもそも民主主義国家(イスラエル)を、権威主義国家テーバイに直接重ね合わせることはできないのだ。
 そして最も重大な欠点は、そのような理解では、王と長老たちとの、また長老同士の間の、イデオロギーや利害の対立・緊張関係が基本的に存在しなくなってしまうことである。実際の舞台も当然これを反映し、対立が生じても原理的なものにはなっていなかった。このような演出では、この劇が持っている政治劇としての可能性、現代にも通じる政治の本質を描いた普遍性が、十分捉えられているとはいえない。長老たちの支持獲得をめぐる『言葉の政治』に着目するにとどまらず、彼らに出自や信条により異なる政治的主体性を与えて初めて、それが実現するのである。そうして初めて、異なる意図を持った様々な主体に働く多様な力のぶつかり合いとそのダイナミックな変化を、ギリシャ悲劇特有のコロスを活かして顕在化する演出も可能になる。そしてそのためには、せりふを意味論的に理解するだけでは不十分であり、語用論的に把握する必要があるのだ。今回の舞台は、すぐれた着想を有し、かつそれを巧みに形象化していたが、これらの点で不徹底に終わったと考える。
 なお、日本の古典演出においては、テクストにきちんと向かい合うことのない安易な改竄が横行しており(根拠があれば改作を否定はしないが)、特にギリシャ悲劇の合唱部分は、扱いが難しいためきちんと上演されることは少ない。この点この舞台では、コロスの合唱なども省略せず、かつ無理なく上演していた。そしてギリシャ悲劇は、能がそうであるように本来音楽劇でもあったのだが、この舞台では、台を太鼓代わりにした荒々しい演奏や、アンティゴネの歌など、優れた舞台効果を有する音楽に富んでいた点でも、見応え聴き応えがあった。これらも高く評価すべきである。

(2008年6月14日観劇)

2008年7月27日

『遊べ! はじめ人間』(メルラン・ニヤカム振付)

カテゴリー: 遊べ! はじめ人間

「悦びの彼方の身体」~『遊べ! はじめ人間』より
                              高原幸子

 はじめに預言があった。村の語り部によって世界で今なにが起こっているのかを告げる預言。それは言葉がそのまま「音」であることで意味を与えるものだという。
 そこからドラムのリズムが流れ始める。通常私たちがする呼吸よりも速いペースのリズムの流れ。そこに5人の身体が躍動し始める。体のなかに既にあったリズムが、アフリカの日常の中に与えられているリズムが、踊りとして現れる。
 この舞台が植民地の歴史を含む近代ヨーロッパを通じたところの「アフリカ的なるもの」の表象をしているのではなく、それを突き抜けた異種混淆の地平を見出しているとするのなら、それはこの「音」と「リズム」が主役となっているからだと言っても過言ではないだろう。「はじめ人間 ― Recreation Primitive」という原初的な人間の再創造には、性別も、社会的格差も、人種的差異も顕在化したものではなく、白塗りによって体を浄化した一種のトランス状態(忘我/陶酔)のなかでの身体の躍動が迫ってくる。
 私たちはそれぞれ個々の物語りを生み、大きな物語りに同化し、生を与えられている。しかしその物語りは個々の主体、ある集団の主体がなければ語ることができないものだ。言い換えればある役柄が明確でなければ物語は生み出されない。しかし物語りはその展開が一定の社会的承認どおりに動かなければ、ほぼ悲劇性を生み出す。
 この舞台にはこういったかたちの「悲しみ」の感情が現れない。いや、その名をつける以前の独りであることの驚嘆の声、衣装をまとった女たちが男たちに怒りをぶつける場面など、感情というものは表わされる。しかし物語りを背負った一人の人間が苦悩し、その主体の破壊に立ち会うまでの悲劇性は現れない。その代わりに、舞台前方で眠りにつくダンサーたちを後方から出てくるミュージシャンたちが色つきの棒で音を出しながら起こしたり、蝋燭や花の形をしたオブジェなどの光にダンサーたちが魅せられていくように、原初的な悦びに満ちた場面が途切れなく続いていく。
 一つ、こういった原初的な身体の悦びに対比されるものとして映像と音楽があるだろう。舞台中央に設置されたスクリーンいっぱいにダンサーたちの顔の表情、踊りながら切り離されていくユーモラスな身体、アフリカの何処からしい現実の映像といったものが映しだされる。音楽も、クラシックから現代アフリカのメランコリックな歌、民族音楽といったものまでもがダンサーやミュージシャンたちの歌声と交錯する。
 独りの人間の発する言葉は「悲しみ」のなかに置き去りにされるが、意味を作り出す「音」は、そこから遠く離れた場所へと、見て、聴き、体を動かす者たちを連れて行ってくれる。それは決して現実から切り離された「想像領域」なのではなく、世界の現実を認識する以前に保持されている身体の「想像領域」なのだ。
 振付のメルラン・ニヤカム氏はそこにダダイズムの影響を言及するが、20世紀初頭の社会秩序や戦争への抵抗は、そのまま現在の2000年代の大きな物語りを失った私たちが突きつけられている問いでもある。
 アフリカの日常のなかに与えられているリズムに呼応する身体内のリズム。それをアフリカ的な生命の躍動感などという表象をするのはできるだけ避けてみたい。常に既に自然に行為するように、ふるまうようにと馴らされている私たちの日常は、張り巡らされた社会規範のなか、実はこのようなリズムに気づかされないように生き延びさせられているのかもしれない。
 ニヤカム氏が「私たちは急ぎすぎている」。「本当の価値を失っている」。「自然を忘れないように」、という警告を発しているとすれば、それは資本や社会秩序が構成するこの世界の悲劇性に満ちた現実にしか置かれることはない私たちの身体に対してであり、ダンスが醸し出すプリミティブなものへの誘いは、決して太古の人間への素朴な回帰ではなく、今ある現実においていかに身体の「想像的領域」を開いていくのか、という問いに結実していくだろう。
 悦びに満ちた身体の躍動が、「悲しみ」を解きほぐすように、言葉を「音」として享受する、研ぎ澄まされた身体を取り戻すことが見出される。私たちは、いまだ「悦びの彼方」にある身体しか持ちえていないことを思い知らされるように。
(以上)

2008年7月1日

『エリザベス2世』(ゲルト・フォス演出・出演、トーマス・ベルンハルト作)

カテゴリー: エリザベス2世

エリザベス2世、来臨せず
                      奥原佳津夫

 裸舞台に肘掛椅子と小卓、貼りものの柱時計。車椅子に乗って登場した老紳士が、膝の上に台本を開いておもむろに語り始める̶̶「『エリザベス2世』、作・トーマス・ベルンハルト。」
 ヨーロッパ式言葉の演劇の極北に位置する作品であり、ベルンハルトのテクストと演じるゲルト・フォスの演技にすべてを負った、愚直なまでにストイックな上演であった。
 主人公のヘレンシュタイン以下、すべての台詞とト書きをフォスが語る一人芝居。はじめ、海外公演のために簡略化した暫定的なリーディング上演なのかと思ったが、やがてどうやらそうではないことに気づく。「一人芝居ヴァージョン」として成立した作品なのだ。
 ストーリーは至って単純、エリザベス女王の行幸を見物すべく数多の知人が厭世家ヘレンシュタイン家のバルコニーに詰め掛ける。その朝、彼が使用人相手に垂れ流す言辞の数々̶̶。
 「エリザベス2世」が何か展開に関係するわけではなく、烏合の衆が群がる対象、虚像という意味からだけ云えば、日本の政治家でもテレビタレントの名前でもいいわけで、人を食ったタイトルである。
(そこにはオーストリア特有の政治的背景や国情があるのかもしれないが、オーストリア演劇とドイツ演劇の区別もつかない門外漢なので目をつむる。)
 さて、この「一人芝居」という上演形式の故に、舞台を観ながら、三つの次元からこの『エリザベス2世』という作品を味わうことになった。まずは、その視角性を排した舞台から、文学としての戯曲自体を味わい(独語を解さないので、実際字幕で活字を読むことになる)、次に完全上演された場合の舞台面や登場人物たちを想像させられ、そして現前するパフォーマンスそのものを楽しんだ。
 いきおい、文学(小説)と戯曲と上演、あるいは、戯曲(劇作家によって書かれた言葉)と台詞(俳優によって発せられた言葉)のあわいについて考えさせられた。
 この作家の一人称小説がそのまま舞台上演されたとも聞くが、この戯曲にしてからが、テクストのほとんどは主人公の一方的な語りに費やされており、一人称小説として充分に楽しめるだろう。しかしこの上演が、活字を音声化した「朗読」ではなく、「一人芝居」として成立しているのは、俳優の身体とその台詞を支える作品世界の確かな構築によって、言葉が充分な空間性を獲得しているからである。
 一人の極めて自己中心的な人物の内面に焦点をしぼり、その視点から外界を認識するベルンハルトの作風と相俟って、その戯曲全体を一人で語りきることによって舞台上に作品世界を成立させるゲルト・フォスは、限りなく作者ベルンハルトに接近してゆく。
 ヘレンシュタインは絶え間なく語りつづける。それは時に暴言であり、時に脈絡を欠いた連想である。だが、その言葉の大部分が向けられた使用人のリヒャルトには決まり切った相槌しか期待できず、対話が成立することはない。さらに彼は、この腹心ともいうべきリヒャルトが自分に殺意を抱いているに違いないという猜疑に秘かに怯えている。
 事故で両脚を失い、視覚、聴覚の衰えを感じながら誰を信じることもできない老人の孤独。
 一見、リアリズム演劇を思わせる日常的な道具立てながら、その孤独な言葉の渦を聞くとき、我々が作品世界に感じるのは、例えばチェーホフの中にベケットを見る視点、あるいはベケットを通してチェーホフを見る視点に通じるものである。
 こう考えると、孤独な主人公一人にすべてを語らせる「一人芝居」という上演のヴァリエーションが的を獲たものに思われる。
 途中、柱時計のネジを捲くのと一旦椅子に掛け替えるわずかなアクションを除き、台詞を語り続けるだけの上演に、退屈さがないと云ったら嘘になるだろう。意外だったのは、フォスがヘレンシュタイン以外の脇役の台詞を、ト書きを読むのと同列に処理したことだ。
 俳優にとって何役もの人物像を演じ分けるのは魅力だろうし(小物なら迷わず腕の見せ所と心得たろう)、化けるタイプの俳優フォスには容易なことだっただろう。あえてそうしなかったところに、演出者ゲルト・フォスの理解の深さと抑制を感じる。(この他に彼の演出作品があるのか寡聞にして知らないが、上演後の質疑応答で、かつて映画監督を志したと聞き、なるほどと思った。)少なくとも自分の演技を的確に操れる演出者であることが、優れた演技者の必要条件だと思っているが、ゲルト・フォスはまさしく名優であった。
 彼の言葉の聞き役である脇役たちが、個々の俳優によって演じられた場合、どのような人物像が提示されるだろうか?主人の言葉に唯々諾々と従う女中も、全面的な肯定の裏に隠れて一切本心を覗かせないリヒャルトも、その受動性や無人格性によって、ヘレンシュタインの孤独を際立たせる存在になるのではないか?フォスはそれらの役を、あえて演じないことによって完全な空白として提示したのだ。
 思えば、他者との関係性を否定したヘレンシュタインにとって、周囲の人物たちはいないも同然であり、それは彼の感知しないところで世間を賑わすエリザベス女王の行幸とて同じこと。ベケットの「ゴドー」同様、決して登場することのないタイトルロール「エリザベス2世」は、不在の象徴であるのかもしれない。この「不在」の劇は一人芝居にふさわしい。
 ラストに用意された(人々が殺到したことによる)バルコニー崩落は、チェーホフの皮肉な掌編を思わせもする。見下ろして、「みんな死んだな」と一言、この大詰めを語るフォスの語り口は、落語のオチにも似た味わいで痛快であった。
(於.静岡芸術劇場 2008.5.31所見)