劇評講座

2014年2月22日

■準入選■【『黄金の馬車』宮城聰演出、SPAC出演】福井保久さん

■準入選■

福井保久

神への畏敬と人への賛歌が込められているのが「黄金の馬車」です。
ラスト、一座と貴族が一体となった劇中最も力強い歌と演奏は、舞台で生きることを決めたカミーラを称えると共に、神へ捧げる行為でもあります。
この演劇は、観客がSPACの黄金の馬車という演劇を見ながら、演者の村人と一緒に、セット内の『古事記』の劇中劇を観ます。劇中劇の古事記で人の営みの大きな流れを表現しながら、本筋では人々の日常を映します。誰もが持つ、仕事、生きるための恋愛、どこにでもあるそれらの常を、大きな営みの流れと対比して観られるという構造です。

食い詰めた田楽一座は京から土佐の田舎に降り立ちます。黄金の馬車とともに。
田舎連中は京から来た劇団に興味津々といった様子、そして今まで観たこともない黄金の馬車に憧れます。村人達は最初は京から来たブランド(一座)をありがたがりますが、だんだんと我儘になります。一座の劇『古事記』が解らないという不満をぶつけます。
一方一座も最初は自らの劇(信念)を貫こうとしますが、劇を重ねるごとに村人達に迎合するようになります。この背景には貴族からのカネも絡みます。本来カネは一座の仕事への報酬ですが、カネが一人歩きしてカネのための芸に変わります。村人への公演も“嫌われたくない”が動機になっていきます。
村人のわがままや、貴族の嫌らしい振舞いを、私達は俯瞰します。それは、私達の中にもある気持ちだということを実感させられます。

カミーラは、役者として確固たる意志と誇りを持ってこの地を治める領主に、本名と役名を告げます。けれど彼女も人です。カネは必要ですし必要以上に欲するし、恋もすれば喧嘩もするし、ないものねだりもします。
カミーラは古事記の相手役でもあるフェリペと相思相愛です。フェリペは潔癖で勇気もありますから、カネや地位に溺れることを嫌悪します。カミーラがそれらを求めると、フェリペは彼女の下を去ります。潔癖であるが故と嫉妬から。
カミーラは弓矢の使い手のラモンにも愛されます。彼は勇敢でこの地の英雄です。村人達はラモンを慕っています。だからラモンが愛するカミーラを受け入れます。カミーラが黄金の馬車を手に入れることも受け入れます。それが彼女の破滅につながるとしても。
そしてもう一人、富も名声も権力も持っている領主にも愛されます。領主は日和見な他の貴族と違い、自らが正々堂々と執政していることに誇りを持っています。そして領主は、それらを象徴する『黄金の馬車』をカミーラに与えます。カミーラが舞台上でも舞台下でも輝いていることへの賞賛です。それと、男の本能としてのカミーラへの力の誇示です。

カミーラは、土佐に希望を持って降り立ち、信念を貫く芸を披露していました。領主もラモンも輝くカミーラの虜になります、しかし俗受けの重力に逆らえず、迎合していきます。しかしそれでもラモンにも村人にも受け入れられ、黄金の馬車を手にできます。そして3人の男から求婚もされます。しかしそこで自らを振り返ることになります。ここから物語は急転します。一座は解散、領主は島流し、フェリペもラモンも厳罰です。

カミーラは悩みます。『舞台ではうまくいくのに、日常ではうまくいかない』ことを。そしてどっちで生きているのが本当の自分なのかを。

カミーラは自信を持っていたのですが、ないものねだりをして自信を失います。潔癖で勇気があるフェリペだけでなく、民衆の英雄ラモンや、富・名声・権力を持つ領主をも求めること、信念ではない演技をすることをしました。全ては気に入られたい迎合の行為からです。そしてその裏側には保身の気持ちがあり、挑戦への逃避です。

カミーラはいつしか神に捧げることができない演技をしていました。彼女には演劇しかないのに。カミーラは全てを舞台に捧げていたこと、自らの人生が演じ手としての中にしかないことが良いか迷ったのです。それは今の自分を信じられなくなっているから起こります。
ある年齢になると、人生が何なのかと悩むことは誰しもあることです。カミーラも自らの今までが正解だったのか悩み、舞台に捧げてきたことが自らが求める人生の障害になっていたのではないかと錯覚してしまったのです。
それは私達にも起こります。ずっと取り組んできたもの、信じてやってきたことを重く受け止めないようにすることがあります。
しかし、ここから抜け出すのは簡単です、今までの良かったことを確認することです。私の場合は仕事です。これまでもこれからも死ぬまで仕事を続ければいいのです。

この演劇でカミーラは舞台が全てで良いという選択をします。彼の地に来て公演を始めたところから、迷いに堕ち、一回りして舞台を選択することには大きな意味があります。何故なら力強い選択になるからです。

カミーラは黄金の馬車を手放すことにしました。一座や領主、フェリペ、ラモンを救う結果になりましたが、それが目的ではありません。もう一度舞台で輝くことを選択しただけです。舞台の上も下もそんなことは彼女の人生で区別を付けることではなかったことに気がついたからです。
舞台に全霊を注ぎ込むことで“神に近づける”それがこの演劇のクライマックスでした。
常に迷い悩み怠惰なのが人間で、その人間への讃歌であり、神を祀るという人の英知が表現されていました。ここを迎えた時に自然に涙が流れました。心に訴えてくる演劇の証です。

それにしても何故劇中劇が古事記なのかという疑問での観劇スタートでしたが、劇が進むごとにその訳がわかりました。
神々と人との対比、人が神を演じることでのほころびが見えるということの効果もありますが、カミーラが若い男神を演じ、求婚を迫る3人の姫をフェリペ、ラモン、領主にすり替えるところは見事です。神への畏敬が込められていることも含めて、だから古事記だったのだと納得の瞬間でした。

最後に触れたいことがあります。
カミーラとラモンとの最初のやりとりで、「牛を見る目で見ている」というカミーラの台詞、ラモンが一座の言葉を理解できないという設定、また、領主がカミーラの前で烏帽子をとることでの他の貴族の驚き、そしてこの藩が銀山で潤っていること、フェリペ・ラモン・領主が姫とすり替わる時にコメディア・デラルテのように仮面を付けていたこと(まだ他にもありそうです)、それらからジャン・ルノワールへの敬意を感じました。ここも宮城聰さんらしいところだと感銘を受けました。