劇評講座

2015年3月26日

■準入選■【『忠臣蔵』演出:宮城聰、作:平田オリザ】土戸貞子さん

カテゴリー: 2013年秋のシーズン

 一力茶屋の場面は、今回付け加えられたのだそうですが、あのシーンはなぜあるんだろう?と考えました。
 動きの少ないお芝居の中で、後半に差し掛かりともすると眠くなる人もいる(かも知れない)観客へのサービス?それとも、女優さんたちを出したかった?もしかすると、こんなに立派な衣装を持ってますっていうアピール?などと失礼なことを思いながらさらによく考えますと。「あぁ、あれは、これ現代劇って思わないでくださいね。古典ですから。」っていう意思表示だな、と思いました。
 だって、「紗幕の向こうから花魁たちが幻想のように登場し、侍たちを誘惑する。本能に身を任せたいと願う侍たちの中で大石はお軽に鏡越しで読まれた手紙を隠す。この歌舞伎の名場面を再現してみせることで、大石はやはり忠臣蔵の枠組みの中に生きる大石であることを明示する。」っていう効果があるじゃありませんか。うん、なるほど。
 口語で会話する侍たち。「武士道って言ったって、関ヶ原から百年もたってんだよ?武士道なんて誰も分からないよ・・・」と喋ってるところなんか、まさに「創業理念?そんなもの新人研修の時、社長室で聞かされたっきり・・・」とつぶやく大人、または、「民主主義?おじいちゃんは好きみたいだけど、ボクは生まれた時から今の世の中だったし・・・別に・・・」と途惑う若者、そのものじゃありませんか。ものすごく「現代劇」ですよね。
 書類仕事に埋没する日常。みんな机に向かって事務仕事してます。その仕事も完璧ルーティンワーク。ちょいちょいって書き込んで、サァーッと次の人に送る。ドンドン次に流してるから、いつまで経っても未決箱の書類が減らないの。これも「私やあなたの今」ですよね?(ちなみに、みんな前向いて座ってるから、会話の受け答えも大変、しかも「遠隔関節技」なんかもあって、役者さんたち、かなり稽古をやり込まないと難しいですよねぇ。)あぁ、忠臣蔵の枠組みを借りて「今」を描きたかったんだろうなぁ、と思って観てるわけです。
 ところが。
 ほら違うよ、これは古典だよ、と気づかせる仕組みになっているのが「一力茶屋」。アカデミー賞をとった「アーティスト」という無声映画で、主人公の夢の場面にのみ音が入っており、観客に映画の枠組みを意識させるのと同じって言ったら良いでしょうか?
 だってね。現代劇にしたいなら、口語で議論を重ねる大石たちは、「現代的な解答」を出しても良いわけでしょう?「討ち入り?それって虐殺、テロですよね?やめません?」って。
 でも大石は「みんな偶然こういう境遇に置かれて、これは自分じゃどうにもできないけど、これでやっていくしかないよね(幕府を困らせてやるぅ!って目的にも合致してるしね)・・・・じゃ、討ち入りしようか自由参加で・・・」って、みんなに言いたいだけ言わせたあげく、みんなの意見を整理して、いや整理すると見せかけて自分の意見をさりげなく通して、あたかも「ポツダム宣言受諾の会議を仕切る鈴木貫太郎」のようにまとめるのですよ。
 そうだよなぁ、「討ち入り」だよなぁ、やっぱり幕府にちょっとでも痛い眼みせてやりたいもんなぁ、うん、分かる分かる、私もそう思うよ、現代人だけど。
 現代人が古典を鑑賞する楽しみって、これですよね?
 1時間で一つの作品を創るのはなかなか難しい。状況説明に時間を取られすぎると、人物が薄っぺらくなる、説明しなければ観客は置いて行かれる。そのために既成の枠組みを利用するのはとても賢い方法である。和歌の世界の本歌取りのように、セリフの一言にも「背後に広がる世界」の重みを与えることができる。
 う~ん、良くできたお芝居だなぁ。
 おまけに言うと、音楽も「古典」でしたよね。客入れの音楽は何かガムラン音楽っぽいいかにも「現代劇やります」風なものでしたが、最後は「大河ドラマ『赤穂浪士』テーマ曲、芥川也寸志作曲」でしたからねぇ。一定の年齢以上の観客はあれを聴くだけで、長谷川一夫の顔や声が浮かんできて、愉快な気持ちになるのですよ。