劇評講座

2015年3月26日

■準入選■【『忠臣蔵』演出:宮城聰、作:平田オリザ】平井清隆さん

カテゴリー: 2013年秋のシーズン

 江戸元禄期の武士が実体としてサラリーマン化していた事実は、学問として日本史を学んだ者からすれば、自明のことである。だが、大方の人々にとっては、今舞台の描きようだけでも十分に面白味があると思う。佐藤役の奥野晃士が文机の上で弁を振るうシーンなど、高座で噺をする落語家のようにすら見える。永遠に決済されないだろう書類が飛び交う様も笑いを誘う。
 忠義の為に厳罰をも厭わず主君の仇を討った赤穂浪士、極めてストイックな武士の鑑としてのイメージを持って臨むと、まさにコペルニクス的転換程の衝撃を覚えられた方もおられるかもしれない。誇張はあるにせよ、概ねは舞台で描かれたような「武士像」は正しい。そんな「会社員」達が、討入りと言う結論に達するまでの議論の流れは見事だ。
 演出の宮城聰は、公演用の『劇場文化』で、議論を「ひそかにコントロールする何者かがいたらどうなるだろうか」と述べているが、下総源太朗演じる大石内蔵助は、武士らしくないざっくばらんな語り口で議論を誘導していった。討入りという選択肢は、藩士たちの間でも少数派の極論でしかなかった。それを、いつの間にか「総意」として取りまとめた手腕には舌を巻く。「昼行燈」の面目躍如である。観ている我々も妙に納得してしまった舞台であった。
 ところで、江戸元禄期と言う時代は、現代に近しい時代であったといえる。
 当時としては、と言う注釈つきではあるが、戦もない、飢えもない、経済的にも豊かで、文化芸術も円熟期を迎えた総じて安定した平和な時代であった。劇中で語られたように天下分け目の関ヶ原の合戦から100年以上も経ち、戦国の気風はすでにない。佐藤が刀を忘れていたという描写がそれをよく表している。冒頭で交わされた塾や道場への関心の度合いにしても、現代のカルチャーブームとなんら変わるレベルではない。
現代もまた、様々な「戦後最悪」と称される事象もあるが(災害等により直接的な被害を受けられた方はともかく)、それでも大多数は、戦火に追われる事も、飢えに怯えることもない。即座に生命の危険に曝される事はない。無論、小さいと感じる問題を疎かにしてよい訳ではないが、我々の生きている現代日本は、かくも盤石な社会であるという事だ。
 だが、一方で、この「のほほん」ともいえる時代のカラーは、実体を伴わない観念論が芽吹いてくる素地にもなる。
 一同の中で年長者と思しき田中は、籠城を主張する。そして主張の拠り所である「武士道」論が戦わされる下りがある。しかし、彼らは武士とはいえ実戦の経験はない。武士(=戦士)としての実体験に裏打ちされたものではなく、机上の理想論にすぎない。だからこそ「田中さんの言う武士道って何よ」と突っ込まれるに従って混乱をきたし、最後には田中当人をして「よくわからなくなっちゃた」という事になる。
田中とて「戦争を知らない武士」ではあるが、「戦争を知っている武士」に強いシンパシーがあったのだろう。彼の「武士道」へのこだわりは、そのシンパシーのなせる業である。だが、付け焼刃の理想論が、簡単に論破されてしまうのは前述した通りだ。この田中を、阿部一徳が見事に演じている。滲み出る様な可笑しみを持つキャラクターがすこぶる良い。
さて、実のところ元となった赤穂事件は、当時それほど世間の耳目を集めていたわけではない。「赤穂浪士」がその地位を確立したのは、事件そのものではなく、一連の『忠臣蔵』ものと言われる芝居からである。一つ目のピークを迎えたのが『仮名手本忠臣蔵』だが、事件から45年程も過ぎていたという点はとても興味深い。武士に望む「あるべき姿」、あるいは「武士たる者かくあるべし」という世間の期待が、「スター・赤穂浪士」を誕生させたと言える。宮城が言うような「ひそかにコントロールする何者か」はここにも存在している。
翻って、現代を見ると、喜劇ではすまされないキナ臭さが漂う。
戦争を知らずに生まれ育った世代、さらには、その世代から生まれた戦争を全く知らない世代が大半を占めるようになってきた。明らかに間違った道を進んでしまった戦前戦中だが、個々の事象を取り上げれば確かに良いこともあった。だが、その「良いところ」だけを全てであったかのように印象付けようとしている者はいないだろうか。現代日本は、前述の通り、失われた期間が20年も30年もあろうと揺るがない確固たる社会体制を誇っている。その中の小さな問題をことさらに強調して危機感を煽り、あらぬ方向にコントロールしようとしている者はいないだろうか。
内蔵助は、藩士と行動を共にし、切腹することで覚悟を見せた。今、空気をコントロールしようとしている者にその覚悟はあるのだろうか。砂上の楼閣で見ている夢を真実と見紛っているだけではないだろうか。
我々はそれを見極める目を持たなければならない。この戯曲を書いた平田オリザのように、柔軟で広い軽やかな視野を持って。