劇評講座

2015年3月26日

■準入選■【『真夏の夜の夢』演出:宮城聰、作:シェイクスピア】平井清隆さん

カテゴリー: 2014

 あー、面白かった。まずは率直な感想だ。
 見所は”盛り”沢山ある。”森”の木々に見立てた梯子付ポールが立ち並ぶセットは、にぎにぎしくも幻想的だ。その「知られざる森」で繰り広げられる人間や妖精達の、飛んだり跳ねたりのドタバタ。台詞の掛け合いや駄洒落も楽しい。そして演じる俳優達の身体能力も驚きだ。動き出すまでセットとしか見えなかったオーベロン。ポールの上で眠る芝居をするデミやライ。パックをはじめとする妖精達もしかりだ。鍛え抜かれた肉体が舞台を下支えている。ほかにも新聞紙を使った衣装や演奏など挙げればキリがない。
 それでも特筆したい事がある。「舞台設定」と「悪魔」、そして「夢」である。
 まずは、設定だ。大胆にも、日本の割烹料亭に置換えられている。尤も、状況を置換えるのはよくある事だ。珍しくはない。だが、この舞台に限っては、大きな効用がある。
 台詞の掛け合いが楽しいと述べたが、母国語が日本語である私達は、実は、外国語喜劇の本当の面白さを理解できない。トッピングや隠し味として散りばめられた、言葉の遊びやリズム、掛け合いを”感じる”事が出来ないからだ。駄洒落を説明されても、納得はしても面白くはない。だが、大胆ではあるが本質を変えない非常に巧みな脚色で、問題は解決された。台詞がリズムよく繋がってゆく様は、聞いていて心地よい。クスリとさせられたり、爆笑させられたりと忙しい。
 巧みな改変と言えば、悪戯な妖精パックもだ。無邪気なパックに邪気があったなら…。それがパックの役割を二分する元戯曲にない役である悪魔メフィスト・フェレスだ。創作の世界では「悪の道化師」とのキャラクターを与えられることの多いメフィストだが、パックと見事な表裏をなすように仕立てられている。演出の宮城聰は、『忠臣蔵』の際、「議論を”ひそかにコントロールする何者か”がいたらどうなるだろうか」と述べていた。今作は、その答えの一つとも成り得る。無邪気なパックが間に立てばシェイクスピアの描いた『真夏の世の夢』となる。しかし、悪意を抱くメフィストが暗躍するとなると、簡単に「めでたしめでたし」とは終わらなくなる。
 このメフィストを演じているのが渡辺敬彦だが、見事に物語に溶け込んでいる。原作にない役は、取って付けたものになりがちで、結局「なくてもいいもの」になってしまう事さえある。かと言って、溶け込みすぎてもいけない。わざわざ違う材料を入れる意味がなくなってしまう。ドタバタ劇の裏に、時に表に、彼が存在し物語を進めていく。絶妙なさじ加減で演じられており、目が離せない。
 悪魔の策動で、「4人の恋人達があるべきカップルとなってお終い」、とはいかなくなる。妖精達の大切な「逆隠れ蓑」は灰燼と化し、住処の森さえ危うく焼失しかけてしまう。メフィストは、人が口に出せずに呑み込んだ言葉を操り、破滅に導こうとする。しかし、彼の切り札である「目に見えない契約」を打ち破ったのがそぼろだ。自らの呑み込んだ言葉が悪魔を引き寄せる餌になってしまったそぼろが、最後に物語を紡いだ。その物語によって契約は破棄となり、メフィストの流した涙で火事は消し止められ、森は守られた。ここでようやく物語は終わりを迎える。森での出来事は、そぼろの夢だったというオチだ。
 一見、いわゆる「夢オチ」である。本家本元からして夢オチなのだが、そう単純なものでもなさそうだ。
この舞台で「夢」は極めて重要な鍵だ。出入りの業者が余興で演じようとした劇は『不思議の国のアリス』であり、ピーターパンすら登場させている。共に文字通りの「夢」物語だ。舞台で繰り広げられているのも、真夏の夜の「夢」である。しかも、登場人物が客席を使うところを見ると、観客もまた、「夢の中」の人物だという喩だろう。「真夏の夜の夢」は、単にそぼろの見ていた夢と言うだけではなく、そぼろが見ていた夢を私達が夢で見ているのではないかと思わせられる。
 メフィストは、最後の最後まで何かを書いていた。劇中で彼がそぼろにプロットを渡し事件を起こさせていた事を勘案すると、彼が書いていたのは、「続き」はなかろうかという考えに行きつく。メフィストが書いていたのは、「森の出来事はそぼろの夢でした」というオチだけではなく、私達の事を書いていたのではあるまいか。そぼろも私達も、夢から覚めたのではなく、まだ夢の中なのではないだろうか。永遠に終わることのない長い長い夢の…。
 どこまでが現実で、どこからが夢か。紀元前の荘子の「胡蝶の夢」以来、人は自問してきた。平家物語は「春の夜の夢のごとし」と説き、鴨長明も「よどみに浮ぶうたかた」と記した。人の一生は、メフィストが原作の夢でしかないのかもしれない。
 しかし、観劇しながら大いに笑った私は確かに存在した。我”笑う”故に我あり。舞台を観て夢に囚われた私は、舞台のおかげで夢から覚めることが出来た。夢か現か幻か。答えは五里”夢”中だ。