劇評講座

2015年6月2日

■準入選■【ファウスト 第一部】渡邊敏さん

 かの有名なゲーテの「ファウスト」。私は読んだことがなく、筋を何となく知っている程度だ。名詩集か何かでレモンやすみれの花を歌った詩を読んだくらいで、ゲーテには縁がなかったのだ。ゲーテは死ぬとき、「もっと光を!」と言ったとか。
 ダンテの「神曲」を読もうとして、まだ地獄めぐりのところで挫折したことがあって、「神曲」も「ファウスト」も人間の身でありながら案内役の手引きでこの世やあの世を巡るところや、「永遠の女性」なる存在(ダンテのベアトリーチェ、ファウストのグレートへン)に導かれるところが似ている。キリスト教の世界観や、聖母マリアのような女性像が共通しているのだろう。そこで一番の共通点は、人間が知性の力ですべてを見尽くそう、知り尽くそうとし、限りなく神に近づこうとする欲望だ。これが西洋人の飽くなき理想像かしら、と思う。

 本場ドイツのニコラス・シュテーマン氏による舞台は、ほとんどセットらしきものがなく、主役の服はユニクロかH&Mといった感じ。場面ごとに様々な工夫があり、重厚な作品なのに驚いたり、笑ったりしながら見た。
 神様から天使、村人まで多くの登場人物を、主役の三人が一人二役、三役でこなしていて、字幕を読む方は忙しいが、テンポが速く、舞台に緊張感がある。
 映写機で壁面に画像が映し出され、雰囲気を盛り上げたり、補足説明となる。悪魔の化身のプードル犬、魔法陣、ワルプルギスの夜に空を飛ぶファウストと悪魔メフィストフェレス…
 ピアノやヴァイオリンの生演奏。ソプラノ歌手や、ボーイソプラノの男の子が登場して歌う歌曲が、オリジナルなのか既存の宗教曲なのか、とてもきれいだ。
 グレートヘンへの贈り物の首飾りは金色の電飾が天井から何本もスルスルと降りてきて美しさと怖さがある。彼女がそれを体に巻き付ける仕草の中に、後々の不幸が予感される。そして、罪におちたグレートヘンは無言のダンスで苦しみを表現していた。
 肝心のファウストは、天才的な知性も教養も感じられず、秀でたところなどないごく普通の青年のようで、変身した後も特に美貌にもならないし、誇りや絶望、愛など、心の内を感じることが出来ず、シュテーマン氏が描くファウストがどういう人物なのかよくわからなかった。きわだった個性のない、ごく普通の人間としてのファウスト?私たちと同じただの人間、現代人の一人、ということだろうか。誘惑に弱く、悪魔に誘われると大切な恋人まで置き去りにして破滅させてしまう無責任な人間?
 ファウストとメフィストフェレスは、共犯者、同性愛の恋人のように描かれる。メフィストはグレートヘンを手に入れる手伝いはするものの、三角関係の気配が漂う。男二人が抱き合いながら、有名な「時よとまれ!汝は美しい」と叫ぶのは、共犯者の合言葉のように聞こえる。
 「第一部」は、グレートヘンの死という悲劇で終わる。新しい人生に夢中になるあまり完全にエゴイズムに陥っていたファウストが、彼女の死によって初めて悲しみを知り、立ち止まる。これは愚か者の物語で、ファウストは欲望に踊らされ、大切なものを失う人間(私たち)の鏡なのだろう。
 現代では悪魔も魂も輪郭がぼやけ、日常の中に溶け込んで区別がつかない。記者会見で頭を下げる企業の人たちも、会社の利益を守ることが「善」と信じて一生懸命やった結果が法律的に「悪」だったので、謝りつつも納得できぬような、何かに憑かれたような顔をしている。
 何でもありの時代、ファウストが魂をさし出したように、魂や精神的なものがぞんざいに扱われる時代。こんな現代に理不尽さや言い知れぬ不快を感じつつ、どう考えていいかわかない人も多いのでは。大人にも真剣に善や悪、「いかに生きるか」考え、学ぶ場がほしいと切に思う。(NHK「白熱教室」は、現代の善悪について考える場としてすごく面白かった。)
 つづく「第二部」ではファウストはグレートヘンの霊の導きで救われるようなのだが、堕ちた人間にどんな結末が用意されているのか、「一部」のみの上演で残念だった。

 SPACでの公演初日には、「せかい演劇祭2014」の開幕式として「ファウスト」の天使が神を讃える言葉を会場の全員で朗誦するという試みがあったようだ。
 天使に祝福された開幕式なんて、すてきだ。今、チラシを見て朗読してみると、少しばかり宇宙の神秘を感じ、神をほめたたえる天使になった気がする。会場で多くの人が朗誦したら、どんなだったのだろう。こういうところも劇場の楽しさと思う。