劇評講座

2016年2月10日

■準入選■【グスコーブドリの伝記】賢治、静岡の地で確かに脈打つ 徒川ニナさん

カテゴリー: 2015

 一月二十四日に行われた『グスコーブドリの伝記』の公演は、私にとって生まれて初めての観劇体験となった。
 お察しの通り、私は『演劇』というものを学術的に解説する為の知識をもたない。しかしあらん限りの感性と拙い思考でもって、この素晴らしい出会いで得た感想を述べたいと思う。
 お恥ずかしながら原作未読の状態でグランシップを訪れた私は、『はじめての演劇鑑賞講座』に参加して『グスコーブドリの伝記』に関する幾つかの予備知識を得た。
 それは、この作品が賢治にとって死の前年に描かれた、自伝的要素を多分に含んだものだということ。そして賢治には、少なからぬ『農民への憧れ』があったこと。最後に賢治の作品に共通してみられる『消滅願望』がこの作品からも垣間見えるということだ。
 舞台が開演してすぐ、私はひどく『宮沢賢治らしい』と感じる思考に出会った。幼いグスコーブドリの口にした「麦や肉ではなく、もっと透明なものでお腹がいっぱいになる場所があるはずなんだ」というような内容の言葉だ。後程原著を確認したが、恐らく脚本の段階で書き加えられたものだと思う。
 オリザでもなく、肉でもなく、例えるなら何がしかの芸術や美のようなもので腹が満たされる世界を、ありし日の賢治自身が信じてやまなかったのではないかと感じさせられた。しかし成長したグスコーブドリは、自分自身で「オリザや肉が無いとお腹が膨れない」というような言葉を口にする。その矛盾は、賢治が生涯抱え続けていたものかもしれない。
 そして赤ひげの元でオリザ作りに精を出すグスコーブドリが口にした、「美しい言葉で頭がいっぱいになる時に、孤独を感じる」という思いは、そのまま賢治自身の孤独と繋がっているのだろう。
 劇中、グスコーブドリ以外の役柄は、全て人形によって表現されている。俳優が、自分と同じ顔をした人形を黒子のように操っているのだ。グスコーブドリにとって、そして賢治にとって、自分を取り巻く人間達はどこか遠く、己とは違う存在であったのではないか。そう思わされた。
 劇中の至るところで『宮沢賢治』の思考が息づいているのを感じた私は、そこまで彼の生涯と理念に思いを馳せ、向き合い続けた製作スタッフの皆様に敬意を表さずにはいられない。並々ならぬ誠意と情熱の賜物であると思う。

 もう一つ印象的だった表現がある。
 事前にこの作品の売りだと知らされていた『オノマトペ』は元より、作中で用いられた音楽や、台詞一つ一つの響き方が、何というかもう素晴らしいのである。
 演劇を見たことがなかった私にとって、語尾を繰り返したり、抑揚のつけ方や間を変えたりする手法はとても新鮮だった。
 朗々としたそれらは『音』として楽器の音色と調和し、みるみる間に膨れ上がると、一つの大きな奔流となって観客の元に押し寄せる。不慣れな私は乗り物酔いのような感覚に陥ることさえあった。それはひとえに、舞台から溢れ出した『音』が並外れた力と熱を孕んでいたからだろう。

 開演から絶えず物語を紡ぎ続けていた音楽が、一度だけ途切れる箇所がある。グスコーブドリがカルボナード火山を噴火させ、正にその生涯を閉じようとするクライマックスのシーンだ。
 ブドリを演じる役者自身が、無音の舞台の上で、静かに独特の形をした舞台装置を畳んでいく。全ての折り目が山折りの屏風のようなそれは、内側にいくにしたがって辺が短くなるように設計されているそうだ。黙りこくったブドリが、厳かにそれを、一番小さな形になるように動かしていく。それは正に、彼の世界が音も無く閉じてゆき、終焉を迎える瞬間であった。
 ハリウッド映画的なスペクタクルも、涙腺を刺激するバックミュージックも無い、ひどく密やかな彼の最期。この物語の主人公、グスコーブドリは誰に看取られることもなく、その一生を終えた。
 『本当の仕事』を成し遂げる為に命を差し出すグスコーブドリの後ろ姿に私は、賢治がいつも描きたがっていた『みんなのほんとうのさいわい』が、叶えられる瞬間を確かに見たのだ。ある意味独善的な自己犠牲。それは宮沢賢治作品に共通する、彼が生涯抱え続けたテーマでもある。

 たくさんのひとの手によって作り上げられた、ありとあらゆる『要素』が織りなす一つの物語。初めてその美しさに触れた私は適切な言葉を見つけることができず、ただただ手を打ちながら「素晴らしい」と繰り返すばかりだ。
 しかし『演劇』という芸術が、識者の為だけに作られたものとは思わない。だからこそ私は声を大にして、今の自分にできるだけの誠意と情熱と共に、この作品に関わられた全てのアーティストに敬意と感謝の念を表したい。
 そして、まだ演劇というものに触れたことの無い方々にとって、この文章が何がしかのきっかけになることを、静岡の片隅から切に願っている。