劇評講座

2016年2月10日

■準入選■【グスコーブドリの伝記】ブドリの手帖 鈴木麻里さん

カテゴリー: 2015

やがて遺言のように残されるグスコーブドリの手帖が緑いろの表紙だなんて、原作や脚本にはどこにも書かれていなかった。舞台美術も衣装も白一色、人形やブドリの衣装もぐっとトーンを押さえるなか、手帖だけはペンキを塗ったように緑いろなのである。

わたしも真っ先にジョバンニの切符を思い出した。お父さんからの葉書をポケットに入れていたつもりが切符だったというのだから、ちょうど大きさもぴったりである。カンパネルラの切符は鼠いろだった。ブドリはこれから亡くなるというのに、手帖はどうして緑いろなのだ。

​ブドリは仕方なく力一杯にそれを青空へ投げたと思ひましたら俄かにお日さまがまっ黒に見えて逆​まに下へ落ちました。そしていつか、その男に受けとめられていたのでした。

妹と両親を喪って気がつくと森は蚕をそだてる工場であった。てぐす飼いの男が言うとおり、高くまではしごを登って変なまりのようなものを投げたとき、そうして落ちたのである。

​お前もいくじのないやつだ。なんというふにゃふにゃだ。おれが受け止めてやらなかったらお前は​今ごろ頭がはじけていたろう。

森、野原、街へと歩いて行った少年の足取りを「人類が狩猟採集時代から農耕文化へ移行し、更に近代工業の時代を迎えた過程」と読み解いた上で、別役実はこの落下を彼が受けた罰だと指摘する。
森に手を加えた「ほんのちょっと人為的な工夫」がやがて近代には「自然破壊に至るであろう過程」への予感。ヒトが生まれ落ちて這いずり回るところから歩き話し学校へ通いケータイを持ち背広を着て働くようになる過程に人類史の縮図を見るならば、この自然破壊とは個体の破壊をも示唆し得る。

劇中においてその落下は、ほとんど演じられなかった。儀式は別の形でもう終わっていたのである。先の場面で妹をさらっていく男が、原作にないせりふを言い残す。彼は自らの誘拐を、飢饉を起こした日照りのせいにしたつもりである。あゝなんにもあてにならない。わたしたちはママンの死後に殺人を犯したわけを太陽がまぶしかったからだと告白した男をここで思い出す。

頼むから泣かないでくれ。オレのせいじゃない、お日様のせいだよ。

残されたブドリはぼうぜんと立ち尽くす。奥の丸い太陽がまぶしく輝いて溶暗したあと視力が戻ると、あたりが群青色に沈むなか舞台が転換されている。家を象る正四面体のフレームがひしゃげていく。

そのときのブドリは先ほどとまるで様子が違う。人形振りなんてものじゃない、鉱物の呼吸でそこに立っている。ここには頭がはじけないように受け止めてくれる太っちょのおやじもいない。気絶したら倒れてしまう。立ったまま気絶するには気絶するほどのショックに目を開いたまま耐えるしか術がない。

賢治の作品から二次創作、そう書いただけで諺のように了解される困難がある。
世界全体の幸福を願う言葉を吐き出す瞬間、彼は世界でただ一人、わたしを口説き落とす。発し手はまず孤独な者としてそこに在り、受け手は物静かな告白に触れる。言葉つきの烈しさがあるときも、二人っきりで向かい合うおずおずとした奥ゆかしさがたたえられている。
読者それぞれが世界唯一絶対の理解者を無意識に自負し、言葉にできない結びつきを信じ込んでいる。

わたしの賢治はそんなものじゃない。反射的に拒絶されることを前提に扱わざるを得ないこの作家を前に選ばれた人形劇の手法は、登場人物を生身の俳優の体で演じないことによって観客にその違和感を極力感じさせずスムーズに物語へ身を委ねてもらえるよう意図されたジェントルな作戦、だったのだろうか。

二人っきりの孤独に浸る読者を邪魔しないのではない。舞台からもうひとつ二人っきりの孤独を思いきりぶつけることで違和感を持つ隙を与えないまま読者を観客に変えているのである。
宮城聰によるわたしの賢治ではない。
観客が手にするもうひとつの二人っきりの孤独とは、ぼくの美加理さんである。

ぽってりした人形たちに囲まれて、ただ一人ブドリだけが生身の美加理さんによって演じられる。
人形おおぜいに俳優一人で演じる場合には唯一の人間が、俳優おおぜいに一体だけ人形が登場する場合には唯一の人形が、観客の心により近い存在として舞台と客席とを仲立ちする。
自然、演技は狂言回しとしての愛嬌を要する。観客はブドリをわが手に取ったように感ずる。

ただひとつの場面ではそれが叶わなかったはずである。立ったまま気絶するブドリには指一本触れなかったはずである。かわいくない、表情もよく見えない、なんだか死んでいるみたい。

ジョバンニは還ってきたが、それは緑いろの切符がこの世止まりだったことを意味しない。ブドリはこのとき、手にしたのではないだろうか。ただし今度は手帖に貼付けて、二度と切符として使えないようにしてしまった。もう銀河鉄道に便乗することはできない。切符なしで歩く物語を受け取ってしまったのである。

参考文献
宮沢賢治『宮澤賢治全集〈8〉』(1986年1月、筑摩書房)
カミュ(窪田啓)『異邦人』(1963年7月、新潮社)
別役実『イーハトーボゆき軽便鉄道』(2003年8月、白水社)
北村想『青いインクとトランクと』(2003年5月、プロジェクト・ナビ)
井上ひさし『宮澤賢治に聞く』(1995年9月、ネスコ)
吉本隆明『宮澤賢治』(1996年6月、筑摩書房)
奥野健男『太宰治論』(1984年6月、新潮社)