劇評講座

2016年2月10日

■準入選■【グスコーブドリの伝記】平井清隆さん

カテゴリー: 2015

 照明の落とされた仄暗い舞台。主人公のグスコーブドリが無言で装置を動かしている。しんと静まりかえった劇場に響くのは、装置の軋む音と車輪が動く音だけだ。固唾を飲む事すらできない程の静寂と緊迫。やがて作業が終わり装置が作動する。冷害を防ぐための人為的な火山噴火が成功する。グスコーブドリの生命と引き換えに。

 種明かしのような物言いをすれば、キャスターが取付けられた額縁のような白い木枠(本当の材質は分らないが)を10組ほど連結した舞台セットを、片付けていただけとも言える。ただそれだけの事を、緊張感のある芝居として結晶させた演出家と役者の卓越した力量は感嘆せざるを得ない。冒頭に時間経過を表すために用いられた短い暗転を繰返す演出も面白かった。映像作品で言う「カット割り」のような効果もある。随所にこうした工夫が見られる。役者の台詞も平常とは異なるイントネーションを用いたり、特定の言葉を強調したりと面白い。一昔前の刑事ドラマなどによく出ていた「新聞の見出しを切り抜いて作った脅迫状」を耳で聞いているような可笑しみがある。

 本舞台にはもう一つ大きな特徴があるのだが、その前に、作品の内容についても触れておきたい。

 この『グスコーブドリの伝記』は宮沢賢治の自伝的側面が色濃く反映されている作品と言われる。農民になりたいと言うグスコーブドリ(以下舞台に倣ってブドリと略す)の想いは賢治の願いであり、肥料入りの雨を降らせるなどの研究・事業を進めたブドリの姿は賢治の姿でもあった。一農民でありたいとの願いと、農業指導者としての卓越した手腕とそれに期待される現実。どちらが正しいという事はない。一見すると舞台の視点が定まっていないように感じる事もあるが、定まっていないのは舞台ではない。ブドリ=賢治の心情が揺れているのだから仕方がない。他にも、原作に反映されている科学技術に対する賢治の「正(せい)」の指向や自己犠牲についての価値判断など書き出せばきりがない。これらは専門家の研究にお任せをしたいと思う。

 さて、本舞台の大きな特徴は、やはり、主人公ブドリを除く全ての登場人物が人形であるという点であろう。顔写真がプリントされた顔、精巧とは対極にある人形の造形と操演。モブシーンに至ってはただの人型の切り抜きである。舞台セットも前述した通りの代物で、せいぜいが場面に応じて馬や木や花の切り抜きが配される程度のものだ。リアリズムとは程遠い。

 舞台を観終えた後、先ず思ったのは、違う役者でこの芝居を観てみたいという事であった。人形が主で、役者は白い黒子風の衣装を纏い帽子を被り顔はベールで覆われ人形の陰に隠れているにも関わらず、だ。誰が演じようと、声以外は同じではないかとの謗りを受けそうだが、思ってしまったものは仕方がない。

 以下はその自問自答である。

 演劇を成立させている要素を考えてみた。例えばジェスチャーは重要だ。これがなくてはただの朗読になってしまう。だがジェスチャーゲームを見れば分る通り、万全な伝達手段ではない事も確かだ。また、表情は重要な表現手段とされるが、人形に表情はない。人形浄瑠璃でも、ガブなどの仕掛けはあっても、通常の「芝居」では表情は変わらない。だが、豊かな感情表現がなされている。その感情はどこからきているのだろうか。演劇表現を形作る様々な要素を、削ぎ落としていくと何が残るのだろう。

 大いなる手がかり持つ芸能が日本にはある。能である。新作能を別にすれば、何百年と言う単位で、演目も同じ、型やカマエも変わりはない。「能面のよう」と言えば「無表情」の比喩ですらある。だが、演者が変われば作品の印象も変わる。この違いはどこから来るのだろうか。台本・謡・装束・面すべてが同じ中にあって唯一変わるのが演者である。
本舞台も同じようなことが言えまいか。表情を変えられない人形。あえて巧みにはしない操演。同じ様な白装束の演者。外形的には没個性の極みだ。だからこそ剥き出しの演者の個性がそこに表れる。芝居における感情表現の源は役者の存在そのものにあると言える。違う役者で見たいとの感想はここから来ていたのだ。

 そして今一つ、演じられた表現を感情に替える重要な要素がある。それは我々観客である。

 本舞台は観客側にも特に多くの想像力を要求している。換言すれば、想像の仕方によって、脳内で描き出される舞台はそれぞれに異なるという事だ。私が観た本舞台と、他者の観た本舞台とでは全く違う風景や情景が映っていたのかもしれない。観客の脳内で、十人十色の舞台が繰り広げられていたであろう事が容易に想像できる。そして、「演出家はこの舞台を通じて何を訴えたいか」などと考える必要はない。むしろ邪魔物である。観客は、あるがままに、物語の流れに身を任せ感じたままに心を委ねれば良い。動いたその心のまま。それでいいのだ。舞台の意味は、観客の心の内にあるのだから。

 最後にブドリの妹ネリが手帳を開く。そこには「の伝記」と大書されていた。本舞台は、『グスコーブドリの伝記』であると同時に、観劇した『それぞれの観客の伝記』でもあった。「私だけの物語」がそこで繰り広げられていたとも言える。舞台は一期一会。それをより強く感じた舞台であった。