2016年2月13日

■入選■【觀〜すべてのものに捧げるおどり〜】「觀」という体験 井出聖喜さん

体験
 私は、私の、恐らく本質的に「批評」ではないこの文章を、まことに素朴な個人的感慨から語り始めることとしたい。半世紀近い私の舞台芸術作品鑑賞歴を振り返ってみれば、涙を抑えがたい「感動的な」作品はいくつもあったし、「堪能」した作品は数知れない。「衝撃的な」出会いをもたらした作品もいくつかある。
 しかし、今回のこの「觀」体験は、そういうものとは何か違うという気がしてならない。
 奇異な表現かもしれないが、私にはこれが通常の舞台芸術と同様の幾つものテクニカルな面での要求と調整を経て観客の前に提示された「作品」であるとは首肯し難いという思いがある。私たちはこの「觀」を目の当たりにすることで、この世界の本質に遭遇することになったのだという思い、そしてそれは最初からそこにあったのであり、ただ私が気付いていなかっただけなんだという思いに私は駆られている。
 だから私はこの「作品」を「鑑賞」したのではなく、「体験」したのだ、夢のように果敢ない、しかし、確かな「体験」をしたのだ、という気がするのだ。

潮流
 この作品世界に立ち現れるすべての「場」は寄せては返す波の重なり合い、或いは潮の満ち干なのだと思わせるものがある。
 たとえば、太鼓がゆっくりと重くドン、ドッドッドッと四拍子を刻むのに合わせて闇の中から巫女のような者たちが姿を現し、地を這うように、静かに、ゆっくりと近づいてくる。そして、そのことに感じ入っていると、彼女らはいつのまにか舞台両袖に消えている。
 そしてまた、たとえば下手から頭にとてつもなく長い鳥の羽根のようなものを頂いた男が竹竿とも槍とも思われるものを手にゆっくりと中央に進んで行く。一方、上手からは白塗り、乳房も露わな女が歩み入る。二人は近づき顔と顔とを接し、肉と肉とが相寄る。槍の先に男の手と女の手が伸び、五指が痙攣したかのように震える。男女のまぐわいのようにも、あるいは鳥たちのそれのようにも見える。しかし、それも収まり、死んだようにうずくまる二体はやがてしずかに両袖に去っていく。
 更にまた、褐色の半裸身をさらす男たちが、それまでの静謐な世界を断ち切るかのように激しく踊り、叫ぶ。舞台前面両袖に位置する男女の叩く激しい太鼓の響きがそれに応える。彼らは官能的とでも言いたくなるような昂揚感を一時(いっとき)もたらすが、それも波が引くように消えていく。
 波が引いては打ち返すように、一つの「場」が引くと次の「場」が現れる。そこに「終わり」はないかのようだ。飽くなき生の営み……。幾度とないカーテンコールが終わり、観客が席を立ち始めた後も、読経の声に忍び入る上手男性奏者の打つ太鼓のズーンという響きは止まない。
 もちろんしばらくもすれば、この「作品」は終わり、奏者も舞台袖に消え、私たち観客は、と言えばそれぞれの日常に戻ることになる。しかし、「作品」は消えてもこの「作品」が提示した世界は消えない。たとえ私たちの視界から消えても、それは一時月が雲に隠れたようなもので再び我々の前に現れる(それにしても、その雲の何と蠱惑的で厚いことだろう)、そんなことを感じさせる。

永遠
 私たちは時々、世界は永遠だろうか、それとも一瞬だろうか、と考えることがあるだろう。この作品に身を委ねながら、ふとこれは夜の永遠と昼の一瞬との間に架けられた「夢の浮き橋」かもしれないと私は思った。静かに、ただ静かに、ゆっくりと、ただゆっくりと「永遠」に向かってにじり寄っていく、そんな世界があるのだと思った。

言葉
 演者への拍手をしながら、私は「言葉に言い表し得ない」深い思いに囚われていた。しかし、その直後、言葉にしてみたいという思いに駆られた。何か「資料」が欲しいと思った。公演記録でも批評集でも写真資料でも、いや映像資料があればなおいい、と。舞台関連商品コーナーを覗いたが、何もなかった。しかし、それでよかった。「自分の体験」を語るのに「資料」はいらなかった。
 静岡芸術劇場を出た私はどうだったか。次に鑑賞する予定だった作品(それはそれで楽しみにしていたのだが)の上演会場へ行くのを止めてそのまま家に帰ったのだった。こんな稀有な体験をした後では別の作品世界に没入する気になどなれない、今の自分の心は何か深く大きなものに満たされていて、別の何かを受け容れることができないという思いが、そこにあった。それとしても、時間は一瞬のうちに過ぎ去る。どんどん逃げて行く。「体験の一回性」とは回収不能の謂(いい)だ。そして言葉は体験を捕捉し得ない。たとえ言葉によって「体験」を永久凍結し得たとしても、そのようなものはただの木乃伊だ。私は私の「体験」のせめてもの木乃伊を残したかったのだろう。

泡沫(うたかた)
 演者たちが厳しい身体訓練を自らに日々課しているだろうことは容易に想像し得るが、或る統一された精神世界、「境地」とでも言うべきものを舞台上に創出するのに、個々の演者は己の精神をどのように統御するのだろう、どんな「修養」を重ねるのだろう。彼らにとて拭い難いであろうやくざな日常をこの「世界」に持ち込まないようにするために、つまり「世界」の本源に向き合うために、流れに浮かぶ泡沫をどのように掻き分け、廃棄していくのだろう。鑑賞者たる私たちは勿論のこと、演者たる彼らにも本源は見えにくく、昼の光の中で泡沫は心奪われる輝きを見せるものであろうから。