2016年2月13日

■講評■ SPAC文芸部 大澤真幸

 今回から、コンクールの形式をとったためか、投稿された劇評の本数が多く、そして質もこれまでになく高かった。SPAC文芸部員として、このことをうれしく思う。観劇し、劇評を投稿してくださった皆さんに、お礼申しあげたい。
 投稿された劇評の傾向としては、次の二点の特徴が挙げられる。
 第一に、それぞれの作品を媒介にして、「演劇」という芸術の形式を反省的に問うものが多かったこと。2015年の演劇祭では、「メフィストと呼ばれた男」、「ふたりの女」、「聖★腹話術学園」等、演劇についての演劇、他の演劇作品を引用し変形することで構成された作品や、あるいは「盲点たち」、「例えば朝9時には誰がルーム51の角をまがってくるかを知っていたとする」「観」のように、演劇の上演形式を異化する作品が、いくつも上演されたからであろう。私は、こうした劇評に、演劇についての平均的なリテラシーがかなり高くなっているのを感じた。
 第二に、批評を通じて現代社会への批判的な教訓を引き出す劇評がいくつもあったこと。こうした傾向がきわめてはっきり出ていたのは、「メフィストと呼ばれた男」を論じた劇評である。この作品自体が、ファシズムの中での芸術家のあり方を問うものだったのだから、当然のことであろう。他に、「天使バビロンに来たる」や「ベイルートでゴドーを待ちながら」「聖★腹話術学園」のような、現実の社会を寓話的に風刺した作品を論じた劇評でも、適確に作品に含まれている社会批判的なポイントが引き出されていた。
 以上の二つの特徴は、ともに、作品自体の問いに正確に応ずるものであり、私としては、たいへん好ましいものを感じた。が、同時に、それぞれの傾向に関連して、なお考察を深化させる余地があったのではないか、とも考えている。
 第一に、なぜ他ならぬ演劇なのか、ということについてさらに考える必要があるのではないか。演劇は、非常に古い芸術の形式である。その演劇を、あえて現代社会で上演することにどのような意義があるのか。そこまで突き詰めて問う批評は少なかった。
 第二に、観劇の後に、われわれがはじめから抱いている紋切型の(現代社会への)批判を、再確認するだけではつまらない、ということを言っておきたい。作品に感動し、衝撃を受けているとき、われわれは、「はじめから知っていること」以上の何かを感じている。しかし、その「何か」を言葉にすることは難しい。言葉に置き換えたとたんに、「当たり前のこと」に矮小化されてしまう。しかし、その「何か」を過不足なく取り出すことこそ、まさに批評の使命である。