劇評講座

2017年7月12日

秋→春のシーズン2015-2016■入選■【舞台は夢】平井清隆さん

カテゴリー: 2015

 本作は複雑な多重構造をなしている。
 筋からしてそうだ。武石守正演じる家出息子クランドールを探す父親プリダマンに扮する大高浩一が、魔術師アルカンドルの元を訪れ息子の波乱万丈の人生をまるで観客のように観る「現在」。劇中劇的な息子の波乱万丈、紆余曲折、絶体絶命の危機を迎えながらも切り抜ける「過去の現実」。息子が恋の野心のため非業の死を遂げたと思われたラストの場面は「過去の現実」の続きではなく、役者に職替えをした彼らが演じていた芝居でした、と言うまさかの劇中劇中劇オチの 「別の地点の現在」もある。

 登場人物それぞれにも多面性がある。歴戦の勇士を気取るが実は只のヘタレである「ほら吹き」隊長のマタドール。こういう役柄は阿部一徳の十八番だ。そのヘタレの忠実かつ有能な部下のフリをするドンファン・クランドール。有力な貴族の娘でありながら身分違いの恋に囚われる本多麻紀演ずるイザベル。クランドールを慕いながらも、叶わぬ恋に却って憎しみを募らせる侍女リーザ。そして魔術師アルカンドルもフランス人ブノワ・レジョ演じる本体と小長谷勝彦扮する分身(使い魔?)とに分けられている。
 さらに舞台での立ち位置も多重だ。クランドールらの芝居は、原則として舞台上に必要に応じて配されたパレットの上で演じられる。出番のない役者はパレットを取り囲み観客と化す。父親や魔術師がさらに遠目から、終いには客席から「鑑賞」する事になる。
 なんとも一筋縄でいかないが、この舞台を語る上で欠くことが出来ない特殊な演出が輪も拍車もかけている。
 映像との融合である。
 セット代わりに風景を映す程度のものではない。舞台上にビデオカメラが持ち込まれ、リアルタイムで舞台奥一面に広がる巨大なスクリーンに役者の顔が映し出されるのだ。初めは1台のカメラが映す息子の振舞いを見守る父親のアップだけだった。この映像はペースとしてほぼ全編にわたって使われるのだが、いつしか魔術師もこれに加わる。これが要所要所で独白する役者のアップに切り替わる。バストアップではない。正に「顔」のアップが巨大なスクリーン一杯に投射されるのだ。計り知れないインパクト、極めて斬新で特徴的な演出だ。
 だが、単に奇をてらったものではない。筆者には舞台の映像を撮影する機会がままあるのだが、対象が素人演劇とはいえ、それでも映像と生の舞台の違いをつくづくと感じる。ビデオカメラを固定して舞台全体を映す「直訳」をしても舞台は伝えられない。寄ったり引いたり、時にはカット割りを用いるなど「意訳」が必須となる。似て非なる表現方法を持つもの、それが舞台と映像作品である。本作は舞台にはない映像効果の妙を舞台に取り入れようと試みている。スクリーンに大写しになるのは役者の顔だけではない。登場人物の内面がそこに映し出されているのだ。マイクを使い声を張らずにセリフを語る事で、よりリアルな「心の声」となって響く。
 とりわけ寺内亜矢子演じるリーズが印象的だ。可愛らしい恋する乙女から情念渦巻く嫉妬深き女と変貌する様は、ぞっとする恐ろしさと美しさがある。また、不実な夫を夜陰に待ち伏せするイザベルとリーズの場面など4本ほどの木の枝で「映像」的には十二分に夜の茂みに見せている一方、舞台上では遠目で見るロケのごとくチープだ。しかし、複数のカメラが使われる事と相俟って、結末の伏線とも思える見せ方は興味深い。その後に演じられるクランドールとロジーヌ役の桜内結うとのラブシーンも、舐め回すようなカメラワークで濃密さを増し、つい引き込まれてしまう威力がある。それだけにクランドールが「刺殺」される「瞬間」への急展開を際立たせる事になり、プリダマンのみならず我々観客もまんまと騙されることになる。
 現実の舞台と映像が交わることで、冒頭に述べた多重性はいや増す。客席にいる父親と舞台奥に大写しになる父親の間に挟まれて芝居は進む。魔術によって見せられている芝居であるという意識も強調され、観客自身も感情移入の依代を定めきれずに立ち位置を失う。味わったことのない感覚だ。観客は、映像と舞台、夢(芝居)と現実との境界線が次第にあやふやになっていく。片や、映像の表現方法がどこかドキュメンタリー的な風味もあり、現実味を増す効果すらある。感覚的な混乱の極み、摩訶不思議な舞台であった。
 さりながら、唐突感や置いてけぼり感はない。例えば、初めの方でクランドール達が身に着けていると紹介された服は、なるほど劇中劇中劇の衣装である。
全体として「してやられた」と思わせてくれる舞台であった。
 「人生は哀れな役者」とは、原作者コルネイユの同時代人シェイクスピアの書いた台詞である。本作も「人生は芝居」「人間は役者」と見做しているが極めて肯定的である。「舞台は楽しい夢=人生は楽しい夢」と。
 「夢のよう」という慣用表現にはいくつかの意味がある。現実感が希薄で幻のようなという意味。物事や現象などが現実を超越している様を表す意味。そして、思いがけず良いことが起こるという意味。また「希望」や「未来」と言い換えることが出来るだろう。
 その全ての「夢」がこの舞台にはある。