2017年7月12日

秋→春のシーズン2015-2016■入選■【黒蜥蜴】伊豆の元康さん

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 黒蜥蜴の主題は、死とは何か。他でもない三島由紀夫の作品だけにこの問いは重い。私はいつもより少し早めに劇場に入り、気持ちを整えて観劇に臨んだ。死を考えることは、自らが何者かを知ることであり、よりよく生きること。自らの仕事にいつ終止符を打ち、どのように人生を終えるか。こうした問いは書籍や映画で何度も突きつけられてはきたが、生身の人間の演劇だと、より鋭利に突き刺さってくる。誰の人生にも、それなりに山もあり谷もある。多くの人が惜しまれて職場を去ることを望むが、現実の生活を考えるとままならない。惜しまれて人生を終えることを夢見る人は多いが、自ら死を選ぶことは許されず、逆に長く生きるリスクを考えねばならない時代になった。そもそも、己は何者で、己にしかできないことなどあるのか。私も、いつの間にか人生の折り返しの年齢を迎え、終わりから今を考えるようになった。答えは自分で出すしかないのだ。

 第一幕の終わり、変装した黒蜥蜴は「誰も私とわかりはしない。そもそも本当の私なんか、いないんだから」とひとり呟き、逃亡する。もしかしたら、個人には確立された「私」などというものは存在せず、周辺の人間との関係性の中で「私」たりえるのかもしれない。しかし、人間関係の中で確立された「私」に安住の地があるわけではない。人間同士の関係が深まれば深まるほど、個人はその関係性ゆえに、常に揺れ動く存在となる。第二幕、第三幕と明智に恋してからの黒蜥蜴の気持ちは、激しく揺れ動く。新しい「私」を見つけたところで、人生をリセットすることなどできないのだ。東京タワーでの宝石の引き渡し、自家用船での明智殺し(実際は身代わりの松吉)など、黒蜥蜴の言動には、大盗賊には似つかわしくない詰めの甘さが残る。動揺の度合いが強くなる度に、黒蜥蜴は舞台の上で怪しい輝きを放ち、最後まで舞台を支配し続けた。
 最終場面、黒蜥蜴は死の予感を口にする。変装を解き、黒蜥蜴一味を追い詰めた明智小五郎は、「観念したまえ」と手を差し出すが、黒蜥蜴はその手に触れることなく、懐にしのばせていた毒を煽り、ふらつきながら死に場所に自力でたどり着き息絶える。エジプトの星を手に入れたことで、宝石のコレクションは完成。美貌の絶頂にある彼女にとって、老いゆくという選択肢は初めからなかったのだろう。準備はできていたのだ。
 探偵としての戦いには勝ったが、黒蜥蜴に去られた明智の敗北感はいかばかりか。自らも黒蜥蜴に恋心を抱いていた明智が最後に発しようとした(おそらく)「愛している」という言葉すら、死にいく黒蜥蜴に遮られてしまう。宝石商で財をなした岩瀬庄兵衛は俗物の代表。明智は、俗物を助け、愛する人を失うこととなる。感謝の言葉を述べる岩瀬に、「偽物の宝石を売ればいい」と毒づき、「本物の宝石は死んでしまった」という明智の台詞に心情は凝縮されていた。男は女に、論理は直感に勝てないのは、世の宿命なのか。

 長い台詞が続く3時間の舞台にあって、隙のない演技を続けた黒蜥蜴と明智小五郎を演じた二人は見事であった。黒蜥蜴の隠れ家と明智の事務所に分割された舞台では、二人の台詞が心地よくシンクロし、直接対決の場面では息詰まるやり取りが繰り広げられた。観客も集中と緊張を求められる舞台にあって、黒蜥蜴の手下のひなと岩瀬庄兵衛の手振り身振りのオーバーアクションが一服の清涼剤となった。若い時に黒蜥蜴に助けられ、絶対服従を続ける雨宮の愛も印象的だった。サディスティックな扱いを受けながら黒蜥蜴を愛し続け、彼女に嫉妬を抱かせるために早苗との愛を演じて殺される決断をする。ところが、解放された瞬間に雨宮は変節する。究極の閉鎖的な世界にあっては、ここまで屈折した愛情もあり得るのか。

 昭和と共に生きた三島由紀夫。江戸川乱歩の原作では通天閣に設定されていた宝石の受け渡し場所は、三島によって東京タワーに設定を変えられている。当時のお上りさんの様子が微笑ましい。活気に満ちた岩瀬家の台所、積み上げられたコンビーフに笑顔を見せる用心棒たち。宝石商である岩瀬庄兵衛の存在は、家政婦に扮したひなの「お金の話さえしなければいい人なんだけど」というひと言に凝縮されていた。親戚にいたら、結婚式の祝儀をはずんでくれそう。一人は欲しいが、二人はいらない貴重なキャラクター。黒蜥蜴一派は日本赤軍を思い起こさせたが、時にユーモラスなやり取りがあり、陰惨な感じは受けなかった。昭和29年に人間賛歌「潮騒」を書いた三島が、昭和37年には黒蜥蜴を書き始め、私が生まれる前年の昭和45年に割腹自殺。若さや美しさへ異常なまでに執着し、最期は自ら死を選んだ黒蜥蜴の姿は、どうしても三島にだぶって見える。様々な問題を抱えながらも、社会全体が上り坂にあったあの時代は、三島の死で終わったのかも知れない。