劇評講座

2017年7月12日

秋→春のシーズン2015-2016■選評■ SPAC文芸部 大岡淳

カテゴリー: 2015

 今回は応募数も多く、力の入った内容の投稿が多かったです。これは一つには、我々が提供した演目の多くが、「何も考えずに楽しめる」というよりは、むしろ「感覚や思考を刺激される」タイプの演劇だったからでしょうし、また同時に、このような挑戦的な演目に対して、「受けて立とう」という気持ちになって下さったお客様が多数おられたからでしょう。そのようなお客様の存在に我々がどれほど励まされるかは言葉には尽くせませんし、また、そのようなお客様に支えていただいていることを誇らしく思います。これからも、皆さんの期待に応えうる、質の高い活動を継続していきたいと肝に銘じた次第です。改めて御礼申し上げます。御観劇・御投稿ありがとうございました。

 さて、改めて今回の投稿劇評を総覧してみますと、いずれも舞台から大きなインパクトを受け取ったことがわかりますし、心に響いた体験を言語化しようという意欲にも溢れているのですが、その割には、突出した出来栄えの劇評には出会わなかったという印象を受けました。その理由として、以下2点を指摘しておきたいと思います。

第一に、今回に限ったことではありませんが、(A)戯曲のあらすじの分析や、(B)演出の意図の分析に多くの分量を割いてしまい、それだけで息切れしてしまっているという印象を受ける劇評が散見されました。概して、『薔薇の花束の秘密』、『黒蜥蜴』については(A)、『舞台は夢』、『室内』、『ロミオとジュリエット』については(B)の傾向が強く出ていると感じます。
 しかしやはり、劇作家や演出家の構想をなぞっただけでは、劇評としては不十分だと思います。作品を作者の意図から切り離して、自由で多様な解釈の場にさらすことこそ批評の特権性ではないでしょうか。そう考えるとやはり、創り手も自覚できていないような発見を含む劇評こそ、魅力的です。おそらく、皆さんそのような発見をきっとしているはずなのですが、それを明確に言語化するのは難しい作業ですね。ですが、ぜひ挑戦してみて下さい。
 その点では、坂本正彦さんの『室内』評にある、観客席に身を置く我々こそが「亡霊」と化しているという指摘は、舞台と客席がまるでぼんやりとしたヴェールで隔てられているかのようなあの作品の質感を、見事に言い当てていると感じました。また、坂本正彦さんの『黒蜥蜴』評にある、舞台のビジュアルが「黒=夜」で統一されていたのはこの芝居全篇が「黒蜥蜴の喪の営み」だったからではないかという解釈も、この舞台のメランコリックな美学をうまく言い当てていると感じましたが、如何でしょう。

 第二に、これは内容ではなく形式的なことですが、やけに段落数が多い投稿が散見されることが気になりました。断片的な印象を断片的なままに、短い段落を羅列しながら言語化していく、という感じですね。これはおそらく、多くの方がパソコンで執筆しておられ、文体が自然と「ブログ的」になってしまっているせいではないかと思われます。しかし批評は、ポエティックな作品から受け取った印象を、あえてロジカルな文章に変換して読者に伝達する点に特徴があります。作品から受け取った胸の内のモヤモヤは、放っておけば、いつしか忘却され消失してしまう。だから私たちはそのモヤモヤを記述しておこうとする。そこで、そのモヤモヤをモヤモヤのままに書き綴るのは、創作の仕事です。断片を羅列するようなスタイルは、その点で、批評としての徹底性が乏しいように感じられます。批評は、モヤモヤをクリアにしてしまうものであり、それはある意味で暴力的な行為ですが、特権的な暴力を行使してこそ伝達できることがあると信じるからこそ、批評は書かれうるのではないでしょうか。
 従いまして、今回入選できた方も入選できなかった方も、批評の先達の文章を改めてお読みいただいて、その文体上の特徴を把握し、参照していただきたいと感じております。

 最後に、私自身が演出した『王国、空を飛ぶ!』劇評の投稿が1本しかなかったのは正直寂しかったですが、これは、私の創作家としての技量が、まだまだお客様の「批評してみたい」という欲望をかきたてる域に達していないからだと反省いたしました。もっと皆さんを批評へと誘惑できるように、精進したいと思います。