劇評講座

2017年9月19日

ふじのくに⇔せかい演劇祭2016■優秀賞■【少女と悪魔と風車小屋】田鍬麗香さん

 小さな手をひいて、劇場へ向かう。森の中にある空の見える劇場。夕刻、暗くなる少し前に華麗な音楽と共にその物語がはじまった。繰り返されるメロディ、打ち鳴らされる太鼓のリズムは独特の高揚感を煽り、観る者をまるで飲み込むように物語の世界にさらっていく。「舞台小屋」一度も訪れたことのないその場所に抱くイメージと重なる。そこはとても親密で小さな空間、人々は息をのんで舞台を見つめている。まるで「ここ」のように。舞台の上にはまた最低限とも思える舞台が設えられている。4人乗れば一杯の板張りの小さな台、後ろには素っ気なく下げられた四角い布、布を囲うように電球が並べられ素朴な華やかさを沿えている。役者たちはその舞台に収まらず飛び降りたり飛び乗ったりする。舞台上の舞台、自ずと視線はそこに結ばれる。リズミカルに間断なく飛び出す異国の言葉、前ぶれなくその言葉たちは音楽に乗り歌になる。4人の役者たちはそれぞれに幾つかの役柄を掛け持ち、楽器を鳴らす。くるくると表情を変え躍動する役者たちと共に物語もダイナミックに進んでいく。
 物語はある少女が奪われた両手を取り戻すまでの過程を描いている。
 父親が悪魔とかわした契約のために両腕を失った少女、勇敢にも彼女は旅に出る。そして王様と出会い結婚、王妃となる。王から銀の手を与えられ、幸せが訪れたのもつかの間、王は戦争に出かける。王妃は王の子を出産するも悪魔の陰謀から逃れるため森に身を隠す。劇中には「悪魔と天使」「戦争と結婚」「森と庭」「恐れと勇気」など幾つもの対比が散りばめられ、観る者に絶えず疑問を投げかける。そして少女の勇敢な姿は常に不穏な空気を持つこの物語に明るさ、希望を与え、導いていく。ラスト、森で王は王妃と再会を果たす。彼女には失ったはずの両手が取り戻されている。奇想天外な物語の中でも特に不思議な展開だった。
 物語の中で繰り返し登場するこの「両手」とは何だろう。私はそれを「自己」と置き換えてみる。少女は父親に両手を切り取られることで両親に与えられ育まれたこれまでの「自己」との決別をし、果敢に運命に対峙することによって、劇中「生えてきた」と表現された新たな両手、本当の「自己」を獲得したのではないだろうか。だから、この2つの両手は同じであるようでいて決して同じでない。「これからはずっと傍にいる」と懺悔する父を振り切り旅に出る必要があったのは、与えられた「生」ではなく自身の「生」を得るため。王によって与えられた銀の両手も美しく輝きはするも所詮は「偽物」、不足であったのだ。 
 この物語はまるで生きる姿勢への啓示だ。どうやら私たちは当事者としてこの物語を観る必要がある。両手を奪われるのは少女だけではない。たとえ気づかなくとも私たちの両手は皆一度奪われる。そして取り戻そうとしなければ永遠にそれらを失ったままだ。
 しかし、現実は残酷だ。そう易々と本当の「両手」を与えてはくれない。物語では幾度も悪魔が登場し少女の幸福を奪いその道のりを阻む。顔さえはっきり見えない天使に引き換え、悪魔は表情豊かに歌い踊り我々を魅了する。悪とはなんと甘美なものだろう。堂々たるその姿がどこか子気味良いのは普段は隠して口にはしない私の中に棲みついた「悪意」を言い当てられたように感じるからだ。劇中では役柄として切り離される悪魔は、現実世界では我々の内面に潜んでいるのかもしれない。内側に悪魔を抱えながら私たちは生きる。また、顔を上げれあば日々目を覆いたくなるような災難や悲劇が後を絶たない。生きていることを残酷に思うことは多い。
 庭師が王妃のために呼んだ役者たちが残す印象的な言葉を残す場面、骸骨の姿と共に彼らの言葉が鮮烈に脳裏に焼き付いた。彼らは言う。「芸術とは喜びを伴う死」。残酷な日々を我々がやり過ごす術、一つの救いを、物語はここに提示している。それにしても「生きる」ことを獲得する上で困難を乗り越えるのが「喜びを伴う死」であるというのはいかにも皮肉だ。しかし一見相反する事柄が実はぴったりと背中合わせになっていることはよくあること。「死」を生きながら我々は生き長らえる。
 「全ての奇跡に驚き続けよう」幾多の困難を乗り越えて、本物の両手を得た者にこそこの言葉が良く似合う。新たな両手を得た主人公、彼女の躍動する身体はきらきらと輝いて見えた。
 暗い森から始まる物語は、始終その森のイメージが付きまとっている。森は残酷な試練を与え、同時に喜びを与える。森は混沌としてそこにある。頭上にはいつの間にか暗くなった空が広がり、物語の深遠な森と繋がっていく。隣に座って舞台を見つめる我が子は悪魔の姿を観る度、恐怖に身をすくめしがみついてくる。言葉を理解しなくとも娘は物語を4歳の小さな身体で感じている。この劇が持つ不穏な魅力、陰湿な美しさ、輝くような怖さ。まだ「言葉」にならない「言葉」以前の何かが、きっとその小さな胸の内に波のように広がっていたはずだ。そしていつか彼女はこの体験を自身の言葉に置き換えていく。
 私はしっかりと彼女の身体を抱いてぴったり寄り添い「対」となって舞台を見つめた。
 娘の手を引いてここまで来たようにみえて、どうやら私がこの「劇」という未知の世界に連れてきてもらったようだ。