劇評講座

2017年9月19日

ふじのくに⇔せかい演劇祭2016■入選■【火傷するほど独り】西史夏さん

 舞台上にはベッドが一台。
 その後ろには窓。
 裸の男が、ロベール・ルパージュに関する博士論文を仕上げようとしている。

 この戯曲の冒頭をト書きにするとしたら、こんな風になるだろうか。
 いたってシンプルな、一人芝居の舞台である。
 本作の作・演出・出演までこなすワジディ・ムアワッドは、カナダ・ケベック州出身の演劇人である。日本では昨年、『炎 アンサンディ』が文学座の上村聡史により上演され、広く知られるところとなった。私もこの上演を観て、興味を持ったひとりである。上村の演出では、オリジナルでは複数で演じたという主人公の女性を、麻美れいが少女期から壮年期まで一人で演じ切った。

 ケベック州はフランス語圏であり、移民の国カナダにあって、ひときわ複雑なモザイク模様を生み出している地域である。約100か国から移民を受け入れていることから、人と人とのコミュニケーションが容易でないことは想像に難くない。そのため、ケベックの演劇では、言葉に頼らないポストドラマ的な表現が多様に育まれてきたという。
 ドラマ性の強い上村版『炎 アンサンディ』を観ていた私にとって、プレトークで知ったムアワッドのこの演劇背景は、とても意外なものだった。豊潤な詩的言語を紡ぐ劇作家、という印象が強かったからである。
 そして始まった冒頭の舞台は、やはりポストドラマとは程遠いような、いかにも簡素な一人芝居のしつらえだったので狐に鼻をつままれたような気がした。
 主人公の名前はハルワン。
 今は一人暮らしだが、姉と父がいる。
 父は、レバノンからの移民である。
 息子は、父がレバノンでの楽しかった暮らしを捨て、子どもたちのために自分の人生を犠牲にしてカナダに移り住んだことを、重荷に感じている。
 ―ハルワン、レバノンでは1日20人もの客が来て、その都度コーヒーを飲んでいた。1日20杯ものコーヒーだ。それでも、俺の胃袋は平気だった。
 ―俺は、子どもたちのために、自分の人生を捨てた。
 家族団欒の時間。アイスホッケーの試合のTV鑑賞。コマーシャルの間に断片的に語られる、父の本音。
 戦争経験をしていないハルワンの人生は、二世の物語である。
 日本ならばどうだろう。さしずめ、済州島4・3事件で逃れてきた、あるいは強制連行で渡日した在日コリアン二世、三世の物語とは言えまいか。このようなストーリーは勿論世界中に存在し、二世として描くムアワッドの演劇はそれだけでも秀でた普遍性を伴う。私が『火傷しても独り』に強く惹かれたのは、殊にその在り方である。

 前半、シンプルな一人芝居だと思っていた舞台は、途中劇的に変化する。
 意識不明になった父の覚醒のため、親しく声をかけていたハルワンは、ルパージュの取材として訪れたロシアのホテルの一室で、外から語りかけてくる姉の声を聞き、意識不明になったのは実は自分だったということに気づく。ここから、ハルワンの部屋は自らの手により暴力的に破壊され、静かな現実世界から荒々しい精神世界へと変貌する。赤や黄色、様々な色のペンキを自分に塗りたくり、かりそめの肉体を切り裂き、鮮血のように飛沫をあげさせる。部屋のなかをのたうちまわり、ありとあらゆる色で埋め尽くす。その表現は、1950年代から活動をはじめた関西の前衛芸術集団GUTAI(具体美術協会)のパフォーマンスアートを私に思い出させた。「精神が自由であることを具体的に提示」することがGUTAIの理念であったから、ムアワッドのパフォーマンスをGUTAIに重ねることは、あながち間違ってもいまい。ハルワンの自由な精神は、限界まで、独りどこまでも自らを傷つける方向へ向かい続ける。
しかし、そこへ一条の救いの光が現れる。レンブラント作、「放蕩息子の帰還」である。
 この芝居は全体像として、パズルのピースのように、いくつかのエピソード、映像、パフォーマンスの断片を、繋ぎ重ねることで成り立っている。その主題の一つが、この宗教画である。イエス・キリストが語った例え話で、父親が不遜の息子を許す物語だ。
 荒れ狂う部屋の中で、ハルワンはレンブラントの絵画の中にもぐりこみ、許しを与える父の体内に回帰する。その父の姿には、自らの筆で<halwan>と刻まれる。そして、意識不明の自分に語りかける優しい父の声―ハルワンの持つ忌まわしい記憶とは異なる、自らの人生を肯定する声を聞くのである。
 父は自分であり、自分もまた父である。
 それが、<わたくしとは何者か>と問い続けた、ハルワンの2時間の答えだったのだとすれば、父が自らを肯定することで、ハルワンの存在もまた救われたということになる。なんという逆説的なオイディプスコンプレックスだろう。
 この希望を、私はどうしてもポストドラマだとは捕えられない。<疑う心>ではなく、<信じる心>を強く訴えるムアワッドの演劇は、残酷な世界の中で、レンブラントの絵画の如く救いの光を放つ。そして、父とは異なる宗教さえ利用し、二世である自らの命を生かしてゆく表現は、まさに同時代の産物である。
 私が強く惹かれた本作の普遍性―父と息子の対立と和解、二世としてのわたくし。それらは世界中のあらゆる民族、国家の人々の共感を今後も得てゆくことだろう。しかし、ムアワッドが<わたくし>であるために、ハルワンが<わたくし>であるためには、作者自らの肉体を上演の度に摩耗させ、限界に近づけることでしか表現できないと感じてしまう。そしてそれは、演劇でしか成しうることができないのだろう。
 なぜなら、ハルワンが幼いころ、レバノンの大地に寝転がって父から星の数え方を教わったように、無数の星をどのように数えるかは、人によって方法が違うのだから。