2017年10月13日

秋→春のシーズン2016■入選■【東海道四谷怪談】丞卿司郎さん

Filed under: 2016

なぜかダークヒーローに共感する瞬間

確かに主役である伊右衛門は文句の言いようのない極悪人だ。
しかし舞台を観終えて、なぜか不思議と憎めない一面がある。
その理由は何だろうと考えていた。

『東海道四谷怪談』は皿を数えるお岩の科白で知られる怪談芝居『番町皿屋敷』を下敷きに描かれている。
四谷怪談とまったく無関係な赤穂浪士の討ち入りを絡め、忠臣蔵の外伝という形を取っているのは、この怪談の原型である『播州皿屋敷実録』の舞台となった播州にかけたものだと思われる。

江戸時代当時、表向き、芝居や読み物で武家物はご法度とされていた。
町人が武家について言及することは禁じられていたからだ。

よって、歌舞伎や文楽の歴史物は、敢えて時代を置き換えて描かれていた。
『仮名手本忠臣蔵』は時代設定を室町に置き換え、高師直(舞台では高野師直)の謀により謀反の疑いをかけられ自害した塩冶高貞の仇討物語としている。

元々忠臣蔵は、サイドストーリーで構成されている。
松の廊下やクライマックスの討ち入りのシーンが注目されがちだ。
しかし、ストーリーのメインは、四十七士、また討ち入りに参加できなかった赤穂浪士ひとりひとりの物語だ。
主のお家断絶。そして故郷である赤穂を離れ、慣れない江戸で町人としての生活が始まる。
貧しさで困窮する生活。または仕官を勧められ亡き主君と家族の間での葛藤の日々。あるいは家族を失う者・・・

こうした中、苦渋の思いで討ち入りを断念した浪士もいる。
一般に後に「不義士」等と呼ばれ、後ろ指を指され続けた浪士たちにも家や家族の事情があった。
討ち入りに参加できなかった浪士たちの、それぞれのドラマも描かれる。

討ち入りという歴史の事実というより、討ち入りに至るまでの経緯。
そこに進む人々、その陰で巻き揉まれる人々、そして翻弄される人々を、市井の生活の中、描いたものが忠臣蔵だ。

さて、『東海道四谷怪談』では、「不義士」のひとりである民谷伊右衛門が主役。
事情により参加できなかった多くの「不義士」と違い、伊右衛門は明らかに極悪人である。
また、主家の仇である高野家家臣との縁談で、ある意味「鞍替え」にも乗っており、忠臣ですらない。

元々主家である塩冶家の金品を盗んだことを、妻の父である塩谷家浪人の四谷左門に咎められ妻との仲を引き裂かれる。
なじられたことを発端に、同じ目的を持った「義士」である義父左門を斬殺する。
そればかりか、仇である高野家家臣、伊藤家との縁談に心が動き、妻のお岩に不貞の罪をなすりつけ、追い出そうとし、死なせてしまう。
その亡骸を不貞の罪に仕立て、無実の奉公人と共に戸板に括り付け、川に流す。
本来、主君の仇討をすべき浪士が、逆にお岩に復讐されるという皮肉な結末が待っている。

町人にとって、異文化の住人である武家の生活や考え方は、想像もつかない未知のものだ。
武家物とは、町人が理解不能な武家の人々を、親しみを持って見つめた作品とも言える。
多くの歌舞伎や文楽の歴史物は、武家の人々がその身分を隠して、一般の町人として過ごす過程が描かれる。
住む世界の違った武家の人々が、町人として同じ長屋に住み、最後にはまた武士へと戻り、本懐を遂げる。
忠臣蔵では、最後に討ち入りという形で本懐を遂げる。

当時の市井の人々には、武家の心境など、到底理解できないものだっただろう。
仇討により主君の本懐を遂げるという目的は単純明快だが、同時にどうしても共感できない考えも多かったはず。
そのためか舞台中に登場する武士は、町人の立場からは不可解な行動を取る。

病という重圧に加え、盗みの疑いをかけられたことから自害しようとする小塩田叉之丞。
また、盗みの容疑をなじるように、仇討をあきらめろと叉之丞に引導を渡す赤垣伝蔵。
彼ら武士の行動は不可解で理不尽に描かれる。
叉之丞は、名薬であるソウキセイを渡そうとする小平の亡霊を斬りつけようとすらする。
重い病を治すという「実」より、武士の威信といった「名」に拘っている。

一方で武士には戻らなかった伊右衛門の心境には、決して共鳴はできないものの、ある意味共感にも似た分かりやすさがある。
弱い人間だったら、流されるだろうな、といったような。
また舞台中では、武士役より町人役の方が、情感豊かに生き生きと描かれている印象がある。
特に伊右衛門やその母、お熊の悪っぷりは、爽快感にも似た躍動感がある。

最終幕のこれまで登場した人々の心の声と伊右衛門の葛藤から、お岩の復讐シーンへと向かうクライマックスシーンの流れ。
出逢った人々の言葉のこだまの中、良心の呵責にさいなまれる伊右衛門。
ここで初めて人間らしい感情が戻った印象があり、なぜか心地良ささえ感じられる。

討ち入りやお岩の復讐よりも、極悪人に最後に垣間見えた良心が、一見凄惨なこの物語の「救い」だったのではないか。(了)