2017年10月13日

秋→春のシーズン2016■入選■【真夏の夜の夢】五感さん

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 五感に訴えかけてくる演劇、というものをはじめてみた。
 演奏、役者のからだの動き、声、表情、舞台装置のはたらきはもちろんリアルだが、SPACの真夏の夜の夢からは、そこにないはずのにおい、温度までをもリアルに感じる。
 そのとき舞台で展開されている草や土や木の少し湿ったようなにおい、雨のにおい。登場人物の呼気や照明の温度。今このとき生きているものの気配が、むき出しになって吹きつけてくる、そんな感触がある。そして、それらはきれいに、舞台に溶け込んでいた。
 私は演劇の基本的な知識もなく、SPACの活動の形態もほとんど知らない。シェイクスピアの原作も読んだことがない。今回の演劇は言葉もテ ーマのひとつとしている、と直前のプレトークで知ったきりだ。ほぼ、まっさらな状態で観劇した。
 その上で書く。舞台上で交わされる会話は、単なる台詞のかけ合いではなかった。言葉そのものへの愛着、尊敬、畏怖などをありありと含んでいた。言葉は音であり、人間特有の道具でもある、と思う。だからこそ時に厄介なものでもあるが、それも含めて愛おしいよね、面白いよね、と観客に語りかけてくるようなあたたかさを、全体を通してずっと感じていた。言葉への愛着がなければ、言葉遊びも、おもしろいかけ合いも生まれない。特に、メフィストというキャラクターは、その象徴にみえる。
 メフィストは人間ではない。人間ではないキャラクターに“言葉”を与え、感情を与える。それは、人間のこころを与えるということだ。おちゃらけながら、まさに悪魔の所業をしでかして、けれど最後には、人間のつくり出す言葉、物語に、自分のこころを揺すぶられ、涙をこぼす。メフィストは人間ではないのに、ほかのどの登場人物よりも生々しく人間らしさを見せてくれた。観劇後、原作にはいないキャラクターだとやはりプレトークで語られていたことを思い出し、信じられなかった。ため息が出てしまった。
 劇中の台詞で使われていた、憎しみ、愛、のような感情や、設定としてあった妖精という“目に見えないはずのもの”に名前をつけるのも、人間だ。言葉がなければ、きのせい、も起きない。真夏の夜の夢、と題した物語をつくることもできない。それを思い出させてもらった(ほとんど暴力的に思い出させられるような場面も、何度かあった)。
 ひとかけらの言葉までが、舞台の上で生き生きと息をしている。舞台の上のすべてが、観客に“伝える”ために動いている。その面から見れば、奇想天外な演奏に衣装、舞台の魅せ方や色彩、役者の所作ひとつとっても、言葉と言えるのではないか。いろんなかたちの言葉が寄り集まって、真夏の夜の夢という物語を成し、演劇を成す。たとえプレトークを聞かなかったとしても、この感触はあっただろうし、拭えなかったはずだ。
 五感に訴えかけてくる演劇、と最初に書いた。だが、それを超越して、言葉への概念をはじめに、そもそも自分に人としての感覚、こころが備わっているのだというところから、教えてもらったように思う。人間として帰る場所に帰 ったような。その感覚は、とても郷愁に近い、ということも。
 ほかにも驚いたことがある。
 観劇中、中心となっているキャラクターから目を離し、舞台の隅まで視線をはしらせてみた。そうすると、ライトの当たっていない位置にいるキャラクター、奥にいる奏者まで、なにかしらの動きをしているじゃないか。笑っていたり、指をかすかに動かしていたり。唐突に、客席も舞台の一部に変えてみたり。
 立体感がある。舞台は一枚の絵じゃないんだ。わかってしまうと、飽きることがなかった。どこを見ても、表現に隙がない。しばしば、勝手に視線が中心人物から逸れてしまったくらいだ。影になっている部分まで余さずみたくて。なんなら、裏方まで覗いてみたかった。
 そこまで感じてしまうのは、この演劇に携わるひとりひとりが、根本に楽しさを感じているからでは、と考える。同時に、全力で観客を楽しませに来ている。
 当たり前のことと思うが、当たり前のことにしたくない。自分たちの演劇を追求し、自分たちの表現に没頭することのほうが、たやすいはずだからだ。
 だが実際、観客の私が楽しいと思い、SPAC側も楽しんでいることを想像できている。この真夏の夜の夢という舞台に懸けている、ここにも人間の熱意、温度を感じた。それが舞台上で、ちゃんと作用している。たしかに伝わってきている。情熱と言えばいいのか、技術と言えばいいのか、どちらとも言えるのか、上手く言葉にできないそれに、拍手をするしかなかった。
 五感に訴えかけてくる。人間らしい。幻想的というより、生々 しい。そう感じたのも、きっとSPACが観客の生の感覚をおろそかにしていないからこそ、なのではないか。だから音が、色彩が、においが、温度が、言葉が、こんなにも押し寄せてくる。振り返ってみて、そう思う。
 唯一、もどかしいのは、モールス信号を解せなかったことだ。モールス信号というかたちで、そこでもだれかの想いが発信されていたのなら、やはり余さず受け取りたかった。観客が解せなければ、言葉は言葉としての役目を果たせない。単なる音として流れてしまう。想いは伝わらなければ、言葉になりきれない。それだけが、もったいなく、もどかしい。
 ここまで個人的に感じたことばかりを書いたが、総じて、SPACの真夏の夜の夢はどんな作品か?
 まだこの作品を知らない人に訊かれたら 、自分にこころがあることを思い出させてくれる演劇だ、と私は言う。そして、この作品の主役は、言葉なんだよ、と。