2017年12月26日

ふじのくに⇔せかい演劇祭2017■入選■【アンティゴネ~時を超える送り火~】ニシモトマキさん

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水の意味するものは何か

 「アンティゴネ」には、個人的に特別の思い入れがある。というのも、はるか昔の学生時代、東京は下北沢あたりの、客席に三十人も入れば満杯になるような小さな小さな劇場で、アンティゴネの妹イスメネを演じたことがあったからである。
 当時はアングラ演劇華やかなりし頃で、流行のまくしたてるような台詞回しとスピーディーな動きで構成された、およそギリシャ悲劇とは似ても似つかぬ奇妙奇天烈な代物だったが、そこは素人芝居の自由さ、結構真面目に且つ楽しく演っていたのを懐かしく思い出す。
 そんなわけで、SPACが「アンティゴネ」を上演すると聞き、これはぜひ観たいものだと心が躍った。しかも野外劇だという。ポスターを見ると、サブタイトルに「時を超える送り火」とある。すぐさま、薪能のイメージが頭に浮かんだ。日本の伝統芸能とギリシャ悲劇の融合──なるほど、いかにも合いそうな感じがした。
 だが、特設会場に足を踏み入れた途端、勝手に思い描いていた薪能のイメージは消し飛んだ。火ではない、水だ。舞台に池がある。というより、舞台全体が池なのだ。客入れの間、その池の中を俳優たちが独特のゆっくりした足取りで歩いていて、すでに芝居が始まっているのかと錯覚するほど不思議な雰囲気を醸し出していた。
 なんだなんだこれは。
 文字通り、期待に水をさされたわけだが、今度は新たな期待に胸が膨らんだ。ギリシャ悲劇に水とはまた何ともユニークな。それにしても、この水は一体何を意味するのだろう…。
 あれこれ考えているうちに、ガムラン音楽を思わせる心地よいメロディが流れてきた。その音楽に誘われるように、ごく滑らかに芝居が始まる──と、すぐに違和感を覚えた。俳優は自分で声を出さず、台詞は別の俳優が喋っている。つまり、一人の登場人物を二人で演じているのである。
 もしかしたら、古代ギリシャでは実際こんな風に演じていたのかしらとふと思ったが、これはSPAC演出の手法の一つであることを後で知った。(静岡に移住してまだ日が浅い私はSPAC作品をあまり観ていないので、他にもこのような手法で演出している作品があると知り実に実験的だと思った)
 二人一役の演出法に慣れた頃、前述のような非常に個人的な理由から、私はイスメネにどうしても関心が向いてしまった。もっともこのイスメネという人物、はっきり言ってアンティゴネの引き立て役で、気丈で美しい姉アンティゴネの陰で右往左往するだけの何の取柄もない妹なのである。
 ごく普通の女の子であるイスメネは、アンティゴネの烈火のごとき強さについていけず、兄の葬儀を手伝ってくれと頼まれても「そんなの無理、できな~い」を繰り返し、「お姉様も女の子なんだから男の人の言うことを聞いて大人しくしてた方がいいわよ」などと言って姉の怒りを買ってしまう。そのイスメネは、姉が死罪になるとわかった途端、「私も同罪」と訴えたりする。だがその心は殉教者のそれではなく「お姉様、私を置いていかないで。寂しいから私を一人にしないで~」という、まったく主体性のない女の子の感情であり、姉はそんな妹を心底うざいと思う。状況は別として、姉妹の関係としては現代にもありそうだ。ただ、アンティゴネほど自己主張できる女性は(特に日本女性は)現代だって滅多にいない。それにひきかえイスメネのような女性はごろごろいるし、その意味でイスメネは現代にも通じる等身大の女子像と言えるのである。
 一方、アンティゴネにとっては、クレオン王の裁きさえもうどうでもいい。信念を貫くことでより高みを目指そうと決めたからだ。それは、人の世界のごちゃごちゃを捨て、神の世界に近づくことである。イスメネを突き放し、池の中央に置かれた岩をよじ登るアンティゴネを見ていて、私はそう思った。
 それにしても、水の意味…。
 舞台を高低で見た場合、水から上がって一番高いところへたどり着いたのはアンティゴネである。別の小さな岩の上に立ったクレオン王も水から上がってはいるが、高いところまでは登らない。してみると、水は末端の人間界で、水から上がって高みへ行くほど神の世界に近づくということか。
 芝居が終わり、友人に聞いてみた。
「水はビジュアル的にキレイだったけど、何を意味するのかな」
 友人は言った。
「川でしょ。精霊流し、してたし」
「あぁ、川ね」
 そういえば、ラストは精霊流しの感じだったっけ。
 友人は続けた。
「三途の川かも」
 おお、なんと日本的な!
 伝統芸能に頼らずとも、舞台装置として初めからギリシャ悲劇と日本の文化は立派に融合されていたということか。
 アンティゴネとイスメネとそれを取り巻く人間関係にばかり気を取られていて、舞台いっぱいに表現された死生観こそこの芝居のメインテーマなのをすっかり失念していた。私は、やはり人間世界のごちゃごちゃから逃れられない運命のようだ。
 それこそ悲劇じゃな、というソフォクレス翁の声が、いまにも聞こえてきそうである。