劇評講座

2017年12月26日

ふじのくに⇔せかい演劇祭2017■入選■【アンティゴネ~時を超える送り火~】五感さん

カテゴリー: 2017

賽の河原。
水が張られた舞台を見て第一に、私はつぶやいていた。次に、此岸と彼岸、三途の川。言葉が頭を駆け巡る。ギリシア悲劇、という前情報をもって行ったのに、まず私の脳内を満たしたのは、日本の死生観だったのだ。水はこの世とあの世の境目をあらわす、そしてそこに足をつけ、ゆっくりと歩む役者たち。生と死、というぼんやりとしたイメージを抱いたまま、席に着いた。
しかし、その脈絡のない、ぼんやりとした第一印象、イメージこそが、演劇アンティゴネの根幹と深く結びついていることを、すぐに確信する。確信してしまえば、イメージはイメージにとどまらず、くっきりとした輪郭を持ち出す。
ひとつ目に、冒頭の、僧侶が登場するシーンを上げる。
ここで息を呑んだのは私だけではないはずだ。水のなかを歩くほかの役者と違って、筏に乗って水の上を渡るという、一味違う登場の仕方も目を引くとして、それ以上に。繰り返すが、アンティゴネはギリシア悲劇、外国発祥の演劇である。それなのに、僧侶。私たちのよく知る、袈裟を着たお坊さんが舞台上に出てきたのだから、びっくりだ。首を傾げた人も多いのではないか。ギリシア悲劇と謳っておきながら、なんという斬新な切り口。だが、息を呑んだにせよ、首を傾げたにせよ、興味をひかれた時点で、私たち観客はまんまとSPACの『アンティゴネ』の世界にはまっている。
僧侶は、物語が閉じた最後の最後にも、登場する。暗がる水の上に、灯籠を流し出すのだ。小さなひとつひとつの灯火は、それがいのちの灯──たましいであるかのように、私の目に映った。水の流れは、そのまま時の流れを思い起こさせる。肉体が死した後も、時の流れのなかにたゆたい続けるたましい。この僧侶と水、そして最後の灯籠に、『アンティゴネ』の持つ死生観が集約されていると言っていい。
ふたつ目に、主役たるアンティゴネに触れたい。
彼女は、国家の法に抗い、自らの信念のもとに、反逆者たる兄・ポリュネイケスを悼み、遺骸を埋葬する。たったひとりで。妹のイスメネのとりなしも聞かない、法に背いたことで、国王のクレオンの前に引き立てられても、幽閉の身となっても譲らず、己が信念を貫く。生きていたころは反逆者だったとしても、死してなお、その罪を取り沙汰されるべきではない。骸をさらされ、悪を被せられたまま野に朽ちるべきではない、というのである──人間であるからには。
死者に想いを注ぎ、死者を敬い弔う。死は万物に訪れる。生を受けたからには、どんな立場であれ、いずれは死ぬ。生きていたうちの罪悪は、死によって洗い流される。いかなる理由も、死を侮辱するには値しない。アンティゴネのその信念は、遠く海を、時を隔てた私たちの感覚に、とても近いのではないか。だれに言われなくとも、死者を仏と敬い、花を手向け、手を合わせてしまう私たちの感覚に。
現代を生きる私たちに刷り込まれた悪の定義は、先人たちの歴史、いくつもの時代、社会を経て、結晶化されたものだ。殺人は悪。窃盗は悪。反逆は悪。悪はたやすく罪と結びつき、罪は罰と切り離せない。人間によって定められた悪=罪を犯せば、人間によって定められた罰を受ける。
『アンティゴネ』が、現代に生きる悪の定義を覆せるとまでは、私は思わない。それほどまでに、私たちのなかで悪の定義は凝り固まり、麻痺してさえいる。だが、“私たちのなかで悪が麻痺しているのを知覚させる”にはじゅうぶんだ。私たちの思う悪は、真実、悪か? 人のつくった法律、常識、宗教、それに則った悪でしかないのではないか? そして、その悪は死してなお、人を冒涜するに足りるものか?
アンティゴネは、イスメネやクレオンとの問答、ついには自分の死を以て、観客へと主張する。覆すまではいかなくとも、観客のなかに当たり前としてあった悪の定義に、一石を投じることは間違いない。
アンティゴネという女性は、神を秘めているのだと思う。
盆踊り、灯籠流し。随所に日本らしい要素は織り込まれていた。けれどそれがなくとも、舞台はギリシア、不思議に日本と似て、数多の神を信奉する国である。海を渡って伝わった仏教より古く、神はあらゆるものに宿っている、八百万の神、という神道の考え方が、私たち日本人の根本には、ある。だとしたら、もちろん、人にも神は宿っているはず。
国家の法ではなく、一人の人としての自然に、いのちをかけたアンティゴネ。彼女が人間として生きながら、神秘をたたえて見えるのは、文字通り、彼女のなかに神が秘められていて、死んだ瞬間に肉体から解放され、神の一員となったからではなかったか。そして、国家や時代は違えど、彼女に心を揺すぶられてしまうのは、私自身のうちにも、ある種の神が存在するからではないのか。
そこまでを考えて、再び、僧侶が灯籠を流すラストのシーンがよみがえった。影のように揺れ動く役者たち、静まり返った舞台、観客までもが息をひそめていた。耳が痛くなるような静謐、水だけがわずかに光を反射してさざめく。そこにあたたかく浮かぶ灯籠、神秘的な光景。死者に向かう厳粛さそのものだ。肉体を持たない、たましいをかたちにするとしたら、やはり、ああいう灯火がいちばんしっくりくる。アンティゴネの、ハイモンの、ポリュネイケスとエテオクレスの、クレオンの、私たちの──。
たましいこそが、神と呼ばれるものなのだろう。