2017年12月26日

ふじのくに⇔せかい演劇祭2017■入選■【ダマスカス While I Was Waiting】高須賀真之さん

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未来への祈り―『ダマスカス While I Was Waiting』を観て―

 『ダマスカス While I Was Waiting』(以下『ダマスカス』と記す)を観てまず思ったのは、シリアに生きる彼らもまた普通の人間たちなのだという当たり前のことだった。こんな言い方をするのは語弊があるかもしれないが、しかし日常的に銃声が響き渡るような環境にいる人々というのは自分たちとはどこか違っているのではないかと思ってしまっていたのも事実だ。それこそシリアのことを「遠い国の自分たちとは違う世界の出来事」であるかのように捉えている自分がいた。だが、この芝居を観れば、シリアで暮らしている人々もまたお洒落をし、(ヒジャーブをつけているにせよ)肌の手入れをし、スマートフォンを操作し、音楽を聴き、身内や友の不幸を嘆き悲しみ、喧嘩をし合い、美味しいものを食べれば微笑み、魅力的な女性を見れば「超セクシー」だと思うのだということがわかる。彼らの姿は何も我々と変わるところがないし、彼らの日常と我々の日常がいまこの瞬間に入れ替わったとしても何の不思議もない。まずそのことを痛感させられた。
 次に気づいたのが、日本との奇妙な共通点だ。劇中でも語られているシリアの革命デモ(いわゆる「アラブの春」)が起こった2011年は、奇しくも日本で東日本大震災が起こり、その直後に反原発・脱原発デモが盛んに行われていた時期と重なる。タイムの姉ナダーが劇中でも語っているように、デモに参加することで自分には社会や世界を変えることができる大きな力がある、自分は何だってできるという一時的な万能感を感じた人は日本でも少なくないのではないだろうか(その辺の事情は西加奈子作『i』(ポプラ社、2016年)という小説の中でも描写されている)。そしてシリアでも日本でも共通して言えるのが、デモの挫折であり、その後予想していなかった方向へ事態が進んでいったということだ。シリアでは革命やデモが内戦へと発展し、もはや国外だけでなく国内の人々でさえどうすれば良いのかわからない程の状況となった。日本では原発がなくなるどころかすでに何基かの原発が再稼働をはじめ、福島の問題は置き去りにされたままだ。
 もちろんこれだけの事柄だけで日本とシリアとをおなじ地平で論じるつもりはないし、毎日何人もの人が殺され続けているシリアの現状を、日本にいながらすべて理解しようとするのはやはり難しい。だが、精神的な閉塞感・ギリギリ感というのはどこかで通じる部分があるのではないだろうか。だからこそ劇中語られる言葉たちにはシリアの現状を詳細に知らなくても迫ってくるものがある。特にウサーマの「ここに居ながら遠くへ行きたかった」という台詞は切実だろう。そしてこの「ここに居ながら、遠くへ行く」というのは、そのまま演劇が持つ役割でもある。彼らは演じること、語ることで、ここではない遠くへ行こうとしたのではないだろうか。
 この劇の特徴として、目に見える存在(生者)と目に見えない存在(生きても死んでもいない者)とを同じ空間に同時に存在させることに成功していることがあげられるだろう。類似した手法を用いた作品としてヴィム・ヴェンダース監督の映画『ベルリン 天使の詩』(1987年)があげられるかもしれないが、今回の芝居で特徴的なのは、本来舞台上のベッドで寝ているはずの肉体としてのタイムは観客には見えず、反対に本来目に見えないはずの魂としてのタイムが我々観客には見えているという点だ。また、タイムは劇中の多くの時間を舞台の上方(舞台奥に設えられた高台の上)で過ごすことになる。これは彼がいま生きている人たちとは違う存在となったことを示すと同時に、舞台上の時間軸から解放された状態にあることを示している。
 ひとつ気になるのは、タイトルが「While I Was Waiting」と過去進行形になっていることだ。これは単に過ぎ去った出来事ということを示しているだけではないのではないだろうか。つまり、ある時/ある時点を起点としてずっと待ち続けている状態を示しているのではないか。だとするなら、「While」は現在を含んでいる(なぜなら待ち続けながら<現在>は常に更新され続けるから)し、「Was Waiting」には未来が含まれている(なぜなら「待つ」とは未来に〔未来が〕萌芽するための待機状態であり、いつか<覚醒>することが期待されているから)といえるだろう。このようにタイトルの中に過去・現在・未来が貫かれているのであり、それらを結び付けるのが「生きても死んでもいない」存在たちである。『ダマスカス』は劇中のタイムが映画を撮るという行為でそうしたように、待っている間(昏睡状態の間)に起こった出来事―矢継ぎ早に過去となり、予想もしていなかった未来が次々と訪れ、混濁とした現在を彷徨うこととなったシリアの現状―をおさめた記録であり、そしていつかいまとは違う未来がやって来ることへの祈りである(「Was」にはこの現状がいつか終わったものとなり、新しい未来が訪れるだろうという祈りも含まれている)。
 力強い言葉も特徴的だ。たとえばタイムの「ここは白か黒かしか選択肢がない。だけど僕は青が好きだ」という台詞には詩性(ポエジー)が宿っているし、オマルの「俺は世界を変えられなかったから、自分を変えることにした」という台詞には祈りが込められている(オマルはDJとなり、舞台には音楽が流れはじめる)。これらの台詞は、自分の好きなこと・やりたいことに対して「NO」が突き付けられる世界が迫っていることの裏返しでもあるのだが、それでもなお自分のやりたいことを主張し続けることの大切さや切実さ、必要性を訴えかけている。そして、「自分を変えること」は、小指一本程度の力でしかないのかもしれないが、世界を救うこと、助けることにどこかで繋がっていくはずだ。「人間は変わり得る」はずだし、自分を変えることでしか、舞台に音楽は鳴り響かないのだから。