2017年12月26日

ふじのくに⇔せかい演劇祭2017■入選■【MOON】菅谷仁志さん

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 地球を模した巨大なバルーンが開き切り、私たちはタイトルである『MOON』(=月)にたどりついたことを知る。そこで劇は「終演」。装置に圧倒されつつ、時計を見て思ったのは、予定よりだいぶ早く終わっていることだった。
 予告では上演時間はおよそ90 分。それが、4 月30 日はおよそ75 分で終演した。観客はみんな自由に動いているはずなのに、定刻より早い終演。初めて顔を合わせた人間同士が作る空間を、これほど正確に制御できるタニノの力量に驚きだ。しかし次の瞬間、言いようのない怖さを感じた。「さっきまで地球にいたはずの私は、いつの間にこれほど遠くに『来てしまった』のか」と。

 ①参加型の演劇であること②ヘルメットを必ず着用すること。この2 点以外、私たちは何も知らされないまま『MOON』に集まった。当日の受付をしても、何が始まりなのか、会場がどこかも伝えられないまま放置される。気づけばぞろぞろと集団が動き始めた。後ろの方にいた私はよく分からないまま、とりあえず前について歩く。
 しばらくすると、大量のヘルメットの置かれた広場のような場所が現れた。このヘルメットを誰かが手に取ったら、物語が始まるのだろうか。そんなことを考えているうちに、宇宙服を着た、背の小さな出演者たちが現れた。言葉は一切ない。動きだけで彼らに促されヘルメットをかぶる。カバーをおろすと、外の暗さも相まって、周りがとても見づらい。
 音も聞こえづらい。導かれるように、森の奥へ歩き出す。このあたりでようやく、とっくに本編が始まっていたことに気付いた。
 たどり着いた「野外劇場らしき場所」でも、出演者たちの指示で共に行動する。木枠やバランスボールを観客みんなで運んだ。何がしたいのか私には分からないが、指示されたことが上手くいく度に拍手を求められる。最初は戸惑い半分。しかし次第に出演者と観客の境目がなくなって、全員で協力して指示を成し遂げるのが楽しくなってくる。場が一体になる快感と熱狂に従ううち、気づいたら本評冒頭のクライマックスだった。

 ウェブマガジン「CINRA」での宮城聰との対談の中で、タニノは「相手の人種や性別、言葉もわかりえない状態で、人と人は繋がり合えるのかを考えている」「未来の話しかしなくなった。(中略)それはすごく良いほうに作用している」と答えている。
 恐らくタニノは、何も知らずに集まった観客と出演者とが、言葉すら通じなくても壁を乗り越え、宇宙を旅するように大きな「何か」を成し遂げられる可能性や希望を『MOON』で探っていたのではないか。
 この試みは、見事に成功していた。
 しかし同時にもう一つ、重要な点がある。熱狂の中で私はタニノの用意した「私の知らないゴール」へ簡単に「連れてこられてしまった」のだ。目的が何か分からないまま、集団の一人一人が目の前の役割を無思考にこなしていく。結果として、一人では到底成し得なかった巨大な事態を引き起こす。ハンナ・アーレントが『エルサレムのアイヒマン』で書いた「悪の凡庸さ」そのものが、この空間で起こっていた。
 「協力すればこんなに遠くまで来れる」ことと、「無意識にこんなに遠くに来てしまう」こと。『MOON』では、両方の事実が同時に発生した。希望の中に、ファシズムが誕生する集団の異常性という絶望をも内包してしまっていたのだ。

 加えてここで『MOON』が特異なのは、「観客参加型」の形式上、「観客」の立場で作品に熱狂する私と、「役者」として物語に関わってファシズムを作っていく立場が同居し、危険性が二重に突き付けられる点だ。
 この「観客参加型」の演劇では、舞台に立っていても、台本が渡されているわけではない。いわば自分の意志でエチュードを行っている状態と言えよう。しかし自分が行動を決めているようでいて、実は裏から投げ込まれる刺激で、タニノが決めたゴールに向かってエチュードの反応に無意識にレールを敷かれている。「悪の凡庸さ」をいつの間にか演じさせられているのだ。
 もちろん観客の中にはこの空間に「乗れる」人間も「乗れない」人間もいた。思い切り拍手をする人、迷っている人、何もしない人。しかし、拍手をしなかった「役者」の力だけでは、描かれた物語の流れは止まらなかった。
 そもそも自由が与えられているように見えて、「上演時間90 分」と決まっている。あくまでも私たちは「観客」。上演されるものを観るという立場のまま、参加している。観客に物語の大枠の決定権はない。劇中の「役者」という立場すら、決められた物語の一部。そのことがさらに強固に、無思考になった人間の集団を表現していた。

 こうしてみると、『MOON』の観客は、能動的に見えて、どこまでも受動的だった。いや、違う。もしかしたら、とにかく「タニノの描く世界が観たい」ために、多くの観客が進んで制御されていたといえるのかも知れない。希望の可能性だけに目を向けて、望まない結果だったとしても、能動的に「騙された」と言い訳できるようにしながら。