2018年7月28日

秋→春のシーズン2017■入選■【しんしゃく源氏物語】小長谷建夫さん

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一千年前の時限爆弾

 「なあんもせえへんで、睦月も去(い)んでしもうたえ」とかなんとか、わが夫婦の間では、宮廷言葉(少々怪しげだが)がブームである。
 「しんしゃく源氏物語」観劇のショックを引きずってのことだ。作は榊原政常、演出原田一樹、配役はSPACの面々による舞台である。いやそれを言うなら、ここに原作の紫式部の名を忘れてはなるまい。
 稀代のプレーボーイ、光源氏の女性遍歴と相手となった王朝の女性達の恋々として嫋々たる心情をさらに綿々と綴った小説。そのくらいがこの古典文学の源氏物語に対する自分の認識であった。今回の観劇に先立ち原作の第六帖を読んでみた。いや勿論現代語抄訳であるが。そしてなんと(今更恥ずかしいが)ストーリーテラーたる紫式部がそこにいるのを見出し、月末の観劇と相俟ってわが睦月もそれなりに意義ある月とすることができたわけである。
 さて舞台は、寝殿造りとはいっても半分朽ち果てそうな古邸。中央の板の間には穴さえ開き、その板の間から廊下が下手の奥の間に続く。周囲は鬱蒼とした竹藪が囲んでいる。
 この邸の主であった宮の父親を失った姫は、経済的困窮の中、かつて男女の縁にあった源氏の君をただただ待ち続けている。姫一人ではない。愛とか慰めという姫の望みとは違い、経済支援、待遇改善という現実的な願望があるにせよ、侍女たち全員も君の再訪を待ち続けていることに変わりない。不細工な姫の容姿が、その待つ夢に陰影をつける。
 ドラマは古邸に住む女たちがこの待つ行為の中で、それぞれの本音を剥き出しにしていく物語のようでもある。
 ひたすら姫のことを思いながらも、将来への不安を抱き続けている少将。姫の夢の実現に疑問を抱きながらも侍女たちを叱咤する宰相。すでに夢をあり得ないことと見切りをつけ邸を逃げ出していく侍女たち。現実を見つめ自らの運命を切り開いていく少将の娘・侍従。かつて夫の位の低さにより、宮家に嫁いだ姉から蔑まれた折の意趣返しを目論む叔母。周辺の女性達がみな、厳しい現実の中でもがき、一部は挫折し屈服されていく中で、一人超然と源氏の君の再訪を信じ、あるいは信じたように待ち続ける姫。
 それぞれの際立った個性、その心情の赤裸々な発露を、SPACの女優陣は見事に演じ切った。とりわけ姫役の池田真紀子は、剥き出しの感情表現がない分、のどやかな言葉や小さな仕草の中に、心の動揺や不安を鮮やかに滲み出させた。
 姫は自分の容姿が優れていないことを、いや劣っていることをよく知っている。邸が経済的困窮の中、破綻寸前にあることも理解している。召使たちが時として自分のことを軽んじていることも知っている。
 「文をくれはらへんのは、うちの心信じてくれはる証拠や思うわ」「愛情いうもんは、顔や形と違う・・・心どす」かく言う姫は、逆にこう信じたいと必死に思っているのだろう。姫の純真さに一点の疑いもないだけに、その内なる葛藤に我ら観客の心は鷲掴みにされるのである。
 すべてが破綻しかける最後の段になって、待ち望んだ源氏の君の訪れが現実となり、劇はクライマックスを迎える。
 姫は迎えに出る直前、源氏の君が門の脇の松に絡む藤の花を見て姫のことを思いだしたとの伝え聞きを聞き、それまで自分が忘れられていたという冷厳なる事実を知る。また夢の人物に会うことにより、夢が夢でなくなることもおぼろげながら感じる。迎えに立つ姫の後姿の先に、演出家は美しい満月を掲げた。大きな月を姫の喜びと期待ととるか、あるいは悲しみや不安ととるべきか。 
 原田演出は、ドタバタ劇の要素を加えながらも、各場面の登場人物の動きや立ち位置など絶妙で、視覚的には王朝時代の絵巻物を広げていくような感覚さえあった。交錯する会話やため息はさらにテンポよく小気味よい。
 戦後間もない時期、日本の歴史や文化、民族等への不信の時代に、高校生演劇の戯曲として書き上げられた本作品は、一千年前日本の女性によって書かれた物語を、ほとんど原形を変えずに、傑出したエンターテインメントへと仕上げられている。ああ、その高校生たちはこの作品に出会えて幸せであった。
 この作品は、待つことや夢を抱くことの意味、あるいは女と男の関わりなど、様々なことを当時の高校生に考えさせたことだろう。勿論今だって同じだ。
 そこらを解き明かすのが劇評の役割かも知れない。ところが今の自分には、創作によって、解釈によって、演出によって人々を慰め、励まそうという日本の創作者や演出家たちのミレニアムの繋がりに思いが行き、言葉が出ないのである。
 まさに一千年前に紫式部によって仕掛けられた時限爆弾がさく裂したのだ。冒頭のわが夫婦の受けた観劇の衝撃とは、そのことなのである。