2018年7月28日

秋→春のシーズン2017■入選■【変身】川村創さん

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SPAC版『変身』の快楽

 フランツ・カフカのあまりに有名な短編小説『変身』の舞台化は、非戯曲にも関わらずこの数年の間にも幾つかの上演実績を耳にしているし、不条理文学の古典であるこの寓話が芸術家をいかに惹きつけるかを垣間見る。もっとも著名な戯曲作品である『ハムレット』や『三人姉妹』を上演するのと、『変身』を翻案・上演するのとはどこか違いがありそうだ。『変身』の魅力は、そのストーリー展開にではなくその文体、あるいは、語られる事柄と語られ方(文体)との関係の現代的特色にあるのであって、となるとこの作品は「台詞劇」には向かわず、必然、非言語領域の表現が大きな比重を占めてくることは容易に想像されるのだ。
 小野寺修二は身体的パフォーマンスを駆使して重層的で抽象的な「ドラマ」世界を構築する大きな才能だ。しかしその精力的な舞台創造(量産)によって認知度が行き渡ったせいか、さほど有難がられていないようにも思う。あるいは、出来不出来のある作り手なのか・・。だが少なくとも『変身』は高い芸術性を持つ秀逸な舞台作品になっていた。
 私が小野寺修二監修の舞台を目にしたのは過去2、3回だが、それしきでも見えてくる特徴、それは小野寺流の身体さばきだ。出自が舞踊でなくマイムというプロフィールに合点が行く、「それ自体見た目快楽」な動きとコンビネーションは、記号的で無機質な身体表現によるものだ。人の目を心地よく欺く「マジック」の手さばきに似る。移動する物と人が拡散し、収縮し、ゆっくりと、スピーディに、喧騒と静謐の行き来も緩急自在な空間が、意志そのものに感じられる錯覚を催す。中央に置かれた一見平らで黒い大きな台には、回転式の床や持ち上がる壁など数々の仕掛けがあり、その作動はパフォーマンスの間に秒単位で織り込まれている。台の周囲は闇に溶け、音と照明が人と物の移動のダイナミズムを際立たせる。最大の貢献は場面のニュアンスに絶妙に寄り添う音楽(阿部海太郎)である。上に挙げた数々の「快楽」の仕上げを施すものだった。
 SPAC版『変身』が届ける快楽の大きな部分は、これら身体の所作の組み合わせの集合である「群像パフォーマンス」の視覚的効果である。この快楽に浸りながら観客は「変身」の物語を味わい直すのだ。
 冒頭、大高浩一による小説の地の文に当たる語りが導入となり、「朝起きたら毒虫になっていた」グレゴール・ザムザの物語が始まる。時折登場する語り手は、最後には主人公グレゴールを演じる三人の俳優の一人となり、孤独を体現する。他の登場人物に、父母、妹、女中、職場の支配人、下宿人3名。くすんだ色の衣裳は古い時代の風合いを醸していた。台詞によらず叙述される場面、たとえば、虫の足がもぞもぞと動いている/支配人がやってきて遅刻したグレゴールに苦言をこぼす/グレゴールは言葉を喋ろうとするが奇妙な音にしかならない/実物を目撃した母親が絶叫し、気絶する/支配人も逃げ去る/妹が主に兄の世話をするが、最小限の事しかやらない/かつて好きだったミルクはまずくて吐いてしまう/レタスと人参、新鮮なのと腐りかけとが置かれ、品定めした末に選んだのは腐りかけたレタス/業を煮やした父がリンゴを投げつけ、グレゴールの体にめり込む/人間の感覚を次第に忘れていくグレゴール・・。
 そんな中、差し挟まれる印象的な景色がある。部屋に飾られた額縁に入った絵の女性が、グレゴールのかつての思い人か、あるいは女性への憧憬の象徴か、たきいみき演じる艶やかな若い女性が額から出てゆっくりと歩くのだ。この女性の創出と、妹を二人の女優で同時に演じさせる演出が、今回の『変身』の脚色上の特徴でもある。グレゴールが死を迎えた後のラスト、ついに家を出てゆく父と母が左右対称に立ち、その間にゆっくりと歩み寄る妹には、それまで分離して演じた二人でなく成長した一人の女性(たきいみき)が成り代わる。一枚の絵のような終幕の図である。
 『変身』はあり得ない物語でありながら、日常ベースで描写する事により、人間がこれまで経験しなかった経験をする可能性を想像のレベルで押し広げた。救済が訪れないこの物語には、まさか人間と虫との違いが救済の有無を決めているのじゃあるまい、という反語的疑問が隠されている。人間にとっての善や正しさへの問いが難問となる時代を予言する作品になった。人間の不幸には原因があり、その克服によって人間は前へと進む事ができる・・そんな楽観的な思想は20世紀の圧倒的不平等・不条理の現実の前には根本的に無効で無意味だ。しかし、ある面で不条理こそが人類の普遍的な真理でもあった訳である。不条理な現象がどこか喜劇味を伴うのはそのためだと私は思う。笑うしかない現実を笑い飛ばす力を人は授かっている。