2018年7月28日

秋→春のシーズン2017■優秀■【変身】小長谷建夫さん

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災禍の中変身する娘たち

 フランツ・カフカは「変身」の出版に当たって、表紙や挿絵などに虫の姿は絶対に出さないよう出版社に要請したという。
 私や家内が小説「変身」でイメージするのは巨大なゴキブリである。突然現れ、家族の悲鳴とともに部屋や家具の端沿いに走り回り、そして突然姿を隠す虫。そのくせ時に大胆に壁に張り付き、叩き落される前にぱっと飛んでこちらの顔にぶつかりまた忽然と消える虫、ゴキブリ。
 しかし考えてみればゴキブリは毒虫ではない。毒虫とすると巨大なムカデか。甲虫という訳もあり、ムカデでもなさそうだ。ともかくも舞台上で虫はどのように出現するのか。小野寺修二演出、SPAC出演による舞台「変身」の、これは本質的な見どころとは言い難いかもしれないが、観客の大いなる関心であったことは間違いないだろう。そして私の好奇心とも言える心の深いバケツは観劇後、やや粘っこい液体で縁いっぱいに満たされたといっていいだろう。
 小野寺は大きく平らな箱状の舞台を作り出し、その黒い箱の側面や上面に観客には見えない穴のような出入り口を設け、虫を思う存分這い出させ這い込ませた。とりわけ圧巻は最後の・・・いやいやまだ早すぎる。
 ともかくも観劇後も、もぞもぞと這い回る虫の感触を忘れさせない秀逸の舞台であった・・・なんて結論付けたら即ボツの劇評となるに違いない。
 気を取り直して、真っ暗闇から徐々に明るくなり始めた舞台、佇み蹲る群像が動き出すところから始めよう。
 その中の一人が語り始める。
「ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目覚めた時、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変わってしまっているのに気付いた」
 カフカは、まさにこの書き出しで世界中を痺れさせたのだった。すじは奇抜な書き出しの割に単純で、以下の数行ですむものだ。
 突然虫となったセールスマンのグレゴールは、驚き嘆く家族や、会社を遅刻したことで怒り罵る支配人ら普通の庶民たちが交錯する中で、驚かれ、憐れまれ、疎まれ、蔑まれ、嫌われ、憎まれ、父親にぶつけられたリンゴの傷を悪化させ死んでいく。息子の悲劇に翻弄されてきた父親、母親、妹の家族三人は、ひとまず悲劇の元凶が消滅したことにほっとしてピクニックに出かけるのだった。
 舞台上で主人公グレゴールは、驚愕する家族を前に、時にはドアの向こうから手足だけをはみ出させ。また時には誰にもわからない言葉のような唸り声をあげ、またテーブルの下に潜り込み、さらには幾体にも別れ隅を走り廻り、突然消える。虫の形状は判らなくても、虫の動態は明らかなのだ。
 不思議なことにグレゴールも家族も、虫になってしまった原因を調べようともしないし、医者(何科なのか)に見せる素振りもない。ひたすら隠し、ひたすら引き籠るだけなのである。また家族の悲嘆のわりにグレゴールの悲しみはそれほどでもなく冷静だ。むしろ気の染まないセールスマンの仕事ができずほっとした感じさえある。
 変身したグレゴールが複数の人間によって演じられるのは、家族を思いやり、仕事を毒づく人間としての自分、部屋中を這い回ることに喜びを感ずる虫としての自分などに引き裂かれた精神的状況を暗示するのか。それとも、何本かは明らかにされていないが先の妙に細い多数の脚を扱い兼ねている肉体的状況を示すのか。
 そういえば、原作では一人だった妹も、双子のような二人になって現れる。若い娘ならこんな大事件を前に気分や人格が分裂していても不思議ではない。そしてこの妹こそ、兄思いの妹から虫を嫌悪し憎むまでの心の葛藤を見せつけ、そして・・・次の時代(次の物語)を牽引する役目を担うのだ。
 徐々に虫の意識に同化されながらも、家族への思いやりを残すグレゴールは、ある時妹が下宿人達にバイオリンを披露している場面に姿を現してしまう。その虫こそ、これまで語り部だった大高浩一であり、その圧巻の演技は下宿人ならずとも、観客の度肝を抜くものであった。下宿人たちは怒り損害賠償を要求し部屋を出ていく。ここに至り、妹は叫ぶのだ。
 「こいつは兄さんなんかじゃないわ」
 痩せさらばえた瀕死の虫。そして抜け殻のようになって死んでいく虫。大高は虫の中にわずかに残る家族への思いと、それ故抱く悲しみを演じきった。
 しかし、この物語の最も大事な部分は、ピクニックへ出かけた家族三人の場面であろう。妹は、さきほどまで語り部を引き継いでいたたきいみきである。それまで妹を演じていた二人の若い娘たちはまさに一人の美しい(決してこれまでが美しくなかったなどとは言わないが)レディに「変身」したのである。
 演出家はこの「変身」を昆虫の変態ととらえているかのようだ。たきいがマイクの前で妙な息遣いと歌を披露したのは、変態に至る前の、さなぎの蠕動だったのではないだろうか。
 さて、謂われなき「虫への変身」という憂き目に会い、時とともに憎しみへと変わる家族の心に向き合い、愛する父親の投げたリンゴの傷で死んで行くグレゴール。これを不条理と言わずして何と言おうか。資本主義社会の中で搾取され疲弊していく我々を具現化しているとか、だんだん厄介者にされる被介護者の状況を表現した極めて現代的な問題提起なのだ・・・と言われれば否定する根拠は何もないのだが、小野寺「変身」はより深く人間の宿命・悲しみを思わせるところがある。
 地獄のような心労のなかからも、若い女性は美しく変身していく。夫婦は娘にいい相手を見つけてやらねばと頷き合う。グレゴールにとって最大の不条理とは、愛する家族が未来への希望を掴めば掴むほど、自分が否定され忘れ去られていくことではなかったか。
 戦争の中にも子供は生まれ、災禍の中でも娘たちは次の時代の準備を始める。考えてみれば、これは人類が誕生して以来、果てしなく経験してきたことだ。
 特異に思える「変身」の状況は、人類の周りに、従ってわが身の周りに日々生起しているものなのであった。