2018年7月28日

秋→春のシーズン2017■最優秀■【オセロー】小田透さん

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 平川祐弘による謡曲台本は『オセロー』の事後譚ともいうべき物語である。すべてがすでに終わったところから始まる。オセローはすでにデズデモーナを殺し、自害している。それから50年も後のことである。しかし、ただ単に時間的に後の話というのではない。シェイクスピアが男たちの物語を描いたとしたら、ここで語るのは女たちである。デズデモーナとサイプラスの女たち。彼女たちは彼女たちの生きられた経験を語るだろう。そして彼女たちの記憶は必然的に政治的なものである。トルコ軍に敗北したヴェニス軍は非戦闘員たる同郷人をサイプラス島に置き去りにした。軍に見捨てられた女たちは生きていくために体を売るしかなかった。コミカルな踊りやコケティッシュな振る舞いに偽装されてはいるが、卑猥な言葉遣いから響いてくるのは、戦争の記憶である。こうして最初に登場するヴェニスからの旅の僧が聞かされるのは、彼がおぼろげにしか知らなかったサイプラス島領有をめぐる過去の真実であり、イスラム圏における白人女の現在の窮状である。舞台は歴史の忘却にたいする糾弾にはじまる。
 しかし旅の僧が自らの無知にうちひしがれるとしても、サイプラスの女たちの語る民衆の記憶ともいうべきものも問いただされずにはおかない。彼女たちはヴェニス軍の敗北をデズデモーナの不義と結びつける。こうして彼女たちの語りのなかで、すべての罪は、戦争の前に亡くなったデズデモーナになすりつけられる。あたかもすべての非は不実なデズデモーナにあったかのように。デズデモーナの亡霊が語り始めるのは、こうした二重の誤解を背景にしてのことである。しかしオセローとの愛の真実が語られるところから、物語は再び公的な領域から私的な領域へ、集合的なものから個人的なものへと折り返されていく。
 舞台はこうしてさまざまな領域を横断するが、この不断の往還運動は物語内容を越えて広がっている。宮城聰は舞台のあらゆる要素に断絶と接続を仕込んでおり、そのために能の舞台慣習が創造的に援用される。それはある意味、能と、エリザベス朝の芝居と、モダンな前衛性の対話でもある。舞台装置に頼らない非自然主義的な能の慣習は、セリフによって情景を描き出すシェイクスピア的テクニックと融合する。舞台右手に座った俳優たちは能の謡を受け持つが、それはアイヴズやウェーベルンの音楽のように響く。セリフが切断されて数人の謡い手のあいだで点描的にリレーされるだけではない。フレーズはさまざまな声音や音高でカノンのように反復される。そしてときに加速し、増幅され、聴き手の理解の処理容量を越えてしまう。言葉の意味ではなく、言葉の音そのものが、我々を圧倒していくのである。ナレーションに相当する過去についての集合記憶のようなパートが、ノイズとなることも厭わない輪唱や合唱に任されているのは極めて示唆的であるし、だからこそ、デズデモーナの思いがほとんど彼女ひとりの声と体に委ねられているのは、必然的な割り当てである。能であれば太鼓と笛となるものが、木琴やドラムに取って代わられ、俳優たちによって奏される。分業はほとんど存在しない。俳優は肉体を持つキャラクターでもあれば、アノニマスな声だけの存在でもあり、楽器を奏でるだけの存在にもなる。この意味では、宮城の舞台は、西洋と東洋の対話だけではなく、伝統とモダンの対話でもある。
 舞台は非自然主義的に進んでいく。形式的な要求が劇の流れを分断し、サイプラスの女たちとデズデモーナによる女の悲劇は、男たちによるコミカルな狂言によって中断される。舞台に走るさまざまな亀裂はつねに前景化される。俳優たちの語る言葉の変化は、こうした作為を強く意識させる。様々な言葉の層が使われるし、その発声も異なっており、それゆえ、すべてが日本語で進行する劇だというのに、どこか多言語的な対話のように聞こえてくる。旅の僧は能にふさわしいような古語をいかにも近代演劇らしい誇張された発声で語る。しかしシェイクスピア原作ではもっともシリアスで重苦しいはずのオセローをめぐるパートは、狂言に翻案されてコミカルになる。イアーゴとロダリーゴのドタバタはもはやお笑いの掛け合いのようである。俳優の身体にしても、能の身体技法と近代演劇的な所作が混在している。
 驚くべきは、こうした内容と形式と演出における継ぎ目が、決して不自然に感じられないところだろう。それどころか、こうした非リアリズム的なギャップが、リアリズムでは表現できない繋がりや飛躍を可能にしていく。そもそも、ヴェニス出身の僧がサイプラスを訪れるというのが非歴史的であるし、デズデモーナやオセローたちが着物のような衣装を着ているというのも、リアリズムからすればありえない。しかし、そうした表面的なズレは、シェイクスピア原作にすでに潜在していた亀裂を増幅し、そこから、シェイクスピアの描かなかった別の物語を、別のモードにおいて語ることを可能にする。伝統がモダンに翻訳され、モダンの限界をやすやすと飛び越えていく。シェイクスピアが我々の物語になるのである。他国の過去の話が、あたかも、我々の現在をめぐる話であるかのように思えてくる。大戦中の日本軍の問題、残留孤児の問題、そして、慰安婦の問題。
 だがデズデモーナは歴史を正せるのか。彼女は壺のなかからオセローの手を取り出し、自らの腕にはめ、殺害の情景をリプレイする。それはもはや言葉の領域ではないのだろう。セリフは減り、舞いがクライマックスを形成する。白い着物を美しく広げ、羽根のようにひらめかせて旋回するデズデモーナは、この世ならぬ美しさを体現する。それは公的な歴史も、集合的な記憶も語ることのできない個人の真実を、幽玄な美に昇華させて、この世に再びもたらすことなのだ。しかし、死を生き直すことは、はたして救いなのだろうか。デズデモーナの救いは、今を生きるサイプラスの女たちの救いにならないだろう。デズデモーナの真実を知ってしまった旅の僧はどうするだろうか。劇はそれについて何も語らない。我々は舞い終えて去っていく物言う死者であったデズデモーナを見守ることしかできない。戦争の過去と記憶を、生きられた個人的な真実を、いまここでどう受けとめるか。それはこの劇を体験した我々の仕事である。