劇評講座

2018年7月28日

ふじのくに⇔せかい演劇祭2018■優秀■【寿歌】西史夏さん

 3.11以降、『寿歌』の上演がこれまで以上に活発になっているとは、巷でよく言われる事だ。かくいう私も、本作を観るのは3回目。いずれも2011年以降の舞台である。
 北村想の戯曲では度々歌謡曲が印象的に使われる。『寿歌』といえば、「ウナ・セラ・ディ東京」である。
 観劇の日を指折数えながら、「クライマックスでこの曲をどんな気持ちで聴くのだろう」と何度も心で呟いていた。しかし、その期待は鮮やかに裏切られる事となる。

 まだ明るいGWの夕方、野外劇場「有度」には不思議な光景が広がっていた。
 一面のカラフルなゴミの山に、ぽっかりとメビウスの輪の如き道が浮かんでいる。そこには確かにリヤカーがあり、ゲサクとキョウコの旅路であることを示している。やがて沈みゆく陽の翳りとそれに伴う寒さが、核戦争後の世界とリンクする。
 妙に明るいレゲエ調の「キリエ(Kyrie)」が日本平の森にこだまし、「キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)」と繰り返すなか、物語がはじまった。
 実は、戯曲のト書きに従えば、冒頭「ウナ・セラ・ディ東京」が聞こえている筈である。それが「キリエ」にすり替わっている事に、この時点で私は気づいていない。やがてゲサク(奥野晃士)、キョウコ(たきいみき)に続く三人目の登場人物ヤスオ[ヤソ](春日井一平)が現れる。浮浪者のようなぼさぼさの長髪に、アバラ骨も露わなボロキレを身にまとったその姿は、万人の思い描くキリスト(ヤソ)そのものである。
 このヤスオという男の風体(ビジュアル)をどう描くかは、およそ演出家にゆだねられるところだろう。なにしろト書きには、「乞食のような若い男」としか書かれていないのだから。乞食のようであれば、スーツを着ていてもいいし、ちゃんちゃんこを着ていてもいいのである。宮城聰がここまでキリストを意識した容姿をヤスオに与えたのはなぜだろう。
 『寿歌』が、聖書に深く根ざしていることは広く知られるところだ。青年期の北村が、不安定な精神状態で部屋に閉じこもり書き上げたといわれているこの戯曲には、「自分にとって、神とは何者か」という深い問いが込められている。その問いを体現するものとして、ヤスオがいる。しかしヤスオは、「物品取り寄せの術」という特技はあるものの、ほかには超人的能力は何も無い、弁もたたない、非力さの権化のような神らしからぬ男である。さりとて、「神らしい」とはいったいどういう姿を指すのだろう。現世の神は、原爆の投下に、あるいはパレスチナの紛争に、シリアの難民に、何かしてくれただろうか?
 道中、キョウコはアマガツを発見する。子供のお守りであるこの人形のそばには、子供の死体があり、きっと親の姿もあるだろうと、ゲサクは白米をよそいながら平然と答える。悲惨な現実を見せられて、ヤスオは成す術がない。
 その時、ゴミの山からホタルがふわりと現れる。アマガツの化身であるホタルを、ヤスオはゲサクとキョウコと共に眺めるのである。一匹のホタルは、彼らの心のなかで光の渦となり、荒野に広がってゆく。キョウコの言葉を借りれば、百億のネオンサイン、千億のイルミネーチャンである。
私たちが神を感じる瞬間というのは、こういう時かもしれない。神は傍にいる。気配も感じる。しかし、死者は蘇らず、奇跡を起こすことはない―
 劇中、ウサギの話が登場する。
 行き倒れた主人を救うために、ウサギは自らの身体を丸焼きにして食事として供する。その命を賭けて報いた仕業をゲサクは、「せいぜいがエサになることやったんや」と言い切る。更には、<人食い虎の穴に落っこちて、虎に勝つ方法>として、「虎に食われる前に食わせたるねん」と伝授する。命がけというのは、せいぜいそんなものだと―
 
 世界の悲惨な状況に対して、芸術が出来る事は何だろう。
 作家も、演出家も、演劇で世界が変わるとは思っていないのではないか。神が世界に手を下せないのと同じように―
しかし、人々の暮らしのなかに、寄り添うように光を届ける事は出来る。
ときにそれは、「百億のネオンサイン、千億のイルミネーチャン」のような灯火を、ひととき胸の中にもたらす。ある意味、心の奇跡と呼べるだろう。
私は『寿歌』という一片の詩のなかに、命がけで演劇という分野に身を投じ、「せいぜいそれくらいのことしかできない」と自戒する、北村想と宮城聰という二人の演劇人の姿を重ね観た。

 ヤスオが去った後、モヘンジョ・ダロを目指すゲサクとキョウコ。
 「待つ私うたう寿歌」と、キョウコが歌う。生きるとは、いつか現れるかもしれない神を待ち続けるひとときの時間なのかもしれない。―さて、それまでどのようにして時間をつぶそうか。待っているうちに死んでしまうかもしれない、けれど、待たないよりは待つ方が、いいヒマツブシになるのかもしれない。
 物語は終わりを告げようとしているが、ト書きに書かれた「ウナ・セラ・ディ東京」は聞こえない。ただ、「キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)」という祈りの声だけが、束の間、神と共に歩んだ我々観客の上に降り注ぐ。まるで生きる歓びをたたえるかのように。
 古典戯曲には歴史の経過と共に様々な解釈がもたらされ、新演出を人々は期待する。風雪を経て幾度となく上演されたこの戯曲は、おかしな日本語ではあるが、現代日本演劇の古典なのだ。この夜、宮城演出によりこの事実は決定的になった。ト書きの変更は、古典戯曲にのみ許される、演出家からの一筆啓上である。
 「有度」は夜。まるで氷河期でも来そうな寒さである。「ウナ・セラ・ディ東京」は聞こえない。しかし、と私は思う。<ウナ・セラ・ディ>とは、夕暮れの意味。夕暮れは既に、日本平の森の中に訪れていたのである。