2018年7月28日

ふじのくに⇔せかい演劇祭2018■入選■【夢と錯乱】高須賀真之さん

『夢と錯乱』―存在を解体する―

 観客はまず暗闇を共有しなければならない。
 いつまでも続くかに思える暗闇。あるかないかわからないわずかな光のなか、ひとりの人間がしずかにゆっくりと、だが着実に空間のなかで動きを刻む。光は少しずつ明るくなるが、完全には明るくなることはない。男の身体は残像のようにはっきりと捉えることができず、その存在すら危うい。男の吐き出す詩句は口から出た瞬間奈落にのみ込まれるように暗闇のなかに消え去っていく。ここでは言葉が響き渡るということはない。男の手はなにかを求めるように宙を漂うが、抱きしめるのは虚空ばかりでつかみ取れるものはなにもない。やがて舞台は燃えるように紅く染まり、そしてふたたびすべては闇のなかに消えていく。
 クロード・レジ演出『夢と錯乱』では、存在することよりも、存在しないことを要請される。夢のなかの出来事のように確固とした輪郭もなく、それでいながら着実に止めようもなく物事は進んでいく。『トラークル全集』(中村朝子訳、青土社、1997年)によると、原題の「夢と錯乱」の「錯乱」Umnachtungは「暗闇につつまれた」umnachtenの名詞形とあるが、そうであるなら「暗闇につつまれた」、闇に支配されたかのようなこの劇空間そのものがはじめから錯乱していたといえるだろう。また、トラークルの「夢と錯乱」には<火>のイメージが何度となく出てくるが、この<火>は闇を払拭し存在を確かにするものではなく、むしろ闇を際立たせ増幅し、存在を錯乱するようなものとしてあらわれる。この舞台に確かなものがあるとすれば、それはこの存在の錯乱、たしかに存在しているのに、それでいて存在することができない存在だろう。
 劇中、男が溜息とも呻きとも叫びともつかない声(息)を断続的に漏らすが、この声はたとえば萩原朔太郎の詩「遺伝」中の有名な一節、「のをあある とをあある やわあ」を想起させる。朔太郎の「のをあある とをあある やわあ」は飢えた犬の吠え声であったが、であるならこの男の嘆息は存在への飢えによる叫びではなかったか。あるいは野見山朱鳥の句<曼珠沙華散るや赤きに耐へかねて>にみられるような、自らの存在に耐えかねて漏れ出た声であったかもしれない。自分が存在していながら存在できていないことへの怒り。あるいは存在できていないにも関わらずどうしようもなく存在してしまっていることへの絶望。それはそのままトラークルの人生と重なる。そして存在することと存在しないこととの宙吊りは、若きアントナン・アルトーの“je n’ai pas la vie!”(わたしには生がないのです!)という叫びにも通底している。トラークル―アルトー―クロード・レジ。闇からの叫びが世代を渡って受け渡される。
着実な破壊は静謐のなかで進む―これはかつてトヨダヒトシの作品を観たときに感じたことだ。トヨダヒトシは写真家でありながら写真を現像せず、巨大なスクリーン上にスライドショーとして写真を投影する手法を取る。スライドショーといっても最新のプロジェクターは使用せず古式の映写機を使用するため、スクリーンに映し出された写真はしばらくの間ピントが呆け、像を結ぶまでにしばらく時間がかかる。また、映写機の構造上写真をスライドする度に暗転(暗闇)が差し挟まれる。つまりトヨダヒトシの作品では、撮られた写真が一度解体され、暗闇の中からふたたび像を結ぶというプロセスを辿る。それは真っ暗な会場のなかで、とても静かに行われる。暗闇のなか、一枚の写真がピンボケしながらぼうっとスクリーン上にあらわれ、いくらかの時間をおいて像を結ぶ。だがスクリーンに映し出される写真は現像された写真に比べどこかつかみ所がない。そしてふたたびの暗転・・・。観客はあたかも破壊と再生が静謐のなかで着実に進む過程を目の当たりにすることになる。
 『夢と錯乱』においても、トヨダヒトシの作品に触れたときとおなじような感覚に襲われた。つまり、存在していたものが一度解体され、ふたたび像を結ぶという体験。実際、舞台の最後のシーンでは、暗転の後につよい光が男を照らし出す。全編をとおして最もつよい光であり、観客ははじめて男の姿を明確にとらえる。彼は「暗闇につつまれた」舞台のなかで一度破壊され、そしてふたたび像を結んだのではなかったか(とはいえ彼が生きているのか死んでいるのか判然とはしないのだが)。出演のヤン・ブードーは「ふたたび光を見出すためには、一度死を経験しなければならないときもある」と語るが、それはとても静かな過程を経なければならないだろう。なぜなら、着実な破壊は静謐のなかでしか進まないし、着実な破壊を通してしか、その果てにある像には辿りつけないだろうから。ヤン・ブードーはまた「暗い部分、侵しがたい部分へと潜らなければならない」とも語っているが、それはつまり、一度存在しなくなるという形でしか存在できない存在へと至らねばならないということではないか。そう考えると、会場が「楕円堂」という地下へ降りるような構造であったことはとても象徴的だ。『夢と錯乱』という体験をするために観客はまず「暗い部分」へと潜らなければならず、そして「ふたたび光を見出す」。そうであるなら、冒頭の一行は次のように書き換えられねばならない―観客はまず存在しないことを共有しなければならない。