劇評講座

2012年11月9日

■依頼劇評■『平らかなる昂揚、の果てに 宮城版「ナラ王の冒険」評』柳生正名さん

■劇評塾卒業生 依頼劇評■

平らかなる昂揚、の果てに
   宮城版「ナラ王の冒険」評

 柳生正名

 まごうかたなく、それは祝祭だった。演劇という祭が持ちうる力の大きさに感嘆し、ある意味で畏怖を感させられるほどに―6月の静岡県舞台芸術公園野外劇場。有度山麗の木々を背景としながら、舞台は6メートル四方そこそこ。そこに、ゆうに20人を超える演者全員が上がり、宮城聰演出「マハーバーラタ〜ナラ王の冒険〜」は大団円を迎えていた。
 舞台が発散する熱気に手拍子で応える客席。その昂揚を目の当たりに、遥か昔、小林秀雄訳で読んだランボオの一節が思い出された。
 嘗ては、若し俺の記憶が確かならば、俺の生活は宴であった、誰の心も開き、酒という酒は悉く流れ出た宴であった。
 今回の舞台を一見して気付く点―それは登場人物の出で立ちが、およそ白一色だったことだ。古代インドの物語が平安朝に伝播し、演じられた、との設定通り、主人公二人を含めた王族は束帯・十二単、神々は伎楽風の仮面をまとう。ただ、装束の色使いは当時、身分などで厳密に決められており、全員が純白の衣ということはありえなかったはずだ。
 さらに、装束の素材はすべて紙のように見えた。小道具やコロス演じる獣の着ぐるみ、木、果ては炎も同様で、舞台全体がほぼ白一色に塗り上げられた印象だ。
 ふと思い出されたのは現代美術作家・村上隆が提唱した「スーパーフラット」という概念だ。日本の伝統絵画から漫画・アニメにまで共通した平面的、二次元的な絵画空間を意味する。省略と余白が多用され、遠近法や陰影など立体感の表出が控えられる結果、表現上の装飾性、遊戯性が増すのである。
 さらに、そのフラットさには日本社会の階層性の薄さとの関連が指摘され、また、ポップアートの旗手アンディ・ウォーホルが自作について「裏には何もない。表面だけ見て欲しい」と述べたのと同様、本質/表層という図式を根本に据えた西欧的世界観・芸術観へのアンチテーゼを読み込むこともされる。
 アニメに代表される日本のサブカル製品が、海外で熱狂的なファンを得ていることは、今や常識だ。村上が制作した漫画風の絵画やアニメのフィギュアさながらの立体作品も国際的に高く評価されている。
 今回の演出について言えば、能を思わせる橋掛かりを取り入れ、自然林を借景にするなど、野外劇場の奥行きを積極的に活用する。ただ、全体を白一色としたことで、観客はあたかも鳥獣戯画や北斎漫画などの線画を観る感覚を味わっただろう。これに、歌舞伎、狂言や神楽を思わせる様式的で身体の垂直軸を意識した所作が加わり、日本的で「フラット」な世界観が体現されていた気がする。
 さらに、印象的だったのはコロスが演じた聖なる木や森の造型だった。本作はそもそも、宮城演出の特色である所作役(ムーヴァー)と語り役(スピーカー)の分離を基調とする。コロス役のムーヴァーが白一色の群体をなし、枝が風にそよぐさまなどを、しなやかな腕の動きで表現してみせた。その美しさは際立っていたが、日本人からみると演出自体にさほどの発想の飛躍は感じない。古来、日本では神も、人も、さまざまな動物、植物、果ては岩や山川まで、ひとつの命を分け持つというフラットな形のアニミズム思想が根強いためだろう。インドからもたらされた仏教が、この国に根付く過程で「山川草木悉皆成仏」という独自の命題を掲げるに至ったほどに。
 もちろん、ナラ王の物語の中にもアニミズムはある。蛇と人が語らい、神と人が一人の美女をめぐり恋のさや当てを見せ、といった具合だ。ただ、インド文化の枠組みは、意識作用を持たない植物や無生物に解脱、つまり成仏はありえない、という立場を取ると聞く。
 実際、ナラ王物語の原作を読むと、ダマヤンティー姫が無憂樹に話しかける場面があるが、樹自らは言葉で応えない。ヴァーフカに身をやつしたナラ王がサイコロ賭博の奥義を巡り、リトゥパルナ王と問答する際には、今回の舞台ではシクンシの木にどれだけの葉や実があるか、瞬時に見極めるために「木全体を見よ」と深遠な哲学が語られた。ただ、人間という主体に対し、木はあくまで観照の対象という客体的立場にとどまる。
 インド文化では人間界にカーストが存在するのと同様、自然界にも明確な階層が存在する。日本人ほど、木と人間は一体とは思わず、木を人間が演じることも自然とは感じないのではないか。
 そもそも、この物語では登場するすべての存在が、自らの階層から逸脱することはない。物語の中で結ばれるナラ王とダマヤンティー姫は王族同士。王と生き別れ、森をさまよう姫を呑みこんだ途端、にしきへびは狩人に腹を割かれ、その狩人は姫に身分違いの懸想をした途端、絶命する。王と姫がさまざまの試練を受ける羽目に陥る直接の原因、言わば、物語の根本動因も、人たる姫を神たるカリが階層を超え、横恋慕したことだ。このように、すべてが自らの階層にとどまることを指向する物語と、すべてを均質な白に塗りつぶすフラットな発想と、本来はひとつの舞台上に両立しがたいはずである。
 であるがゆえに、そういった異質さの境界を取り除き、薄っぺらな表層に伸ばすことで生まれる、本質/表層の別が曖昧化する感覚。それこそ「誰の心も開き、酒という酒は悉く流れ出る」祝祭性の本質ではないか。
 ここまで、宮城版「ナラ王の物語」は白一色と言わんばかりに論じてきたが、実は、登場場面は限られるものの、強いアクセントを放つもう1色が存在する。それは「赤」だ。
 カリ神に憑かれたナラ王が、弟プシュカラとのさいころ賭博に我を忘れる場面、コロスは勝者を白と赤の手旗で示す。ナラが白、プシュカラは赤。いずれが勝つか見極めようとする群集の姿が、平安末期の源平合戦で右往左往する貴族を髣髴とさせた
 それ以上に、赤が重要な意味合いを帯びるのは、ナラ王とダマヤンティー姫の結婚直後のこと。民草をよく養う王にふさわしく、狩られた猪をナラ王が手際よくさばき、みなに振舞う。結婚の際に神々から料理の奥義を授かったことを受けてのエピソードだ。舞台で、獲物となる紙の猪は外面こそ白いものの、包丁を入れられると、飛び出す絵本よろしく、背が割れ、中から紅の扇のような肉が取り出される。これを王が箸でつまみ、姫の口に運ぶ仕草は、白い世界のなか、赤の存在が印象的でエロティックな隠喩にさえ満ちていた。
 これが終幕近く、計略により呼び寄せたリトゥパルナ王の撲、醜い姿に変化したヴァーフカを、姫がナラ王その人と知る伏線にもなる。調理した焼肉の味で姫は正体を見破る。
 さらにナラ王に取り付いていた悪神カリは、王がサイコロにまつわる奥義を会得した瞬間、その体内にとどまることができなくなり、飛び出す。そして、呪心の象徴である赤い手ぬぐいを放り投げると、その場を逃げ去る。
 日本で紅白と言えば、祝事を表象し、「日の丸」色である半面、切腹の正式な作法は御白州で白装束をつけて、という具合に死と生が交錯する危うい美学もはらんでいる。今回、肉にこの色が与えられたのは、バラモン教定着後のインド、さらに仏教を通じその影響を受けた日本でも、肉食に負のイメージが負わされてきたことを受けているのかも知れない。インドでは現在もバラモン階級の多くが菜食を貫いていると聞く。
 そして、逆説的だが、そういう背景があってこそ、大団円で、善神も悪神も、王族も平民も、食べる側も食べられる側も、ありとあらゆる存在が、あらためて白一色に立ち返ることの圧倒的な昂揚感が生まれてくる。際立った存在感を持つダマヤンティー役のムーヴァー美加理やスピーカー阿部一徳も含め、主演、助演、コロス役の区別無く、舞台に上がり、ひとつの台詞を一糸乱れず斉唱する演出は、橋掛かり脇で民俗音楽風の曲を奏で続ける演者、手拍子で応える客席、さらには背景をなす自然の木々も巻き込み、巨大な祝祭空間を作り上げる。ここでみられる昂揚の基盤は、「スーパーフラット」に通じる美学によって形づくられたもののように思える。
 舞台上の全員の口から唱和される、その台詞は、和歌や俳句さながらの七五調だった。背景に流れる音楽は、各奏者が国籍も由来も雑多に寄せ集められた楽器によってまちまちな拍子を奏でつつ、全体として調和をなすポリ(複)リズムを基調としたもの。その上に、日本伝統の韻律が完璧に収まり、多様な文化の階層を取り払って、人々の心を昂揚させるさまは、魔術的な宇宙の出現を思わせた。
 宮城によれば、製作過程で作曲サイドからは、音楽的にあまりにのっぺりしたその台詞回しが問題にされたという。結局、「台詞が完璧に合うこと」を重視し、七五調での上演となったが、それゆえ、フラット性が最上の形で舞台に具現されたのではないか。
 ここまで、演出の側面から宮城版「ナラ王の冒険」のフラットな側面を焙りだしてきたが、もうひとつ、物語構造についても考えるべきかもしれない。原作と対照した場合、宮城版の台本は冒頭部分の重要なエピソードが省略されている。
 実はナラ王が、深窓の姫ダマヤンティーに直接目通りできたのは、使者として彼女に神々の求婚を伝える任務を負ったためだ。姫は決断の鮮やかさと冴えた機知で、神の祝福を巧みに取り付けつつ、意中のナラ王と結ばれる。が、結果的に神の求婚をはねつけた姫への恨みは残る。これがカリという悪神に具現化され、王との生き別れという結果を招く―これが、二人の冒険譚の前史となる。
 物語をつむぐ立場からは通常、神の意思を拒絶した結果、人間がさまざまな苦難を味わう―そんな展開こそ、一番おいしい部分と映るはずだ。しかし、今回の演出では省略され、舞台は神々が二人の結婚を祝福する場面から始まる。その分、登場人物のさまざまな言動の裏に根本的原因を仮定し、それが何かを探る、という西欧流の鑑賞姿勢をとると、この筋立てには物足りなさを感じざるをえない。
 つまり、動機→行為という図式の上に成り立つ心理的遠近法の立場からは、この舞台の主人公たちの言動は平板で、時に不条理だ。しかし、だからこそ、そこに生の人間性が投げ出された実存の生々しさを見出すこともできる。動機/行為、本質/表層という人間中心の視座にとらわれ、森羅万象を包み込む宇宙観を描き切れない近代の物語との対比で、むしろ、そのフラットさに可能性を感じる―2006年、この舞台がパリで絶賛を博した理由も、ひとつはそこにあっただろう。
 ただ、こうしたことを、例えば「フラット」性に集約される日本文化・社会の優越性というような方向で論じるのは大きな誤りだと思う。この概念自体、頭に「スーパー(超越的)」の語が冠されるように、実は醒めた視線による自己批評性―そこには日本社会の階層性の薄さのみならず、消費文化の薄っぺらさや横並びの風潮まで読み込まれた―が前提されたはずだ。そうした点を捨象して「フラットな日本の賛美」に走ったりすれば、近くは1980年代のバブル経済が、国民全体を巻き込む総上流志向というフラットな風潮として現われた愚を繰り返しかねない。
 一部愛好家にのみ受容される現代演劇の枠を脱し、言語という障壁も乗り越え、よりフラットな世界との交わりとしての祝祭性―今回の舞台が、そんな思いに裏打ちされたものだったことは間違いない。ただ、決して安直な伝統回帰には向かわず、単なるエンタテインメントに終わることもせず、むしろ、そのフラットさを極端(言い換えれば超越的)な形で示す―それによって、例えば昨今、格差拡大が叫ばれる一方で、「絆」なる言葉が多用されるがごとき、妙に平ぺったい風潮への醒めた批評性を感じさせる性格のものだった。
 ちょうど、ほとんど白一色の舞台上、「酒という酒は悉く流れ出る」大団円の昂奮の中でも、それまでに、さりげなく、しかし緻密に配された「差し色」赤の視覚的記憶が強烈な違和感を放ち、「すべからく、醒めつつ淫すべし」と耳元で囁き続けると思われたように。個人的感慨ながら、それは、ランボオが、未開の祭儀さながらの混沌の美に満ちた自らの詩業に幕を下ろす、その最後に「断じて近代人でなければならぬ」と書き留めたことと、どこか通底する気さえする。(了)
(以上敬称略)