劇評講座

2012年11月8日

■準入選■ 【「おたる鳥をよぶ準備」雑感 】柚木康裕さん(構成・演出・振付:黒田育世)

■準入選■

「おたる鳥をよぶ準備」雑感

柚木康裕

 舞台とはライブである。そこに演者がいて初めて成り立つ。ライブであるということは、繰り返すことができないということだ。たとえ何度再演されても、その時のその場所での舞台は二度と現れることがない。この1回性が醸し出す緊張感、このユニークネスこそが舞台の面白さだと思う。この事実は今日素晴らしかった舞台が明日もまた素晴らしいと言い切ることは出来ないことを意味している。最良の舞台のためにどれほど備えをしていても、時に舞台の印象を決定的に替えてしまうようなハプニングが起こることもあるだろう。たとえばそれは野外舞台での雨である。

 SPACふじのくに⇄せかい演劇祭の最後をかざったダンス公演「おたる鳥をよぶ準備」はこのユニークネスでは突出していたのではないだろうか。世界初演であること。今後3都市を巡回するが野外公演は静岡だけであること。さらに演劇祭のプログラムに目を向ければ、一日3演目あるうちの最終演目だったこと。つまり観劇者のなかにはこの日3本目という方もいたこと。そして千秋楽だった日曜日の公演に雨というハプニングが加わったこと。まさに今しか経験できないことが揃った。これこそライブの醍醐味である。

 とはいえ、雨中の観劇は勘弁というのが本音である。オマール・ポラス「春のめざめ」を観劇後さらに3時間の長丁場に集中力が続くのかだけでも不安だったが、悪いことに追い打ちを掛けるような雨である。雨粒がカッパを通して身体を打つ。正直言って始まるまでは心が折れていた。だがしかし始まってしばらくするうちに雨降りの舞台を愉しんでいる自分がいることに気が付いた。(子どものようだが)雨など一度濡れてしまえばどうということはない。雨に濡れながら踊るダンサーを観ていると心が回復しだし、次第に舞台に集中していった。

 もしかしたら雨はこの舞台に良い効果を与えているのではないだろうか。
 (雨も舞台装置としてあらかじめセットされていたのではないだろうか)

 黒田育世率いる女性だけのダンスカンパニー「BATIK」の名前は知っていたが、舞台を観るのは初めてだった。YoutubeでBATIKのダンスを垣間見たが、今回の「おたる鳥をよぶ準備」もBATIKらしい舞台といえるようだ。ダンサーたちの力強さは驚くべきもので、大声を張り上げ絶えず動きまわる。確かにダンスを褒める時に使う華麗という言葉は見あたらない。しかし洗練という言葉なら与えることは出来るだろう。身体性、・スペクタクル性、物語性、ループの使い方、それらを支える松本じろの創り出すミニマルサウンドが合わさり現代性あふれるダンスに仕上がっているように感じた。ただしこの現代性とは常に細分化された結果として表れてくるので、好き嫌いがはっきりと分かれることになるだろう。大衆が楽しめるには社会全体で共感できる価値観が必要だが、相対化が進む社会では価値観も細分化され共感の幅も自ずと狭くならざるをえない。

 1877年(明治10年)初演だったクラシックバレエ「白鳥の湖」はこれまで多くの共感を集めてきた。それは優美で華麗な踊りと音楽の成果だが、同時に勧善懲悪的な対立項が分かりやすく示された物語だったからだろう。王子と悪魔、白鳥と黒鳥のように。そしていつでも大衆は王子と白鳥の立場に付く。美しくみられたいという願望を投影し、常に王子を探し、白鳥に憧れてきた。だが2012年の今、舞台上には「おたる鳥」がいる。

 「おたる鳥」とは黒田育世の造語で「満ち足りて体が動き出すこと」という意味だそうだ。「おどる」の語源といわれている。まさにこの舞台はそれを体現しているような舞台だ。激しく、執拗に踊る。少女たちは白鳥になりたいのではなく、王子様も待ちはしない。なぜならもうすでにそれらが失われていることを知っているから。彼女たちは内なるおたる鳥を呼び寄せるために踊る。その時に美しく「おどる」必要はない。なぜなら「おどる」ことそれ自体が美いのだから。3時間に及ぶ舞台を見ながら、私はそう感じていた。

 雨はなかなか止まず、結局終わりまで降り続いた。時折その雨が効果的に舞台へ介入していた。雨がなかったらどんなふうに見えていたのだろうか?屋内でも今日の野外公演以上に素敵なものになるのだろうか?確かめるためにはもう一度観るしかない。きっとその時はまったく違った「おたる鳥」を体験することになるだろう。